第2話
バディウ『非美学への手引き』。プラトンによる理想的な都市国家において詩的思考のミメーシスの追放は暴力として根底的であるという宣言。それはギリシャのポリスが悲劇的思考をあくまで政治とは決して結びつかないやり方でしか享受しなかったという英雄の召喚からソクラテスの断罪を行う。逆に(プラトンの)ソクラテスはホメロスやソフォクレスの悲劇をある種の詭弁術から容赦なく区別されるものとしての思考としてでしか紹介しない。宣言と召喚が混同されないようにするためには何が必要なのか。というのも召喚も偽の観念の運動を構成的に『召喚する』ということがありうるからだ。喜劇的な大衆科学の呼び出しと想起のポジションの連接が交換可能になるようなシステムの編集と切断のスクロールが技術的なカットとは別の位相へと転化していくことをすれ違う風景の語りで引き延ばすことは悪趣味に属する遊戯だということ___しかしそれは遊戯ではありうる___を思考が発見することを主張すればいいのだろうか。それは哲学における宣言が法の位置を形式に切り下げるときの操作ではないのか。悪しき意志の印象操作という概念は偽の包括的運動を道徳的法から守るという形式において構成的になることを声の匿名性で法律から覆い隠すというとき良心の声という古典的な宗教的機能が回帰してくる。この声をあくまで映像的手法の『悪しき形象』における意志の純粋さに還元しようとすることは宗教の政治的操作に類似する与件から芸術的『思考』を決定的に区別するという名目に役立てつつエクリチュールの真正さを取り戻すという芸術的観念の『不純さ』に名称を賭けるというトリックに忠実になる。無垢な生成に反して問題は弱い意志とは政治と宗教の永遠性を分かつ意志の動揺を政治的に『真理』として世界に適用するときに必然的に『印象操作される』矛盾の機能ではないかということである。宗教は政治的穴を埋める機能として哲学に対するが近代において役割の転倒が生じそのディスクールとエクリチュールの政治的裂け目が存在の分割として階級になりそして政治に科学がディスクールが介入してくるときにはこの名は偶然ということになるがそれは世界に対して演繹という操作の忠実さだけを適用するときに起こることで哲学と政治経済学の構造的矛盾を体制に応用するときには根本的に無効になってしまうような構成の宣言ではないだろうか。だからそれを法の意志として倫理にするために召喚というフレーズを芸術的思考の虚空に名として挿入しなければならない。この忠実さの二犠牲と分裂はキリスト教とデカルトを格下げする場合に、つまり創始者の名がその絶対的な世界の必然性に関する創造に関して神の子の福音として流出する象徴の演繹には常に真理の位階的な詩的優位として語られ、経済的唯一性の造物主についてその偶然が管理する透徹性に関しては忠実という要素を哲学的身振りの倫理的要請として適用するが私の観念の亡霊にはその独我論的な驚きの翻訳を許してしまう取り逃がしがあり、それが多という表象の非拘束性という道徳的環境主義を氾濫させるのでその自然性にはアリストテレスの名を対立の措定とする。というのもカテゴリーは真理の多に適切に配置された知という真理を偽の運動とは無関係に規定-拘束するからである。当然ながら教会的アリストテレス主義はこの拘束を絶対的に利用しておりそれを魂の衣服というアナロジーで観念の亡霊を突き動かすようにさせる。存在論的な可能的世界の動態の識別子、これがラカンが皮肉にも『魂の機械仕掛けの実験』として造物主の機能を象徴的なものの隠喩に代表象する手口として引用していたものである。アリストテレスには詭弁術の修辞的紹介があるということ、これは近代的な法律の不動性の観念の訪問と同一視される永遠性である。こうして表現と形象の多は対立するがそれは世界の非拘束性が観念の自由として約束される宣言を偽の運動の構成的召喚に編集するときに匿名的な公衆への批評的衝撃として思考の発見を驚きと共に促す独我論的汎神論となる。だがこれは召喚の呼び出しが世界の倫理として与えられる恩寵の雷撃を可能性の身体という踊りに神々の二重性を創造として持ち込ませないようにするための思考となり神々は受肉を表す身体的名称の説明の根源(オリジナリティ)でしかなくなる。それはプラトンに忠実な意味では忠実だがプラトンの思考の免算としては近代的な政治性の総括としてある。つまり『真理というもの』に対して芸術が市民社会の入り口を宗教から解放した時の始まりをエクリチュールの最悪さとして意志の倫理から分離した際の名残を労働世界の商品生産の被造性からも救い出そうとして唯物論的な識別にその根底を与える存在の賦与から創始者の名を偶然的な生成にゆだねる際の絶対化として思考を免算する手続きにおいて真理であるという偽の観念の翻訳に忠実だと。ここでは私はマルクスとニーチェの真理の区別の決定的差異をバディウが演劇とダンスの強度の美学的説明として用いる際のマラルメの用心のアナロジーとして思考ではない刻印される沈黙の明るさの明滅から身振りを引きはがす処理を逆方向に恩寵に向ける倫理として回帰が愛であるような太古の影の破壊に襲わせるだろう。近代に対して絶対的に敗北するという代価を払って。だがまだ敗北は政治的敗北でしかない。
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