第3話

 デカルトの思考はなぜ近代性の思考と混同されるのか。数学的なものの免算を哲学が自由として自負する独自性を決定的に措定したからなのだろうか。もしそうだとするならなぜパスカルはその位置にいないのか。パスカルがデカルトに対して「生き生きとした神」を主張しデカルトが機械論的な宗教の創造主を建てたことに関してリベラルより悪い位置にあるのではないのか。問題はデカルトが教会的免算を思考に政治として引き渡しているということ、そのことにあるのだ。デカルトは創造がエクリチュールの生成だという批判に対立し歴史的偏移という神の問題の立て方にも反対する。宗教が存在の独自性を教会的認可から引き離すために労働という価格的な付与が認識として存在すること、スピノザと違いデカルトにはその方向に関する自由は存在しないのである。デカルトは慣習という規則にも観衆という措定にも一切かかわらない。旅という機能は見識を広めるというよりも相対的な比較を決定的なものにする通過として機能する。社会的な比較や因習の人間に対する影響は魂の存在に価値を与えない。ゆえに動物が魂を持つということはあり得ない。デカルトに環境的な変化の推移や進化の適応的な外延が存在しないこと、これはデカルトが魂を厳密に存在の表象ではなく存在の価値として自由意志を肯定する意味でのみ身体を思考するということである。デカルトは世界と宇宙を混同することがありえない。メカニズムが存在と照応しているかどうかは二次的な派生であり抑制された感情の内部に読み込まれる要素が形態としてはないからである。パスカルにはこの意味で根本的に気晴らしという価値がありそれが王侯や奴隷に対しても同一の不自由があると想定するがデカルトには公衆的な価値を与えるための学問的進捗という非常に個別的な動機しかない。デカルトが教育的な規則を公表することがなかったということは精神の原則的な指導に方法という原理を普遍的という価値に属させることができないということを意味している。デカルトの『方法』はあくまで数学的な操作に類似する精神の形成であり、数学の演繹を規格化する基準とは異なるものであるしかないということがデカルト主義者をパロティ化する原因になっている。デカルトが原子論に行きつかず物体を分割する作用に外延を与えなかったことは懐疑が常に質量の合成を構成するものとして属性が在るのであって思考が分割された懐疑論とは別に実体が属性として単に存在しているわけではないという無限に与えた位階にふさわしい振る舞いを保持している。ということはデカルトの思考は近代がその名に与える存在の特異性として思考に与える言論の振る舞いからデカルトを措定することはまさにディスクールが二元論的な把握を許容させる推定と同じになるということである。形相因と質量因という区別から目的の推移的な機能を外すことは因果関係の派生が実体的な分割の構成と同じになるという意味ではないことを労働の人格的要素から説明することはできない。私の存在を属格的形象にできないことによってニーチェと共通する人格的価値が生まれる。それはエックハルトにも通じる思考__高貴さである。高貴さと対立するもの、それは下劣さではなく尊厳であり人間の価値表象が権利の心情的規則に左右されるものであるという考えにある。今日的な判断において高貴さは間抜けな推挙という理解と切り離すことができない。どうしてだろうか。それは財の分配という規則に関する知識を高貴さは持ち合わせることができないからである。高貴さが持てる唯一の財産に対する形式は遺産であり委譲である。ここには作品という形式に関する根本的な反定立がある。高貴さに賭けるという外延はない。それはリベラルの物であり本性上継続を自身の推挙と関連付ける能力によって編成される。したがって野蛮さは高貴さとの共通項として遺産を保持しつつ食らいつくすという能力によって継続を果たしその財産に対する影響力を見せかけることができる。ここから高貴さの免算が生じる。高貴さは意志としてでしかありえない。しかしそれは意志の強さという継続力というよりその意志がなんであるかということを示すことが確信であり意志が抑制された根拠として原因に左右されることなく残存し続けるということが問題なのである。我欲の継続は原因の作用に基づいており獲得物なりその執着の根底が暴露されるとそれは弱体化するが外的な障害には一切頓着しないのに対し倫理的な意志というのは外的な障害が存在することに対して「敗北」するがその意志を揺るがすことはどのような無能力の暴露でも不可能なのである。ここで問題なのは倫理性の制限を思考の枠組みに関する能力の限界として規定する構成はすでにそれが経済的に可能である場合には常に政治の思考に関する免算が道徳として存在するという教育に対する暗黙の非拘束なのである。そして私の存在が思考されるものとなるには単に私というものが存在の特異性として誕生の奇跡に単独で付加されるものであるということでなく思考であるということは意志があらゆる敗北を味わったとしてもそれ自体の創造から肯定を引き出すことができるという自由においてのみ存在しそれが憎悪の無という創作に左右されるのでないことが根底なのである。憎悪とは意志に原因を付加して世界についての思考があるということを示す意識の持続だからである。思考があるということは意識があるということと断じて同じではなく、また人称の私が思考の意識を存在のエクリチュールとして社会に対して免算することでもない。それでは作家あるいは教師としての名が存在しているという流通が(精神)労働において全く適切にも表現されているだけだからである。そしてこれがインターネットにおいて名の偶然的生成が性としての誕生に配して奇跡という「単に」存在しているだけという従属に私の偽の観念の亡霊を通過させる訪問の技術に関する対話性なのだ。

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