7
クライヴが離宮に戻って来て二日後の昼。
エレノアがいつものように温室でトカゲ――もとい、リリアローズとおしゃべりしていた時のことだ。
突然、クライヴが温室にやってきて、エレノアは飛び上がりそうになった。
「エレノア一人か? 話し声がした気がしたんだが」
トカゲは慌てて植物の影に隠れてしまった。
エレノアが一人だと答えると、クライヴはそれ以上追及してこず、エレノアの方へと歩いて来た。
シンシアはまだ見つからないらしい。女の足でそう遠くに行けるはずもないと踏んでいたクライヴは、なかなか見つからないシンシアに焦りを覚えているようだ。
顔には疲労の色が見えて、エレノアは心配になる。
「ちゃんと休めていますか?」
目の下の隈を見ながらエレノアが問えば、クライヴが薄く笑った。
「お前に心配されるのは少しくすぐったいな」
どういう意味だろう? エレノアが首を傾げていると、何でもないと今度は苦笑される。
「父上から早馬で連絡が来た。シンシアの件の真偽はわからないが、離宮では警護しにくいそうだ。だから、お前とともに城へ戻って来るようにと」
「お城に……」
「ああ。それから、お前との関係をはっきりさせるようにと」
エレノアはぎくりとした。
クライヴからの婚約の話を断ろうと思っていたエレノアだったが、シンシアの件でまだ言い出せないままだったのだ。クライヴが大変そうなので、これ以上余計なことで煩わせるのも申し訳ないと思ったからである。
「わたし――」
断るのは勇気がいる。もし断ってクライヴが怒ったらと思うと少し怖い。でも、エレノアはサーシャロッドの妻で、彼以外は嫌だ。
だが、勇気を出して言いかけたエレノアの言葉を、クライヴは遮った。
「言わなくていい」
「でも、わたし……」
「今はまだ、聞きたくないんだ」
クライヴはそっと手を伸ばして、エレノアの首のチェーンに触れた。
「……、答えは、城についた時にきく」
戸惑ったように瞳を揺らすエレノアに、クライヴは淋しそうに笑った。
言わなくていい――、つい、エレノアの言葉を遮ってしまった。
クライヴは先ほど、エレノアの首にかかっているチェーンに触れた指を見つめる。
エレノアの答えなど、とっくにわかっていた。いや、はじめからわかっていたのだ。
わかっていて、婚約するかと訊いた。エレノアの瞳が躊躇うように揺れたならば、少しでも可能性があると思った。だが、彼女の瞳には戸惑いしかなかった。だから、あの時本当は、どうやっても無理だと、わかってしまっていたのだ。
我ながら情けないと思う。
それでも、まだもう少しだけ――、せめて城につくまでは、答えを先延ばしにしたかった。
(もし、あのとき、婚約を破棄していなければ……)
エレノアは自分のものだっただろう。けれども、あのまま婚約関係を続けて、結婚していたとしても、あの時の自分が彼女を愛せたかどうかはわからない。
今のエレノアが「エレノア」だからクライヴは心惹かれた。常に俯いて周りに怯えているようだった彼女を変えた「男」に強い嫉妬を覚えると同時に、きっと自分では同じことはできなかったという絶望を覚える。
そう――、十八年間、一度もエレノアを見ようとしなかった自分には、そもそも勝ち目がないのだ。あとから気づいて、惜しくなって手に入れたくなっても、どうすることもできない。彼女の何も、見ようとしてこなかったのだから。
(十八年間大切にしてこなかったのに、今更大切にするなんて言ったところで、信じてくれるはずないだろうし、な……)
エレノアは美しくなった。彼女を美しくしたのは別の男だ。それが死ぬほど悔しいのに、悔しいと思う権利すら、おそらく自分には残っていない。
それでもこのおよそひと月、彼女と一緒にすごせた自分は、幸せだったと思う。できることなら一生そばにおいておきたいが、無理強いをして彼女を泣かせるようなことはしたくない。今度こそ、大切にすると心に誓ったのだから。
まさか、捨てた婚約者に恋をするとは思わなかった。誰かに恋をしたのははじめてだ。第一王子であるクライヴにすり寄ってくる女は山のようにいた。エレノアと婚約していると知っていても、クライヴが彼女を大切にしていないのは明白で、妾や愛人の座を狙っている女と一夜を共にしたことなど数えきれないほどにある。
でも、その誰のことも、恋しいとは思わなかった。美しい顔立ちや豊満な体つきに欲情することはあっても、誰一人心に残らなかった。
シンシアにしても、そうだ。
彼女は美しかった。可愛らしくねだる様子を愛らしいと思った。彼女の容姿や体を愛したし、実際今まで抱いたどの女よりも体の相性がよかったから、愛おしいと思った。でも、恋しいとは思わなかった。――心を手に入れたいなどと、思ったこともなかった。思わなくても、勝手にすり寄ってくるから。自分が心を砕く必要は、どこにもない。
エレノアだけが、違ったのだ。
再会したあの日、惹かれたのは明らかに美しくなった彼女の顔だった。その時はまだ、美しくなったエレノアに興味を持ったという程度だったと思う。
だが、一緒にすごすうちにあっという間に引き込まれた。守ってやりたいと思った。俯かなくなった彼女の見せる顔を笑顔にしたいと、強く思った。
自分の欲を我慢したのも生まれてはじめてのことだ。
城のクライヴの部屋で、隣で眠る彼女に何度欲情したのかなんて覚えていない。
そのバラの花びらのような唇を奪って、首筋をなめて吸い上げて、体中を愛撫して自分の下で啼かせたいと思った。
それをしなかったのは、そうすることで永遠に彼女の心を失うだろうと思ったから。
生まれてはじめて恋した人は、どうあっても手に入らない。一度は自分のものだったのに、最初から間違えてしまって、結果、手放してしまった。
自業自得だ。だからこそ諦めきれない。でも、だからこそ、潔くあきらめなければならない。
(なあ……、お前が愛する男は、どんな男だ……?)
いい男だろうか。優しい男だろうか。エレノアのことを、大切にする男だろうか。
ろくでもない屑男だったら、遠慮なくエレノアのことを奪えるのに――、エレノアの表情を見る限り、そんなことはあり得ない。
愛されているのだ。その男に。クライヴが持ちえない権利を、その男は持っている。
おそらく、エレノアがその男のもとに戻ったら、もう二度と会えないだろう。そんな予感がする。だから、二度と会えなくなるのなら、最後くらいエレノアの中にいい印象を残したかった。
(城に戻ったら、ふられるのか)
駄々をこねるつもりはない。潔く身を引いて、エレノアの幸せを祈ってやるのだ。お前のろくでもなかった元婚約者だって、最後くらいは、ちょっとカッコよかったかなって思われたい。
過去を塗り替えることはできないけれど、最低男のままで終わりたくはない。
(エレノア――)
――そして俺は、死ぬまでこのことを悔やむのだろう。
クライヴはそっと、自嘲した。
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