第7話

 ニーチェがキリスト教に反対するのは近代に反対するのと同じ意味しかない、という小林秀雄の言葉を考えてみる。それはに対するルターの恩寵の態度のことであると仮定しよう。この恩寵が資本主義の核心と何らかの意味で共謀しているということを主張したヴェーバーの問題。この問題を次のように誤解してはならない。つまり資本主義の起源はキリスト的身体性であるとか資本主義が発明されたのはキリスト教的な文明においてであるとかいう史的唯物論の態度である。むしろ問題なのは苦痛に対する態度が宗教的な苦悩を担う態度と職能において同一視されるカント的な格率が理念的な普遍性になることへの違和感なのである。このことはカントが倫理的態度において善い意志以外にはいかなる具体性も道徳的でないという宗教的な考えが現象的な主観性で収斂されることとヘーゲルが個人の社会性として定義する人格の無限の可能性にまつわる実定法理解に絶対の自己存在が規定されることに関してマルクスの転倒が加わることで労働力の疎外された自己表現の美的身体性から偶然的な生成の廃棄を性的な症候から自己産出すると言う享楽にまである具体的な成果が連続した未完成の追想的な手仕事的として協働が現前しているということにおいて完全に一致している。この態度にスピノザやライプニッツは反対しているというべきなのか。もしこの観点が自然性に関する認識の協働ということにあるのなら、そしてこれが唯物論的弁証法がいいたいことのすべてなのだが、真理に対する普遍性に措いてその自然法的な契約と一致するという点でヒュームの経験的な協働が常に社会的継承に措定されてあるという態度に対して反対するだろうということなのである。つまり宗教的な形態が問題なのではなく宗教が生み出される自然的基底が創造の源泉としての原価値を所有の形式とは別に有するという知恵であり形態学的な自然性に対する観照が社会的利害関係と共通する契約的基盤を闘争の原基底から免算するという創造の芸術的派生はそこから生まれていくる。だが経験的基盤がここから演繹するのは進化論的な派生が技術的消費にまつわる個人の内面性を道徳的な協働とは無関係に経済的に淘汰選別するという競争の身体的連接に関する科学性である。マルクスの科学性に関する理解はこうした面を明らかに含んでおり技術的発展における労働の苦痛や内面性の苦悩は特定の社会段階における搾取や道徳的不正にその根拠をもっておりその苦痛や苦悩を教会は宗教的に分離して保養するようにしむけるから牧師的態度は有害で経済的利害関係に関する幻想のみせかけの支配を金利と同様に維持しようとするというわけである。見せかけを暴くものとしての科学を考えるときそれを思弁性の自己展開と考えるヘーゲル的な理解に完全に汲みつくされることができない実体が微分的操作には内在しているというべきなのだろうか。ヘーゲルは宇宙の科学性に関する形態的探究は反自然的であるという無限性によって内在的な自然性という無限に垂直的に対立する。では労働の組織化という生産の自己規定についてはどうなのか。経営的な所作の抑圧に関してもそのようなことが言えるのか。もしヘーゲルのいうことが全く単純に実体性に関する思考の取り違えを言説に関して行っていると指摘するだけなら形式的にはまったくその通りだといえるだろう。しかし近代に対するヘーゲルの政治性という観点からいうと微分的な実在に存在の根拠を与えるための表現はヘーゲル的な自由の脱自と即自の否定の観念の運動にしかありえないということになる。これを弁証法と単に切って捨てることができない理由はそこにある。形式を論理実証主義と同じと考えてヘーゲルの形式を通過するとそこから出てくる回答は決まって「反資本主義闘争」という資本の自立性に関する問いにしかならない。つまり資本を純粋に思弁の抽象的操作と実証性の論理にのみ依存するようなそういう種類の非形態性なのである。この問題の回帰は装飾のモードと多様性がコード化される際の様式が完全に流行にプログラム化された綱領として労働から分離するきまぐれを思いやりと対立する行為として差異を反概念化にするときにも起こる。対立はどうも資本の観念性に措いてではなく宇宙の無限を科学的に探査するときの潜在力としての経済的諸力と手仕事的な労働の観念が自然の創造的源泉から形態的一致として引き出されてくるのだという潜在的把握との宇宙論的基盤がその世界性に関して和解できないということにあるようなのだ。しかし両者が一致するのはその創造の起点となる人間的な協働が行われるのが資本主義においてであるということである。


 ここでウイルスの集団感染という問題を考えてみよう。ウイルスは創造の自然的原基底から発生する質量性でありその協働性は社会的な通過の協働から病気として現前する。しかしウイルスは形態的探究の対象として理解するよりは科学の抽象的コード性にまつわる論理性からその性質が決定されるような運動の潜在力でありそれはまったくといっていいほど人間の苦悩の存在理解の形式ではなく経験的な継承からその認識の派生が明らかになる社会問題のひとつである。それは共生という世界圏とは両立しないが感染した人間との共有という社会的協働性を誘発する原因として強力な技術的配置でありそれを道徳的な認知の形式として把握することも単に科学的判断の説明として政治性にゆだねることもできない。ウイルスを経済的抑制のマイナス要因としてのみ考える見方は政治主導という要素を官僚的に指導するという位置づけが金銭的な配慮からどのように正当化されるのかという道筋を見つけることができない。ウイルスを世界内存在の退隠から偶然の委ねとして同じ身体の死の受肉を思想化するには潜在敵という共同体に防疫の施行を促す排除政策の一環ということになってしまうだろう。つまりウイルスへの態度を職能のわざの機能と関連付ける限り道徳的な内在は必然的なのである。ある検査の有無は人間の道徳的内在とは関係ないが検査が病気の内在性として身体から分離することにはいかなる探究の留保もなく検査を行うことの道徳的選択しかない。検査を行うことも行わないことも人間の自由として存在すると主張すべきだろうか。これは政治的主張でしかありえず個人の身体的黙秘の位置と同じではありえない。ありうるのは検査が遅れていることに関する物質的理由しかない。この問題に関して不正な富で友を作りなさいというイエスの言葉のように対応すべきだろうか。数学的形式の配置は完璧でありすぎてはならない。そうすれば忠実さに関する信頼の要素に関する重大なものを金銭的な大小の抜け目なさと同じように扱うことになってしまうと。それと同じように政治的な忠実さとはあくまで友愛の忠実さでなければならず技術への忠実さであってはならないと。では日本における友愛を政治的に考えるべきなのか。結局それは技術提供の優遇措置が法律の不正に関して猶予するような連携を強化するだけであると。こうして集団感染への検査とは資本の抽象的技術操作の身体性への介入であるという反資本主義闘争と全く同じ配置を見出すのだ。ニーチェが道徳を感染の様態と考えていることの意味はまさにそこにある。悪しき感染性に擬態した音楽。それは現実的なものの苦難を理念的なものの止揚として担わせてしまうことにある。人の苦難は現実的なものなのにそれを理念的なものの実現であるかように展開して人々の内在性をやかましい「表現」にしてしまう危険性。それは救済を身振り言語にしてしまうのだ。


 この矛盾はある抽象的な科学的演繹体系の身体的介入は必ずしも道徳的であるわけではないという認識とある経済的協働性に関する集団的実践は表現の形式に抽象的な操作の概念性を完全に排除した微分的特異性に関わるものだけであるとは限らないという二重の留保を要求する。ここであまりにも明らかなのはこの二重の協働が必要になるのがまさに性の問題においてであるという点にあるということである。というのもある身体に完全に科学的な演繹的介入を性に対して行使すれば女性問題になるだろうし微分的特異性を抽象操作の概念として考え具体性なしに展開しようとすれば必ず同性愛に関する理解の強度はその思考に含まれないということになるからだ。もしも労働の社会的協働性に関する経済的理由に遅れというものがあるとしたらまさに権利の問題において従順に譲歩しすぎるこの分野においてだ、と主張されるだろう。しかし「女性」に対して主人がヒステリーの相手をするように時にも同じことが言えるのである。我々は師への愛と忠実を守るように真理を守るということが可能だろうか。それは犠牲なくして達成されないというだろう。批判者はただ言っているだけでありその内実に関する真理を適切に行使していないのだと。それは敵を容赦なく殺戮しいかなる人権の機能も一時停止するという国家共同性の倫理から民主主義の責任を構想するということである。しかしこのことはもはや国民一人当たりの命が兵器の費用として概算されることから軍人の命をその比較から免算するという意味にしかなりえない。だから遊戯的操作からそのわからせが仮想敵に対する権限として主張され続けることになる。それは国際情勢という分析家からヒステリー症候の転移が象徴的な主人の名から取り出される大文字の他者に対して想像的に起こっていることにすぎなくなる。したがって純粋な強度の持続がその形質と継承において物語の外側に位置する父性を招き寄せるように家族の偶然性を采配するだろうがそのが相当気まぐれや乱数に左右され家庭生活の経済的疎外を社会環境として説明する手段にすることは許されない。祈りがまったく偶然的な配置のみで幸運が召喚されることは耐えられないが、それが絶対的なものの恵みとして把握されるのならその偶然も生活の糧にすることができる。そういうことを認めると所有の感触と徹底的な感度の厚かましさでそのことが観衆に宣伝吹聴されることになるだろう。サービスとはそのために存在しているのだし足りていないのは宣伝資金でありその効果の帰結であり美的なものへの飢えが芸術の脱ヒステリー化という制度的なものの古典性を要求するから。この古典主義は実現可能なのか?これと全く同じ認識が社会保障においても妥当するかのように実現可能でない夢物語のスローガンを政敵たちは批判的に利用しているというだろう。貧困層は飢えに関して美的な要求を掲げているのだ。政治とは現実のものであり美的なものは現実的なものとは無縁なのだとわからせなければならないが経済的な発展のためにはそういう美的要素が文化的伝統として可能な持続でなければならないのだからそのための資金は技術的な要素の数学的な変奏にその内在的な深みを見出すのだと。ところが深みとは実用性とは本質的な関連がない要素でありその探求に対する技術的な精査は時代的な背景の薄さに結び付けられてしまうのでその背景を補強しようとするがそれは付け焼刃に過ぎなくなる。


 …善とはあれでもなくこれでもない…

この矛盾を論理的に和解させることなく存在の二重性として生きること。崩壊の自律性。

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