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 次の日、エレノアはクライヴに散歩に誘われた。少し歩いたところにある湖まで行こうという。エレノアは迷ったが、体調不良で横になっていることが多かったので、少しでも体力をつけたい。頷けば、クライヴは妙に嬉しそうな顔で笑った。


 せっかくなので、クライヴがお昼は湖のそばでとろうと言い出して、バスケットを用意された。


 ずっと城の中にいたから気がつかなかったが、サランシェスはすっかり冬の様子だ。


 冬でも雪が降るほど寒くなる気候ではなく、ましてやこの離宮のあたりは王都よりも温かい。今から向かう湖も、湖底から温泉が湧きだしている温湖だそうだ。川の水も入り込むため、風呂のような温度ではないが、冬でも手をつけると温かいらしい。


 だが、つい最近までエレノアの体調が悪かったせいだろう。凍えるほど寒くないのに、クライヴによってドレスの上に分厚いコートを着させられ、首にはぐるぐるとマフラーが巻かれた。中に綿が詰められている防寒用のブーツまで履かせられる。


 エレノアの防寒対策を施したクライヴは満足そうに頷いて、エレノアを連れて離宮を出た。


 湖まではゆっくり歩いて十五分ほどだった。


 湖に近づくと風に微かな硫黄の匂いが混じるのは、湖の底から湯が湧きだしているからだろうか。


 ただ、それほど強く匂わないので、最初は気になった硫黄の匂いもすぐに気にならなくなる。


 クライヴは湖の岸辺に持って来た敷物を敷くと、その上にバスケットをおいた。


 空は気もがほとんど見られないほどきれいに晴れている。


 エレノアは、クライヴが温かいと言っていたので試しに湖に手を入れてみた。お風呂ほど温かくはないが、外気よりもずっと温かい。湖から湯気が出ているように見えるのはそのせいだろう。


「エレノア」


 呼ばれて振り返ると、クライヴが敷物の上をぽんぽんと叩いた。


 エレノアが敷物の上に座ると、サンドウィッチを手渡される。スモークしたマスとハーブのハンドウィッチだそうだ。


 ナイフとフォークはないのでそのままかぶりつくと、スモークの香りが鼻に抜けた。


「……おいしい」


「そうか! よかった」


 クライヴも同じようにサンドウィッチにかぶりつく。


 クライヴとこうして、外で並んで食事を取っていることが不思議だった。彼と二人きりで出かけたことなんて、なかったから。


「離宮はどうだ? 不便なところはあるか?」


「大丈夫です」


 昨日の夜に到着したばかりだからよくわからないが、おそらく大丈夫だろう。強いて言えば、クライヴの雇った使用人くらいだ。彼女たち自身に不満があるのではなく、エレノアが他人に身の回りの世話をされるのに慣れていないだけ。着替えを手伝われたり、髪を結われたり――、月の宮殿で、リーファも少しはエレノアの身の回りの世話を焼いたが、侍女がするような真似をされたのははじめてだ。いたたまれないのだが、これが彼らの仕事だから、やめてほしいと言うわけにもいかない。


 風呂だって――


 月の宮殿にいたときも、風呂から上がればリーファが髪の毛や体に香油を塗ってくれた。リーファ曰く、エレノアは肌が乾燥しやすいらしい。バランスよく食事を取りはじめてからは前ほど乾燥しなくなったそうだが、肌が傷つかないようにリーファが香油を塗ることを勧めてくれたのだ。


 どうしても自分の手では届かない場所があるので、リーファに香油を塗ってもらうのには慣れていた。


 しかし、離宮の使用人たちは違う。二人がかりで風呂上がりのエレノアにマッサージを施してぴかぴかに磨き上げる。マッサージは気持ちいいのかもしれないが、エレノアは恥ずかしくてそれどころではなかった。そんなことはしなくてもいいし、むしろやめてくださいとお願いしたいが――、やはりこれも、彼女たちの仕事。エレノアには「耐える」という選択肢しかない。


「まだ食べるか?」


 口の小さいエレノアが、一つ目のサンドウィッチを半分ほど食べ終えたところでクライヴが訊ねた。


 クライヴは二つ目のサンドウィッチを食べ終えて、三つ目を頬張っている。


 二つも食べられる自信がなかったのでふるふると首を横に振ると、クライヴがバスケットの中から、小さめのサンドウィッチを取り出した。


「中にフルーツが挟んである。これならあと一つくらいは食べられるだろう」


 サーシャロッドといい、クライヴといい、どうしてエレノアに食事を取らせたがるのだろう。


 エレノアはフルーツサンドの大きさを確認して、それくらいなら頑張れば食べれそうだったので頷いた。


 一つ目のサンドウィッチを食べ終えて、フルーツサンドに手を伸ばしたところで、クライヴが申し訳なさそうな顔をして口を開いた。


「ラマリエル公爵――今は前公爵だが、お前の父たちが身分を剥奪されたために、お前はもう帰るところがなくなってしまった。お前の叔父に預けることはできなくもないが――、どうする?」


 エレノアは驚いた。エレノアの中に、公爵家に「帰る」という選択肢がなかったからだ。もし帰れたとしても帰りたいとは思わない。もちろん、叔父のもとへも。エレノアが帰りたいのはサーシャロッドの腕の中だけだ。


 叔父の顔は知っているが、それほど話したことはない。会いに行ったこともないし、会いに行くのを許されたこともない。父と叔父は仲が悪かったそうで、エレノアが叔父と会ったことがあるのは、たまたま城で顔を合わせたことがあるからだ。


 悪い人ではないのだと思う。当時いつも顔色が悪かったエレノアを心配して「医者を呼ぶか?」と聞いてくれた。何か悟ったような顔で、困ったことがあれば頼って来てもいいとまで言ってくれた。だが結局、エレノアは首を横に振った。


「わたしは――」


「婚約するか?」


 突然だった。


 驚いて顔をあげたエレノアの瞳を、真剣な色をしたクライヴの双眸が見つめる。


「俺ともう一度婚約すれば、離宮でも城でも、いつまででもいることができる。お前が乗り気ではないのは、この前訊いた時にわかっているつもりだ。だが――、俺と婚約すればこの国でお前の居場所ができる。悪い話ではないはずだ。もちろん大切にする。前のようにひどい態度はとらない。だから、前向きに考えてくれないか」



 エレノアが口を挟むのを恐れるかのように、クライヴが早口で言った。


 返事ないそがないと言われて、エレノアは茫然とする。


 エレノアには、どうして彼がそんなことを言うのか、わからなかった。

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