2
夜、リーファが風呂から上がると、晩酌をしていたラーファオが顔をあげた。
リーファが黙って隣に座ると、まだ湿っている髪に触れられる。風邪を引くぞと、ラーファオが布で髪の毛をぬぐってくれたので、久しぶりにされるままになった。
昔――、それこそ、チューロンで暮らしていた子供のころは、よくこうして髪を乾かしてもらっていた。幼いころに濡れたまま走り回り、叱られたこともある。
あまり思い出さなくなっていた昔を思い出してしまうのは、十年ぶりに再会した異母弟のせいだろう。
まだあどけなさの残る十二歳の子供から、いきなり二十二歳の青年になって現れたときは驚いたが、もう十年もたつのだから仕方がない。
リーファがころんとラーファオの膝に頭を乗せると、「乾かしにくいだろう」とラーファオが笑った。
「どうした、今日は珍しく甘えてくるな」
「ちょっと……、甘えたい気分なの」
こんな気分になるのも、昔を思い出したせいだ。
チューロンの宮城で暮らしていたとき、とにかくラーファオの気を引きたくて仕方がなかった。我儘を言っては怒られて、甘えては叱られた。それでも駄々をこねれば、疲れたようにため息をつかれて、それでもそばにいてくれたラーファオは、当時はそれが仕事だったからだと思う。
彼に恋をしたのは――、たぶん、まだ後宮の奥の部屋を与えられる前だったと思う。
幼いころからそばにいた年の離れた兄のような彼に、淡い恋心を覚えるのにはそれほど時間はかからなかった。
でも、最初は全然相手にされなくて。
泣いて駄々をこねて怒られて、また泣いて謝ったら頭を撫でられた。そんな、どう考えても対等にみられていない、関係。
後宮でちやほやされて育ったリーファが唯一手に入らない存在がラーファオで、母でさえ叱らない自分を容赦なく叱りつけるのも彼だった。
「昔はお前が言うことを聞かなくて、髪を乾かそうとしても駄々をこねて逃げるから、尻を叩いてやったことがあったっけ」
くつくつとラーファオが思い出したように笑うので、リーファは真っ赤になった。
「そ、そんなこと、忘れて!」
「いーや、無理だな。お前には手を焼かされたから」
「あ、あなたは、容赦なかったわ……」
「俺以外に叱るものがいなかったからな」
本当なら、皇女に手をあげたら処罰が下る。そうならなかったのは、リーファが彼のそばにいたかったから。ラーファオもそんなリーファの気持ちをわかっていたからなのか、容赦がなかった。
「俺がしつけてなきゃ、お前はとんだじゃじゃ馬になっただろうよ」
確かにその通りかもしれないので、リーファは赤い顔のまま押し黙る。
ちょっとした我儘や悪戯は許されたが、度がすぎるときつく叱られた。帯で柱に括りつけられて、ごめんなさいと百回言わされたこともある。その時のことを思い出すとさすがに恨めしくて、リーファはムッとした。確かあのときは、ちょっと困らせてやろうと思って、部屋の中を水浸しにしただけだ。絨毯がびちゃびちゃになったが、乾かせばいいのだから、あんなにも怒らなくてもよかったのに。
あの頃のリーファは、とにかくラーファオの気を引きたくてたくさん悪戯をしていたように思う。そのたびに叱られて泣いて謝って甘やかされる。その繰り返しだった。ちっとも女扱いしてくれなかった、子供のころ。
大好きだった。だから、こうなったことは後悔していない。もしサーシャロッドに拾われなくて、ラーファオとともに命を失っていても後悔はしなかっただろう。だけど――、今日、ユアンに聞かされた祖国の現状には、胸が痛んだ。おいてきてしまった当時幼かったユアンに、申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
「まさかそんなことになっていたなんてな」
リーファの髪をぬぐい終わって、ラーファオが頭を撫でてくれる。
彼の手は昔から優しくて、頭を撫でられるととても幸せな気持ちになった。
リーファが起き上がると、お猪口を手渡される。無言で透明な酒を注がれて、リーファはそこに映る自分を見つめた。
ラーファオは酒が弱いくせに、たまにこうして飲みたがるからいけない。ちなみに酔った彼は少し強引になるから、リーファはそのあといろいろ恥ずかしい思いをして、ひどい目に遭うことも多々あるのだが、今日はそれでもいいと思ってしまったから、リーファも少しおかしいのかもしれなかった。
舐めるようにお猪口に口をつけると、度数の強い酒が一気に体を熱くする。
「後悔してるか?」
ラーファオに問われて、リーファはすぐに首を横に振った。しているはずがない。望んだのはリーファだ。一緒にいたいと泣いたリーファに、ラーファオは手を差し伸べてくれただけ。後悔しているのはむしろ――、ラーファオではないか。だが、リーファは怖くて訊ねることができなかった。
「あなたはお兄様……、第一皇子と、仲が良かったわ」
「ん、あー、まあそうだな。年が同じだったからな」
「お兄様がいずれ即位した暁には、側近になれって言われてたことも知ってる」
「また懐かしい話を」
ラーファオが苦笑する。
いくら護衛で武官とはいえ、皇女のそばにラーファオがいてくれたのは、リーファが兄に我儘を言ったからだ。だから、リーファがラーファオとともに城から逃げたとき、間違いなく兄にも責任の追及がなされたと思う。
リーファが視線を落とすと、ラーファオが肩を抱き寄せた。
「そんな顔をするな。……あの日、俺を手引きしたのはあいつだ。連れて逃げろと言った。あいつの手引きがなきゃ、宮城から出る前に俺は殺されていただろうよ」
「お兄様が……」
「それでも、選んだのは俺だ。お前がそんな顔をする必要はない」
そっとこめかみに口づけられる。リーファはラーファオの肩口にすり寄った。
「お兄様……」
それでも、リーファは泣くのを止められなかった。
ユアンの話では、第一皇子は殺されたらしい。リーファを愛してくれた唯一の兄は、もうこの世にはいないのだ。
第三皇子が憎いと思った。でも、それ以上に悔しいのは、自分一人こうして幸せに暮らしていたことだ。祖国が、兄が、ユアンが大変な目に遭っていたというのに、リーファは何も知らなかった。知っていて教えなかったのは、サーシャロッドの温情だろう。知っていたところでリーファにはどうすることもできない。サーシャロッドは人間界の諍いにはかかわらない。ただ、兄が死ぬのを、祖国が戦火に包まれるのを、何もできずに待つことしかできないのだ。
ラーファオがリーファの手からお猪口を取り上げて、深く唇を合わせてきた。
舌がからめとられて、酒の味がする。
「忘れろ」
そう言われても、忘れられるはずはない。
だけど一時だけ、考えるのをやめたくて、リーファは縋りつくようにラーファオの首に腕を回した。
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