3

 このままクライヴのそばにいては駄目だと思う。


 けれども、体調が悪かったときに気遣い、看病してくれた彼のもとから、逃げるように去るのは少々気が引ける。


 でも、このままクライヴのそばにいたら、いつの間にか婚約と言うことにもなりかねないような気がした。


 サーシャロッドのことは言えない。それでも、「大切な人」がいることはきちんと伝えなければいけないだろう。そのうえで大切な人のもとに帰ると言えば、クライヴも何も言わないのではないか。


 父である公爵が身分を剥奪されて以上、エレノアは以前にも増して無価値だ。クライヴの言葉を借りるなら「使えない女」。もし彼がエレノアに対して何らかの負い目を感じていて、それで婚約を提案してきたのなら、エレノアに帰る場所があるとわかれば納得するはずなのだ。彼自身がエレノアを好きなわけではないはずなのだから。


(ちゃんと伝えよう……)


 以前のエレノアならば、クライヴに対して自分の意思を伝えることはできなかっただろう。エレノアの辞書には、ただ「従う」ということしか存在しなかった。だが今は、自分の意見を伝えることが前ほど怖くない。


 朝食を食べ終えたあと、エレノアはクライヴに自分の気持ちを伝えようと口を開きかけた。しかし結局、言い出せなかった。なぜならばエレノアが何か言う前に彼がこう言ったからだ。


「悪いが一度城へ戻らなければならなくなった。一週間ほど留守にするが、お前は自由にすごしてくれてかまわない。外へは一人で出歩かないように。どうしても外出したくなったら誰か使用人を連れて行け」


 そういうクライヴは難しい顔をしていたから、何か問題が起こったのかもしれない。


 わかりましたとエレノアが頷けば、彼は慌ただしく居間を出て行った。






 その日の夜のことだった。


 離宮に来てから四日。エレノアは毎夜、指輪を介してサーシャロッドと話をしながら眠りについていた。


 サーシャロッドの声を聞くことで安心する反面、どうしようもなく会いたくなる。


「あ、今日は満月だ」


 エレノアはカーテンの隙間からこぼれる光を見て思い出した。


 カーテンを開けると、ベッドのサイドテーブルの上においてあった手のひらサイズの香壺に手を伸ばす。


 これは一昨日、妖精たちが持って来た。


「えれのあー、おとどけものだよー!」


「さーしゃさまからー!」


「でもつくったのは、おきなだけどねー」


「かおりは、さーしゃさまがえらんだから、とってもいいかおりー」


「あまーいの」


「まんげつのよるに、ふたをあけておいてねー」


「おねがいー」


 相変わらず妖精たちの言うことはあまりよくわからないが、とにかく満月の夜に香壺の蓋をあけておく必要があるらしい。


(でも、結局なんなのかしら……?)


 エレノアは首を傾げながらも香壺の蓋を開ける。ころんと丸い形をした白い香壺は、つるんとした表面に蓮の花のような絵が描かれていた。


 蓋を開けると、甘い香りがゆっくりと部屋に広がっていく。金木犀の香りに似ていた。


 このお香が何なのかはわからないが、エレノアは鼻腔をくすぐるいい香りにうっとりしながらベッドに横になる。指輪を手に取ると、いつも通りサーシャロッドに話しかけた。


「サーシャ様。……サーシャ様?」


 いつもならすぐに返事が返ってくるのに、今日はどれだけ話しかけても反応しない。エレノアは不安に思って上体を起こした。


 もしかして、指輪が壊れてしまったのだろうか。エレノアは青くなって、ベッドサイドのランプに火をつけると、手の中の指輪をひっくり返してみたり覗き込んでみたりしてみる。どこにも欠けたところはないし、壊れていない――、と思うけれども、見た目ではわからないのかもしれない。


 エレノアは急に不安になって、何度も指輪に向かって話しかけた。


「サーシャ様、サーシャ様!」


「そんなに呼ばなくても、聞こえているよ」


 必死になって指輪に呼びかけていたエレノアは、思わず息を止めた。


 サーシャロッドの声だ。でも、指輪からではなく、すぐ近くから聞こえた気がした。


(うそ……)


 エレノアは声が聞こえた気がする方を振り向いて――、瞠目する。ぽろりと手から指輪がことがり落ちた。


「サーシャ様……?」


 サーシャロッドが、そこにいた。


 夢じゃないだろうか――、そんなことを考えるより先に体が動く。


 転がり落ちるようにベッドから落りて、わずかな距離を駆け寄り、思いっきり抱きついた。


「サーシャ様!」


 夢じゃない。抱きしめ返してくれる腕の強さもぬくもりも、全部本物だ。


「サーシャ様ぁ」


 不安も淋しさも――我慢していたすべてあふれて、エレノアはぽろぽろと涙をこぼした。


 会いたかった。ものすごく会いたかった。時間にすると二週間程度のものだったが、会えないと思えば永遠のように感じられた。


 サーシャロッドは涙を掬い取るようにエレノアの目尻にキスを落としてから、エレノアの唇を塞いだ。触れるだけのキスはあっという間に深くなり、キスをしたままエレノアはひょいと抱え上げられる。


 ベッドに仰向けにされてのしかかられて、泊まらないキスにエレノアの頭の芯がぼーっとなった。


 息が苦しい。それでも、キスをやめたくない。


 探るように口内で動くサーシャロッドの舌に、エレノアがつたない動きで答えると、さらに口づけが深くなる。


 キスをされるのは、いつも恥ずかしかった。


 でも、今はそんなことも考えられない。


 ただ、サーシャロッドを感じたくて――、エレノアは夢中になって舌をからめた。

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