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 ことの起こり――、エレノアが浴室に強制連行されるという事件の原因を知るには、一時間前に遡る必要がある。


 エレノアはこのとき、リーファとともに作った、バタークリームでデコレーションしたカップケーキを持って、ばあやが暮らす棟に向かっていた。


 このカップケーキは、とあるお祝い事のプレゼントのための試作品で、ばあやに試食してもらって意見を聞きたかったのだ。


 妖精たちの意見を取り入れて、今日のカップケーキには蜂蜜がたっぷり使ってある。バタークリームも甘めなので、エレノアが試食したときにはちょっと甘すぎるかもしれないと思ったのだが、ばあやの意見はどうだろうか。


 カップケーキの入った箱を持って、エレノアはぱたぱたと小走りで回廊を進む。急がなければ、毎日サーシャロッドと妖精たちと一緒にすごしているティータイムの時間に遅れてしまうからだ。


(バタークリームにフルーツのジャムを混ぜ込んでも美味しそうだし、カラフルになるし、たくさん試してみたいな)


 サーシャロッドも妖精たちも、何を食べてもおいしいと言ってくれるから、嬉しいけれど参考にはならない。ばあやなら、きっと的確な評価を下してくれるはずだ。


 てってって、と回廊を進む。


 カップケーキの入った箱を落とさないように集中していたので、エレノアは周りの様子に注意を払っていなかった。


 そのせいで――


「え、……わあっ!」


 突然、左の方から男の人の声がした――、そう思ったときには、勢いよく「誰か」にぶつかってしまっていた。


「きゃあっ!」


 エレノアはぶつかった拍子にそのままつんのめって、カップケーキの入った箱を放り出してしまった。


「危ない!」


 そのまま顔面から回廊の床に激突することを覚悟して目を閉じたのだが、衝撃はあったが思ったほどの痛みは襲ってこず、恐る恐る目をあけたエレノアは瞠目した。


 男だ。


 それも、人間の、男の人。


 日に焼けたちょっぴり小麦色の肌に、一重の切れ長の黒い瞳。髪は一つに束ねられて、三つ編みにされていた。


「いたたたた……、怪我はないですか?」


 その男が、エレノアの下から声をかける。――そう、下、だ。


 エレノアは今、男を下敷きにして回廊の床に倒れている状態だった。


 あまりのことに頭の中が真っ白になる。


 カップケーキの箱は、天井に向かって伸ばされている男の左手の上にキャッチされていて無事だったが、それすらも目に入らない。


 知らないと男の人だ。はじめて見る。そんな見ず知らずの男の人にのしかかるようにエレノアは倒れていて――


「ご、ごめんなさい!」


 ハッと我に返ったエレノアは、慌てて男から飛びのいて、その場に正座をした。深々と頭を下げて謝罪すれば、上体を起こした男の方が慌てた。


「いや――、俺は大丈夫です。それよりも、まずい。早く逃げないと。はい、箱の中身は――もしかしたらぐちゃぐちゃになっているかもしれないから念のためにあけて確認してみてくださいね。じゃ!」


 男はエレノアの手に箱を押しつけて、まるで何かに怯えるかのようにその場から立ち去ろうとした――のだが。


「そこで何をしている」


 氷のように冷たい声が聞こえて、男はぴしっと動きを止めた。


 エレノアもその場に座り込んだまま首を巡らせて振り返る。声はサーシャロッドのものだが、どういうわけかものすごく不機嫌そうだ。そして、振り返った先にいた彼の顔も、なんだか怖い。


(サーシャ様、怒ってる……?)


 エレノアはビクリと肩を強張らせてそのまま硬直した。


 エレノアが回廊を走ったから怒っているのだろうか。それとも、転んだからだろうか。エレノアは怯えて、びくびくとサーシャロッドを仰ぎ見る。お仕置きは嫌だ。前にお仕置きですごく恥ずかしいことをされた経験のあるエレノアは、真っ青になる。


 サーシャロッドはそんなエレノアのそばにつかつかと近寄ると、彼女をひょいと抱え上げて、じろりと男を睨んだ。


「何をしている、ラーファオ」


 ラーファオ、という名前にエレノアはびっくりして男を見た。ラーファオという名前は知っている。リーファの夫の名前だ。この三か月半。一度も姿を見たことのなかったラーファオだが、こんな形で会うことになるとは思わなかった。


(ぶつかって下敷きにしちゃうとか……、恥ずかしい)


 エレノアは頬をおさえて俯くが、その様子を見てサーシャロッドはさらに面白くなさそうな顔をした。


 ラーファオはあきらめたように肩を落としてサーシャロッドに向きなおった。


「言っておきますが、これは不可抗力ですからね! 廊下を歩いていたときに偶然ぶつかったんです。いつもはこのあたりに来られることがないから油断していたんです」


「ぶつかった?」


 ぴくり、とサーシャロッドの片眉が上がったが、ラーファオはそれには気がつかず、疲れたように嘆息した。


「大体、一緒の宮殿で暮らしているのに無茶ですよ。この三か月半、どれだけ大変だったか……。って、サーシャロッド様、聞いてますか?」


 だが、どうやらサーシャロッドは聞いていなかったらしい。


「話はあとだ」


 くるりと背を向けると、ぽかんとしているラーファオをおいて、エレノアを抱えてすたすたと歩いていく。


 そして、エレノアはその足で寝室の続き部屋にある浴室へと運ばれて裸に剥かれることになったのだった。

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