パスツール・知らぬが仏


 パスチャライゼーションという言葉をご存じであろうか? ご存じない? ならば、こう言い換えるとどうだろうか。


 低温殺菌法という言葉をご存じであろうか?


 これならば、どこかで少しは耳にしたことがあるのではなかろうか? ヨーグルトや牛乳、ワインなどのアルコール類にこの殺菌法はよく使用されている。これならば、高温殺菌法のように風味をそこなったりアルコールを蒸発させずに殺菌ができるのだ。

 この低温殺菌法というものは、一八六六年に、ルイ=パスツールによってワインの殺菌法として最初に導入されたのが始まりだと言われている。

 ルイ=パスツールという人は、フランスの偉大なる研究者の一人で、近代細菌学の開祖としてその高名を知られている人物だ。

 ゆえに、低温殺菌法を示すパスチャライゼーションという言葉も、このルイ=パスツールの名前からとられてそう呼ばれているのだ。


 さてさて、このルイ=パスツールという人物、近代細菌学の開祖というだけあって、細菌に関する学識は当時のフランス学会、ひいては世界的に見てもとてつもない叡智を誇っていた人物であったそうだ。

 だが、哀しいかな、それゆえにルイ=パスツールにとある災難がふりかかることになってしまったのだ。


 その災難とは、強迫観念。


 なまじっか細菌に詳しかったため、パスツールは病的なまでに不潔や感染を恐れ始めるようになってしまったのだ。

 わかりやすく言うと、潔癖症。それも、尋常ならざるほどの潔癖症。

 他人とのキスやハグを拒絶したのはもちろんのこと、握手でさえも嫌がり、食器類は徹底的に自分が洗浄しなければ食事もできぬというほどの潔癖さ。

 もちろん、幼少期からそうであったのではない。歳を重ねて、細菌学を追求していけばいくほど、この世には目には見えぬ細菌というものが、いたるところにびっしりと繁茂しているのだと知るところになり、それによって、パスツールは神経がおかしくなるほどの潔癖症に陥ってしまったのだ。


 しかし、細菌の全てが悪かというと、当然そんなことはなく、触れてもなんら問題の無い細菌のほうが多いのだ。

 そこかしこに細菌があるなど、知らなければ意識しないこと。普通は見えないのだから、意識などするわけがない。

 だが、パスツールは知ってしまったのだ。細菌というものを。それが、目には見えないが、そこかしこに繁茂しているものだと。

 まさに、知らぬが仏を地で行く、とても良い例だと言えよう。


 学ぶことは素晴らしい。実際に、パスツールの低温殺菌法は、世界中の様々な国の人々に恩恵をもたらしてくれた。

 しかし、低温殺菌法を生み出したパスツール本人は、その細菌学の知識によって、生涯心休まることのない強迫観念に陥ってしまうハメになってしまったのだ。

 知らぬが仏。あまり知りすぎるということは、本人にとって、必ずしもいい結果が訪れるということではないらしい。

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