別れ、そして帰還

1

 エレノアは這うようにしてクライヴのそばまでたどり着くと、うつぶせで倒れこんでいる彼の肩にそっと触れた。


 クライヴの艶やかなプラチナブロンドの髪の一部は赤く染まり、エメラルドのように綺麗な瞳は固く閉ざされている。


 呼吸にあわせてかろうじて上下する肩の下――、うつぶせの彼の胸から腹部にかけて、真っ赤な血だまりができていた。


 震えながら、エレノアはクライヴの肩をそっと揺する。


「殿下……?」


 返事はない。


 その代わりに、どんどん血が溢れて、その場に両ひざをついたエレノアのドレスを、赤く染めていく。


「ふふふふ、やだ、あっけなーい」


 エレノアのすぐ後ろでシンシアが笑う。


 でも、どうしてだろう。あれほど怖かったのに、今は彼女よりも、目の前のクライヴの――、広がっていく血だまりが怖かった。


「クライヴ殿下!」


 応援に駆けつけてきた兵士たちも、黒いドレスを着た華奢な女一人を中心に広がる惨状にぎくりと立ち止まる。


「おねが……、はやく、殿下を」


 どれだけ深い傷なのか、うつぶせの状態なので確かめることはできない。けれども止まることなく広がっていく血は、このままいけば彼の死を意味していた。


「で、殿下をお助けしろ――!」


 エレノアの声に我に返った兵士が叫び、駆け寄ろうとするが、「うるさいわねぇ」と笑ったシンシアが振るった剣にあっけなく倒れる。


 異様すぎる――、兵士たちの足が凍りついたように動かなくなると、シンシアの目がゆっくりとエレノアに向けられた。


 剣先が、エレノアの喉元に突きつけられる。


「大丈夫、わたしはとっても優しいのよ、そんな顔しなくても、ちゃーんと一緒に逝かせてあげるわよ」


「シンシア……、どうして……」


「どうして? 決まってるじゃない。お姉様が憎いから」


「でも! 殿下は―――」


「殿下のことは確かに大好きだったけど、わたしのことを助けてくれなかったじゃない。そんな薄情な男なんて、いらないわ」


 笑いながら、シンシアはエレノアの首元に突きつけた剣を、ゆっくりと振りかぶる。


「さて、お喋りはもうおしまい。さようなら、お姉様。あの世で殿下と仲良くね」


「―――っ」


 エレノアはぎゅっと目を閉じた。サーシャ様――、と心の中で叫ぶ。首から下げている指輪を握りしめて、ごめんなさいと脳裏で微笑むサーシャロッドに謝った、その時だった。


「きゃあああああ―――!」


 甲高い悲鳴が聞こえて、エレノアはそろそろと目を開けた。


 そこには、何かに吹き飛ばされたように倒れこんでいるシンシアの姿があり、――エレノアの周りには淡い銀色の光が、彼女を守る壁のように広がっていた。


 エレノアは目を見開いて、光とシンシアを見て、それから握りしめている指輪に視線を落とした。指輪が熱を持っていることに気がついたのだ。


「サーシャ、様……?」


 指輪は答えない。だが、こんなことができるのはサーシャロッド以外に思いつかなかった。サーシャロッドが、彼の指輪がエレノアを守ってくれたのだ。


 シンシアはのろのろと起き上がり、忌々しそうにエレノアと彼女の周りを覆っている銀色の光を睨みつける。


「月の神か……」


 シンシアの口から、彼女とは思えないほど低い声が発せられて、エレノアは息を呑んだ。


 チッと舌打ちしたシンシアが、ドレスのポケットから何かを取り出す。


(あれは――)


 シンシアは取り出したそれを使って、虚空を切りつけるように斜めに一閃を走らせた。何もない虚空に黒く墨を走らせたような線が現れる。


「シンシア!」


 叫んだエレノアを見て、シンシアは口元をゆがませて笑うと、黒い線に手を伸ばし――、その一瞬後、彼女の姿が目の前からかき消える。


「……え?」


 シンシアも、黒い線も、まるで何事もなかったかのように消え失せて、エレノアは愕然とした。


 だが、小さなうめき声が聞こえて、エレノアはハッと振り返った。


「殿下!」


 クライヴの目はまだ開かない。


 兵士によって連れてこられた城の侍医が慌ててクライヴに駆け寄った。


 兵士たちによって仰向けにされた彼を見て、エレノアは口を押える。右の肩から左のわき腹に向かって走る、大きな傷。侍医が息を呑んで、小さく首を振るのが見えた。


「せんせ……、殿下、は……」


 震える声で訊ねれば、侍医が硬く目を閉ざす。


「そんな―――」


 エレノアは浅い呼吸をくり返すクライヴを見る。ぽろぽろと涙が零れ落ちた。


(わたしの、せい―――)


「殿下……!」


 震えて、呼吸が引きつる。しゃくりあげて、大声で泣きだしたいのに、まるで喉が凍り付いたかのように声が出なかった。


「おねが……、せんせ、い…、殿下を……」


 すがるように侍医の手を握るが、視線をそらされて、エレノアは絶望する。


 目の前が真っ暗になった――、その時だった。


『そいつを祝福の神殿まで連れてこい』


 エレノアはハッと息を呑んで指輪を見た。サーシャロッドの声だった。指輪は淡く光り、もう一度繰り返す。


『早くしろ。さすがに死んだ後では私でもどうすることはできない』


 突然響いてきた第三者の声に、侍医も兵士たちも驚いて周りを見渡している。


 エレノアはドレスの袖で涙をぬぐった。


「お願いします! 殿下を、殿下を急いで祝福の神殿へ運んでください!」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る