第4話
道徳という問題がある。それは道徳に根拠を求めることの演繹と道徳の根底のなさにある絶対的なものの帰依にまつわる対立である。あえて物語風に語ってみよう。拘束がある方がより強くなる可能性を存在として秘めているのかそれとも拘束は世界の思考において免算されている者の身体を拘束することしかしないのか。それは犯罪を犯すことの意志の強さと犯罪を犯してしまう意志の弱さに関わる司法なのである。世界に関する因果関係を熟知している者は政治における社会実験を道徳という拘束なしに行うことができるということが真であるとしてそれが社会秩序に関する道徳的秩序の法の侵犯を許容することはない。しかしそれは遵法意識が身体として刻み込まれているからなのか秩序に関する偽りの意識が正義としてしか表現されないことからくる苛立ちなのかという問いがある。このことは近代において法律が道徳と矛盾する意識の抑制であるという規定なしには説明することができない。それは法が力の帰属に関わる倫理を宗教的な規定から引き出していたものが人間的自由にまつわる諸体系から科学的に演繹されるようになったという事情に基づいている。形而上学的にいえば神性と法は決して同じものではないが社会実験に服する支配者の意識と道徳的意識を選別する法律の形成は同じものであるということができる。そしてこのことが人権の教育という押し付けに反共同体的な価値を与える。倫理という力に無限の価値を与える勇気が戦争の共同体に委託され、身体の拘束という自由にまつわる経済的諸理念は法律の道徳性に帰属する選別になり経済的な体制は情緒的な解放の自由だけが蔓延しているという空気が感染の亡霊として通過していく。日本人はその存在の純粋さにおいてその表象を政治的に展示することができないというに打ち続き日本人はその文化に対する持続を決して性を貫くものとしてしか展開しえないという制御があり、さらに思考に対して感覚的なものの配慮なしに精神が創造であることは病的であるいう裁断が機能する。この包括性を表象の融通にコード化し世界に対する非拘束を大目に見る態度の裏返しは労働に対する無規律に対する無能力に対する罰則として念入りに調整されたおだて言葉である。今日純粋さの観念は戦闘と戦場の地獄に対して冷厳なまなざしを保持し続ける能力の免算として在りその戦闘力が社会的な規格に当てはまらないことを教育的価値の深みに相当するという詩性が特徴的なフォルムになるが道徳的拘束は戦争の反価値的な定立が社会保障としての代用として政治の不正を告発するディスクールを担保するという表象を生産する。少し考えればこの両者は全く同じことを主張しているということがわかる。経済的諸観念は両者に純粋な持続という価値が純粋でない身体の心性として支えられるものを大切にしようという規約を保証しあっているのである。実際科学的見解の持続が力の純粋な強度と溶け合うことでその駆動の攻撃性において不動であるという甘美な絞殺があるのでなければその発言の身体を連接することができないし、社会的免算の思考と政治的存在の思考は全く別のものであるということを道徳の観念で説明するためには宗教的な典型の勧善懲悪に対してその分割を嘲笑しながら宗教体制の非道徳性を告発するという身振りを欠かすことができない。思考が社会に対して免算されるにはその単独性に関する驚きが社会的変革に一切かかわらない存在の姿勢に関する生成への委ねであるということが必要不可欠でありかつその政治性がディスクールの配慮として可能であるためには最低限の哲学的教養を贈与する役割を配達せざるを得ない。情報生産の意味を剝奪する反価値的な措定には情報の管理には名の規約に関する所有の本源性が人格に帰属する価値として存在すると経済的に保証されなければならない。集団的な略奪が正義の観念と混同されているということを世界に対して投影しつつその無能力な価値は集団の思考のなさに委託するという数的有利を構成する不安定として故郷に属する空洞をその無意識の表現として説明するための手段にしつつ崩壊の不安を出生の比率として推挙するための教育に服従させる秩序はその荒廃を世界の多様性を傷つけることなく保持する膜として自由への抑圧を拘束の嫌悪として扇動する輪廻転生。能力の無限大と役割論理の完成された演出が資本の過剰を際限なく減算する。階級的利害の道徳とはまさにこのように説明される。近代の道徳的問題の本質はそれが個人的心性の問題ではないという点にある。なぜなら主人のディスクールに対する問いかけからもたらされる生の意味が個人の承認を構成するわけではなくなっているからである。資本の共同的機能は本質的に道徳の非拘束性として可能性をもたらすことはできないという洞察でありこれは資本を利用するだけ利用してあとは廃棄するだけという思考が手段としてすら適切ではないということである。では何が対立しているのか。衝動が使い捨てられることに商品の身体を接続する際に利用される存在が思考の機能を展示するかどうかということである。もし自然が素材的な要素として流通する構成が問題になっている場合にはこの問題は科学的に判断されるべき措定ということになるだろう。しかし人間の身体と環境が作用しあう連接的規定として衝動の要素に性化された身体を展示する場合それはエコロジーの判断として利用することは偽の運動のカットを名称のシークエンスの市民的教養の歴史として情報的に可動的にするということなのである。そしてこれが共同体的なコスモロジーときわめて類似的な政治的連接性として対立するということ、そこに道徳性が介入する余地がある。偽-演劇性にコスモロジーとして加担する道徳の亡霊の余地が。しかしこうも言える。神と人間に関わる倫理的形態の作用を集団的なものとしてのみ推定することは高貴さを裏切ることになると。
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