第6話
『「そうだ。心の中で〝ここまでは行けるはずだ〟という桁を準備するだけなら、どんな敗者にもできる。その桁の数だけなら、千を勝利した者より上回ることができる。たとえ実数がゼロであっても、空欄が用意された桁だけならば誰にも負けない。千に万で勝ち、万に億で勝つ__中身がゼロであっても、兆の桁まで用意すれば、心の中にそれだけの空虚を抱え込むことができれば、そこらへんの百を得た成功者の足元にも及ばない存在になれる__ただし」
彼はここで、なぜか少し寂しそうな表情になって、首を左右にゆっくりと振りながら、
「それだけで勝ったと満足したら、その錯覚に溺れるなら、その瞬間にゼロは文字通りの、ただのゼロに戻る__シンデレラの魔法が、午前零時で切れてしまうように、だ。」』(上遠野浩平『パンゲアの零兆遊戯』)
いかに言葉から私たちが真なるものを告げているという幻想を拒否しつつそれを「言い間違える」ことができるのか。つまり言葉は真なるものを語ることができないのでその語の感触や色彩にその観念の純粋な移動を含めつつ虚空がその現在に与えることのできる言質を内在性の下に拒否するということに抗えるのか。より少なく言うためにもっと多くを語ること。対立的な措定は以下のようなものに関わる。
・感情的内在の私秘性は経済が適応を準拠とする認知的な回路から論理的なものの内容というものを排除しつつ行為体験を経験の欠如という進行として器官の具体的な刺激=快楽を要請する。
・消費=選択は好みの悪循環というものを労働が持つ苦痛の時間的把握から侵入してくるものとして客体化する。ここでは労働の身体が労働の意志を支えるプロセスの前に商品の表象がそれ自体の価格として刻印づけられるような内在量の規格化として展示される。
・それは「科学的根拠」と呼ばれる統計的指標を構成する。ある経済的論理内容の「現実化」とは感覚の私秘性が「論理的な思考の外在」に対する生理反応の認知の拒否として反映されることで消費選択の誤りなさが労働の継続手段としての可視性として社会的な所有の快適度を表現する。実験の一義性のメタファー。
・存在の特異性を称揚する身振りは、あらゆる表現規制の外枠から外れた位置にある自然の階級的基盤の平坦化=無害化を編集する。それは能力の記号性に関する構造をより上手く取り入れ、素早く利用することができ、かつその身振りをグループの育成的なデザインとして命名することができる。それは多様性という。
政治のイデオロギー対立から免算されていることの代価はどのように立証されるのか。それは「システムは偶然的な出会いの場を物語的に創造しなければならないが、操作の主体は論理的なものの思考から免算された主体の知性でなければならない」という無限性の演繹として在る。ここでの論理的思考とは試行回数を稼ぐためのルールを導入するようなメカニズムとして自明であるような形式のことでありその確実性を「上位の人工知能」が保証しているような平等のポリティクスの謂いである。ここでは性格と論理形式の破綻が痕跡的に短絡しているという留保をコード化という感覚的なデータの共有として認識する記憶が真偽の判定基準として使われるという書き込みの暗喩として直感的になることを感情的主観の反定立としている。つまり存在が論理形式に反して破綻していることはいかなる許容できない矛盾も実験的に処理される。
前提条件は次のことでなければならない。つまり神話がそれらの位階を表現することが暴力の強さとは別の記号的、象徴的連鎖の法の継続として在り、その数学素の配置が入力と開始の機能をそれ自体あらかじめ書き込まれたコードの命法に従属しているという風に仮定すること。ただし神話が政治的ディスクールとしての機能を含み持つかもしれないという疑念は留保される。この疑念は支配者が言説のコードを権力のディスクールとして乱用しているという非難に関わるものと人間の理解能力の限界がその可能性と表裏一体であることを隠すための手段として特定のイデオロギーに接続されるというように理解されるが共同体の理念における必然的な素材として匿名の創作に利用されもする。ただし命名と召喚が同一の産出として出現するような地形的な祝詞の宣言は創造と召し出しの声がその土地を荒れ果てたままにしておく風のきままな恩寵とは明白に区別される。なぜなら神話の作風と神話が表現しているものとの間には観念の袋小路を認識の逃げ道として利用してしまうような分析と演繹に対してあらかじめ免算されている原初の法の創造を聖なるものの見掛けから禁止として打ち立てる二重性が存在の密度と一体化しているからである。
ゲームの表現形式の限界は次のように評価される。出会いの掛け金の有限性は転移された公衆の意見から集合として定義されるデータベースの更新として在り、かつ育成の無限さは能力値の上昇が単純な数値上の認識に関わる苦痛の単調さとして担保され、記号上の強さはその偶然的な配列が認識手段の適切さから知性として抜き出された成果であるが勝敗の結果はそれに必然的には関与しない。ここから観念の亡霊的な身体が欲望として采配される。キャラクターは神話的に与えられた創作上の行為をシステムで模倣しなければならないがそのコード的に感覚される手段としては勝敗の操作の二次的な思考に過ぎないという判断である。影の言葉が身振りとエクリチュールの関係を裏切ることはその思考が名としては免算される身体性として表現されなければならないが思考の強度への委ねが純粋に楽しさの一元性で身に着けられるとしても記号的観念がそれ自体として世界の存在を開示するものは複数の性しかないからだ。したがってあるシステムの外部と身体の思考が免算される客体は性としての知性が公共性から排除される認識の「生理的現実」で対置される。魂の裸形性に悪しき演劇の仮面を剝がすような相貌が記号対象として美学の減算を行うことで身体の強度のアウラを生み出す。そのアウラは公共性が市民的な規約にまったく表面的に拘束されているという無限性の警告として囁きかける。
とはいえもちろんこうは言える。ある存在の特異性は政治的ディスクールの価値判断にそもそも従属することのない思考の価値に基づいている、と。可能性の芸術に身体の強度が持続するような明滅の軽やかさの舞踏。しかし政治をエクリチュールで思考することは存在の意味を犯罪である限りの非拘束性としか考えないということになる。性が同意された者同士の侵犯として芸術の価値中立のエクリチュールを身体として要請することができるというのは性は存在を二で足して複数の部分の残りを分割したものであるとする想像上の器官存在と同じ仮定を実際の人間に充当することになる。これは政治的立場における「言い間違え」を差別ではない存在の言語に翻訳するという記号的観念と同じ操作で(性の)特異性の意志を規定するということである。だがディスクールの真理に性的関係は存在しない。存在の剝き出しの裸形成が恥部を減算されたものとして倫理的なもののの規格に抵触するのは身体の表現が性的なものの付属として与えられるということに対してで、性的なものが表現の可能性に含まれる稠密性の感触だからではない。表現の規制が有害さの根拠としての実在を分割規定することを逆から言えばイラストが性の思考として展示されることはそれがいかなる表現上の分節的な「ディスクール」の制約も受けないことでより神話上の受胎に近づくという倒錯になる。性の存在の受難、それは見ることの射られに貫かれる痛みが壊れへの恐れからの非拘束として顕現し、存在が授けられることの快楽の独自性が科学的説明で補完されることに対する耐えられなさにある。科学的に想定される痛みへの心理的洞察と存在の一性が知性の鷹揚さとして示される選択の間には和解できない価格制度があり、ゆえに抑制の欠如した内容の説明を的確すぎる技術と心情が同調することで〈早口〉で言われる身振りの卑俗さを構成する過剰な自己語りになる。その障害となっているのはネット上での語りの身振りは決して善なるものが言われることがないような享楽的(存在の)試行回数の欠如だということでしかありえない。こうして言い間違えを予報的に言い間違えることで偽の観念の通過を不純さの無規制というものに仕立て上げてしまう勝負が編集として反復されることになる。儚さをライブの臨場感とアーカイプの保存選択に適した宙づりにされた構成として演出する実況、声の遠近法に関わるゼロの時間的配慮の洗練から虚像の隣接性を宗教対立であるかのように構築するのだ。
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