第5話 夏と扉
都心を離れた某公園。
今日は良い天気だ。辺り一面が朝日に照らされ、あらゆる色がその色のままに際立つ。青い空はより青く、草木はより緑に、黒々としたアスファルトはより黒く、トリコロールの遊具は全てより鮮やかに。最高のランニング日和だ。
きりかは休日にすべきことは運動だと考えている。トレーニングが目的というわけではない。仕事の人間関係やデスクワークで無意識に強張らせてしまった全身の力を2時間程度のランニングで解す。運動とは現代のストレス社会を生きていく上で欠かすことのできないルーチンワークなのだ。
もっとも、今日は運動するだけに外出したわけではない。普段のコースに加え、公園を過ぎた先にあるとある神社で休息を取る予定であった。目的は1つ、きりかは『例の少年』を調べてほしいと、同僚に依頼を出していたからだ。彼は本当に多忙なので場所を指定し、時間も定めてそこで落ち合う約束だった。
鳥居をくぐると、大木の横でYシャツを着た男が待っていた。
清水谷警部、ゴリゴリのキャリア組で若くして警部に就任したエリート様だ。
転属する前からきりかにとっては雲の上のような存在であったが当時から仕事仲間としてそれなりに仲良くやっていた……といいたいところだが、稽古でいつも彼の全身に痣を刻みつけていたので苦手意識を持たれてしまっているのが現状だ。同時にある種の上下関係を叩き込むことが出来たらしくきりかに言うことはなんでも聞いてくれる便利な男になってしまった。
とはいえ、一方的な関係ではない。先日の麻薬捜査もこの男の頼みで引き受けたものだったのだから。
彼は火の点いていないタバコを手にして、しかめっ面で突っ立っていた。何故、タバコを吸っていないのか。大方、神社の一角でタバコを吸って良いものかどうか、人の迷惑になっていないかときょろきょろ辺りを見回していたのだろう。迷っているうちに時間切れで待ち人来たり、結局火をつけることはできずと……相変わらず天然で可愛い男だ。
「なにきょろきょろしてんの?」
「い、いや。なんでも」
「不審者っぽいからやめなよ。あと仕事中はタバコ吸わない」
「はい……」
「よろしい。で、例の子はどうだった?」
清水谷は手提げのバッグからクリアファイルを取り出し、きりかに手渡した。少年の個人情報のみならず、親族まで緻密に記されてある。細かで良い仕事だ。
書類をめくるうちに関心して、思わず笑みがこぼれてしまったほどだ。そんな私を見て彼も満足したのか、少年のように照れた様子でうなじを掻いていた。
「今日明日でこれ?凄いわね」
「大した手間じゃない。流石に学校内での態度や成績のような直接、教員や友達に聞いてみないと分からん情報は調べられなかったがな」
いやいや、よくやってくれた、と内心きりかは思った。
住所を特定するだけで十分有り難かったのにこれは望外の成果物だ。書類をめくり終えると、力技で幾重にも畳んで腰のカバンに入れ込んだ。
「……なぁ、大丈夫なのか」
「なにが」
「そりゃ心配だろ。部下を使わずに俺だけで調べろって言われたら。一体どんなヤマに首突っ込んでるんだ?」
「この前の変なアルバイトの借りはチャラでいいから。清水谷くんは何も聞かないで」
「そういわれてもな……その少年は普通の子だったぞ。学校内でも優等生で通ってる。親御さんも立派な社会人で虐待なんか考えられない普通の家庭だ。なんだ?その子に近しい人間からなにか相談を受けたのか?ストーカー被害かなにかか?」
「そうね。デリケートな要素があるからそう思ってて。届け出を出すのも微妙な案件」
「ふうん……これがストーカー事件として被害者か加害者か、どちらかに気を遣っているというわけだな」
うん、ぜんぜん違うけど。手持ちの情報から推理すれば……まぁストーカー被害の相談を何者かから私が受けたと、そういうシナリオになるよね。
清水谷くんはどう処理すべきか心底困った様子で、顎をさすっていた。事件が起きる兆候が事前にわかっているなら、コトが起こる前にきちんと警察として動いたほうが良いのではと……そう思うのは当然だ。自分も彼と同じ立場なら悩むだろうし、ましてや生真面目な彼の性格なら尚の事。
「心配なのは分かる。でも私に任せて。手に負えないと思ったらすぐに連絡するから」
「……その連絡が遅れて、致命的な過ちになってしまったらどう責任を取るんだ」
「だいじょーぶよ。全然、君が思ってるような深刻な感じじゃないし、下手に大事にした結果どうなるの。それこそ責任取れるの?人様の家庭を引っ掻き回す事になるのに?」
「うっ……うむ、分かった。切通がそう言うなら」
目の前の彼は全く足りていない情報の端々から考え得る事件性、誰がストーカー被害を受けているのか、そも加害者は何者か。関わった人間たちをまとめた人物相関図を脳内で必死に組み上げて事件の全貌に迫ろうとしていた……が、全くの徒労である。この辺で手を切ってもらおう。
利用したようで悪い……などとは思わない。これで貸し借りはチャラだ。
というか彼が何の気なしに麻薬捜査なんぞに部外者の私を駆り出さなければ、全ては何も始まっていなかったのだ。全部この野郎のせいだ。そもそも警部が麻薬捜査の現場に関わるとも思えないし、彼が誰に気を遣った結果か知らないが協力を呼びかけられた私はいい迷惑だ。
「資料ありがとう。じゃ、私は続き走ってくから」
「え?……あ……ああ。気を付けてな」
走り始めた私の背を清水谷くんは鳩が豆鉄砲をくらったような顔で見送った。
チラと後ろを振り返ると彼は心底残念そうな顔で……いやいやいや、なにを期待していたんだこの男は。
なんだ?昼でも一緒に食べられると思っていたのか。
トレーニングウェア着たまま男連れて昼飯なんてゴメンだぞ。
……などと考えていると、心の中から声が響いてきた。
「あまりそうダメ出ししてやるな。なんだか心苦しくなってきた」
「同類相憐れむってやつ?」
「今の言葉は少しカチンと来たぞ」
悠哉という少年は、本が好きだった。
毎週末になると決まって近所の図書館まで汗をだくだくと流しながら自転車を漕いで立ち寄っていた。
目当ての本はというと最近目に止まった児童文学「ノッカー」。超能力を持った人間たちが未踏の地を冒険し、世界の真実に迫っていくという物語であった。
それまで本という媒体に縁がなく、クラスの友人に勧められるまで関心を持った事なぞついぞなかったが、これが読み出してみると止まらない。本は著者のサンジェルマンという謎多き男の自伝めいた形式。サンジェルマンとはいわずもがなヨーロッパで数々の伝説を作り上げたサン・ジェルマン伯爵のこと、この世界における「カーテンの向こう側」のような人物である。嘘か真か著者はこのサンジェルマン伯爵を自称しており、歴史上の大事件を背景とした実在の地名や、あるいは全く異なるファンタジックな異世界を舞台に物語は進んでいく。
冒険心溢れる悠哉少年はこの児童小説に取り憑かれてしまったかのように図書館へと足繁く通い続ける。ちなみになぜ学校の図書館から本を借りないかと言われるとクラスメイトにバレる可能性があるからである。カバンに入れると荷物になるし、周囲の人間の目に留まりやすい。そうでなくとも、本を管理するための図書カードなるものに自分の名前を残す必要がある。クラスの誰かの目には止まるだろう。
だからといって別に恥ずかしくもないのだが、これは誰とも共有せず自分だけの秘密の趣味にしたいという思いがあったのだ。よって、非常に手間がかかるが図書館にわざわざ週イチで通うという非効率的な手段を用いていた。もう少し考えてみれば、単純に本を購入するという選択肢もあったのだが少年は気づかなかった。
無数の背表紙が色とりどりの模様を描く本棚の前で、悠哉は目当ての本にたどり着いた。背表紙の上の傷つけないように指にひっかけゆっくりと引き出す。そして、部屋の隅の人の視界に収まりにくい空間で、頬杖を付きながらぱらぱらとめくり始める。しばらくするとページを捲る手を止め、小さなメモ帳に何かを書き込んでいく。それは気に入ったフレーズであったり、作中クリーチャーの想像図であったり……今もまた、新しく登場したカマキリのような蟲を描いている最中であった。
元々、絵も本も好きだったわけではない。ただ真面目な性格ゆえに、美しいと思った一文は書き留める、文字だけの曖昧なものははっきりさせたがると、のめり込むと手が動き続けてしまう、それが悠哉という少年であった。
正午に差し掛かり、日差しの強さも最盛を迎えようとしている頃、冷房の効いた空間でひとり静かに穏やかな時間を過ごす。これが優雅な休日の過ごし方だと中学生に入りたての身ながら悠哉は理解していた。
書き出していったメモに視線を移す。気づけば10枚ほどの紙切れが机の周りに散らばっていた。描かれているのはどれも空想上の産物らしい異形の物体ばかり。
描かれていたのは木、山、鳥、魚、蟲……………カンヅメ、宇宙船。
「うん?」
こんなもの書いたか?
訝しみながらメモを手にとった悠哉は難しい表情で見つめていた。
……書いた覚えは、ない。
しかし、絵を描いている最中に手癖で何かを描いていたかもしれない。だとしても流石に覚えているだろうと、妙な違和感を覚えた。
まぁなんでもいい、今頃、家で母は買い物を終え、昼食を準備している所だろう。そろそろ帰らねばならない。メモに興味を失くした悠哉はすぐに紙をカバンに放り込んだ。
そこまできて、唐突に眠気を感じ始めてきた。自然と瞼は閉じ、首が前に倒れては起き上がる。睡魔には抗えない。本を眺めれば眺めるほど、意識は虚ろになっていく。
眠ってはいけない、そろそろ帰らねば……そこまで思考した所で悠哉は意識を手放してしまった。
「寝ちゃったわよ」
「無理もない。図書館なる場所は心地よい。私も眠たくなってきた」
カエシの脳天気な冗談を無視して、きりかは鞄の中のメモを取り出した。
見知った宇宙船とカエシが身に着けていたスーツ。
あの珍妙なデザインを見間違えるはずがない。
「これ、何だと思う?」
「どうみても我が種族の船と服だな」
「なんでこの子が知ってるの……?」
「ひょっとするとこのメモは何者かがこの少年の思考に割り込んだという形跡かもしれん。少年は明らかに小説の内容をスケッチしていた……その証拠にファンタジー小説らしいキャラクターばかりが描かれている……ところで、これはファンタジー小説で合ってるな?」
「わかんないわよ。この本知らないもの」
「で、ファンタジー小説のキャラを描いているときにSFの小道具を描くなど考えにくいのではないかね。もし描くなら自分オリジナルのキャラだろう。それもこの小説の世界観に沿った、ね」
「でも書かれているのは宇宙船とカンヅメ……まぁこれがカンヅメじゃなくて宇宙服だと分かるのは私だけなんだろうけど」
現状の材料では何もわからないが、論じるまでもなく不自然なのは明らかだ。ならば、カエシの情報通りこの少年が狙われているという情報にも信憑性が増す。
「この子、夢を見てるの?」
「さて、近場で君も眠ってみてはどうかな」
眠れと言われてそう簡単に眠ることなど出来はしない。
どうしよう……と思いながら、彼が直前まで呼んでいた『ノッカー』という本が目に留まる。静かに席に座り、最初のページをめくり始める。
「読むのかね」
「寝れるかなと思って……」
ぱらぱらと読み始める。小説にしても全く興味のないジャンルだったのですぐに飽き始めたがそれが逆に良かったのかもしれない。
ほどなくきりかは眠りについた。
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