血の中傷

Athanasius

血の中傷

 私は、夜が嫌いだった。

 だって、夜は、夢を見るから。

「この役立たず」

「さっさと拾ってきな」

「逆らうんじゃねえ」

「死にてえのかてめえら」

 それは、昔の記憶。

 どれほど忘れたいと願っていても、過去から逃れることはできない。

 詰られる。貶される。謗られる。責められる。

 叩かれる。抓られる。殴られる。殺されかける。

「うるさい」

 同僚が目を覚ました。

「いい加減にして」

 同僚に怒られた。

 ここでは、どのような過去を持っていても、憐れまれることはない。

 だから、

「ごめんなさい」

 私は謝った。

「ごめん、なさい」

 私はひたすら謝った。

 私は、謝ってばかりだった。あの場所に居たときも、ここに来てからも。

 抜け出したと思っても、結局は囚われたまま。

 魂が牢獄に繋がれているから、肉体だけ抜け出しても意味はない。

 だから、

 私は、本の世界へ逃げ出した。

「Humpty Dumpty sat on a wall.

 Humpty Dumpty had a great fall.

 All the king's horses and all the king's men

 Couldn't put Humpty together again.」

 それは、不思議な世界。

 それは、自由な世界。

 それは、楽しい世界。

 それは、こことは違う世界。

 だから、私は、自由で居られた。

 だから、私は、楽しく居られた。

 だから、私は、そこに住むことを願った。

 そして、

 彼女も、また、まるで違う世界に居るかのようだった。


†††


 私は、廊下を歩いていた。

 天井には無数のシャンデリアが吊り下がり、床には金で縁取られたベルベットが敷かれている。誰が見ても、豪奢と思うに違いない。私は、ここに来て数年になるけれど、いまだに、この廊下を踏むのに躊躇してしまうことがある。それくらいに、ここは、もと居た場所とは違った空間だった。

 だけど、その空間にも負けないほど、美しい少女がひとり。

 金の髪、翠の瞳、紅い唇、白い肌。

 優雅な手つき、鷹揚とした足どり、凛々しいまなざし、優しいほほえみ。

 まるで、絵本に登場するお姫様。何もかもが完璧で、神様に愛されたとしか思えない。

 それが、あなた。

「おはよう、メアリ」

 彼女は、私に声を掛けた。

「えっ」

 それは、それほど珍しい行為ではなかった。誰にでも優しい彼女は、使用人の私相手でさえも、見つければ声を掛けてくれる。それでも、驚いてしまうのは、私が、彼女をどこか遠い存在だと感じているから。

 まるで、本の中の住人が動いたかのようで。

「あ、おはよう、ございます」

 私は、焦って返事をした。

「また、夜まで本を呼んでいたの?」

「え?」

「だって、目が赤いわ」

 彼女は、駆け寄って、私の目をじっと見つめた。薔薇のような香りが漂う。思わず、うっとりしてしまうような香り。

 確かに、自分では気が付かなかったけれど、目が赤くなっているのかもしれない。昨夜は、遅くまで本を読んでいたし、声を殺して泣いてもいたから。それでも、使用人の、そんな小さな体の変化に気が付けるということは、彼女の観察力と優しさとを表している。

「もうしわけ、ございません」

「あら、怒ってなどいないわ」

 そう言って、彼女は無邪気に笑った。

「でも、よほど面白い本なのね。私も、いつか読んでみたいわ」

「ええ、ぜひ」

 私は、薄く笑みを浮かべた。

 彼女のほほえみを見ているだけで、心が洗われるようだった。まるで、天使に祝福されたかのように。

 コツ、コツ。

 靴音が聞こえた。その瞬間、彼女の表情に影が差す。それでも、彼女が振り返ったときには、もう、表情は戻っていた。視線の先には、彼女のお母様が居た。

「お母様」

 それは、敬愛に満ちた声だった。だけど、それを受けても、お母様は厳しい表情を浮かべていた。まるで、使えない召し使いを相手ににしているかのように。

「クリスですか」

 お母様は、足を止めた。その声は、クリス様の声とは打って変わって、冷たい声だった。その対比に気付いて、私は、いつも悲しくなる。

「お母様、昨夜の話は」

「昨夜の話とは?」

「私の、世話係の話です」

「ああ、それでしたら、あなたの好きになさい。そう言ったはずです」

 お母様は、億劫そうに息を吐いた。

「ありがとうございます」

 クリス様は、それに気付いていないかのように、うきうきと弾むような表情で言った。そして、私のほうを向いたかと思うと、私の手を取った。また、薔薇のような香りが漂う。

「えっ?」

 私は驚く。クリス様は、私の驚きなど無視して続けた。

「ねえ、メアリ」

「は、はい」

 私は、なぜかどきどきしていた。手を通して、クリス様の温かさが伝わってくる。

「あなた、読み書きができるって、本当?」

「え? え、ええ、はい。一応」

 私は、戸惑いながら答えた。

「すごいわ。さすがメアリ! ねえ、お母様。それなら、このメアリを世話係にしてくださいな」

 はしゃぐようにそう言って、クリス様は、お母様のほうに向き直った。それでも、お母様の表情は変わらない。むしろ、忌々しげにも見える。

「好きになさい、と言ったはずです」

「それなら、決まりね」

 クリス様は、もう一方の手も、私の手に重ねた。そして、両手を自分の胸のほうまで引き寄せる

「これからよろしく、メアリ」

「え、よろしく、とは……」

 私は困惑した。何を言えばいいか分からなかった。ただ、クリス様に握られている手が熱くて、自分が汗をかいていることだけは分かった。手汗をかいていることを、クリス様に知られたくなかった。だけど、クリス様の手を握っていると、何だか心地よくて、手を離してほしくないという気持ちもあった。

「そうと決まったら、アルフレダ」

「はい」

「準備をしてあげて」

「かしこまりました」

 クリス様の呼びかけに、いつの間にか後ろに居た乳母のアルフレダが応じた。アルフレダは、私をむりやり衣装部屋まで連れてゆく。

「あの、アルフレダ様」

「喜びなさい。あなたは、クリス様の世話係に任ぜられたの」

「世話係、ですか?」

 そう言われても、私は何をすればいいのか分からない。戸惑うばかりの私をよそに、アルフレダは服を取り出した。

「さあ、この服に着替えなさい」

「え、でも……」

 その服は、洗濯メイドなどには着ることのできない上等なものだった。そんなもの、一度たりとも袖を通したことがない。私は緊張した。

「いいからいいから」

 言われるままに、私はその服に着替えた。鏡を見ても、まだ信じられない。使用人用の衣装ではあるけれど、まるでメイド長にでもなったかのような気分だった。

「うんうん。サイズは合っているわね。それじゃあ、行きましょう」

「え、でも……」

「クリス様の命令ですよ。さあ、観念して、行った行った」

 アルフレダが扉を開ける。その先には、クリス様が立っていた。

「あら、とてもよく似合っているわよ。素敵ね、メアリ」

「その……」

 私は恥ずかしかった。顔が熱くなるのを感じる。だけど、クリス様の命令に逆らうわけにはいかない。

「これからよろしくね、メアリ」

「そう、言われ、ましても……」

 私は、まだ戸惑っていた。そんな私の顔色に気付いたのか、クリス様は心配そうに言った。

「あら、イヤだったかしら」

「め、滅相もございません!」

 私は遮るように言った。クリス様のお付きのメイドになるなど、身に余る光栄だ。だけど、なぜ私が選ばれたのかが分からないし、私に務まるとも思えない。

「なら、よろしくね」

「でも、私などに、務まるかどうか」

「そう緊張しないで。最初は、誰だって失敗するものよ」

 クリス様は、やわらかな笑みを浮かべた。そう言ってくれると、少しだけ気持ちが和らぐ。

「それに、最初はアルフレダが色々と教えてくれるでしょうから」

「ええ、バッチリ教えますとも」

 アルフレダは自分の胸を叩いた。

「それにしても、どうして私などが」

「クリス様は、読み書きのできる子がほしかったそうよ」

「読み書き、ですか?」

「ええ。だって、それなら、本を読んでもらえるし、いろいろなことを教えてもらえるでしょう? それに、メアリなら歳も近いから、遊び相手にもなってくれると思って」

「遊び相手、ですか」

「だって、いつもはアルフレダしか遊び相手になってくれないものだから、つまらなくて」

「あら、申し訳ございませんでしたわねえ。つまらないおばさんで」

 アルフレダは、大きな体を揺らして笑った。

 確かに、それなら、私に白羽の矢が立つのも頷ける。この家の使用人は、読み書きができる者が特に少なく、同年代という条件も合わせれば、私くらいしか該当しない。

 私は、昔からおとぎ話が好きだった。だから、自分の力で、本を読んでみたかった。それで、前に、歳上のメイドに頼んで、読み書きを教えてもらったことがあった。そのおかげで、クリス様の世話係という大役を任せられたのであれば、私は、昔の自分に感謝しなければならない。

 それでも、まだ、不安が晴れたわけではない。ただ、クリス様が直々に指名してくださったのだから、その期待には応えたい。

「それでは、今日は、何をすればいいのでしょう」

「そうですねえ。とりあえず、今日はクリス様の遊び相手にでもなってくださいな」

「ええ、ええ。メアリ、私と遊びましょう」

 クリス様は、再びにっこりと笑った。

 遊び相手になるくらいなら、私でも難しくないかもしれない。また気持ちが軽くなって、ようやく、私は冷静さを取り戻しつつあった。

「それでは、どんな遊びをしましょうか」

「人形遊びがいいわ」

「人形遊び、ですか」

「メアリは、人形遊びは好き?」

「いえ、私は……」

 私は口ごもった。

「人形遊びというものを、したことがなくて」

「あら」

 クリス様は驚いた。その表情に、侮蔑や憐憫というものは浮かんでいない。そこにあるものは、ただ、驚愕だけ。

「それなら、ぜひやりましょう。とっても楽しいのよ。きっと気にいると思うわ。人形は、私が貸してあげるから」

「はい、ありがとうございます」

「それでは、部屋に戻りましょう」

 クリス様は、私の手を取って、自室へ向かって急いで歩き始めた。子供らしい仕草に、つい頬がゆるんでしまう。

「もう、クリス様ったら」

 私は、幸せだった。不安は残るけれど、こんなに愛らしい方のお世話ができるのだから。彼女が不自由しないように、力いっぱいがんばろうと、私は胸に誓った。

 私たちはクリス様の部屋へ入った。中は、廊下以上に豪奢で、壁紙、絨毯、机、椅子、タンス、ベッド、その至るところに立派な装飾が施されている。そのうえ、よく手入れされていて、ほこりはひとつも落ちていない。私は、初めて入ったわけではないけれど、改めて入って、思わず嘆息した。この部屋に居るだけで、自分がお姫様になったかのような錯覚をしてしまう。

 使用人部屋は、もっと汚く、むさ苦しいものだから、似ても似つかない。

 アルフレダは、他にも仕事があるらしく、どこかへ行ってしまった。私は、クリス様とふたりきりになり、いよいよどうすればいいのか分からなくない。

「えっと、クリス様」

「さあ、お人形遊びをしましょう」

「ええ、はい」

 クリス様は、机からいくつかの人形を取り出してきた。ひとりが所有しているにしては、結構な数がある。

「わたし、お人形遊びが大好きなの」

 クリス様は、無邪気に言った。

「どうして、お人形遊びがお好きなのですか?」

 私は、何気なく訊ねた。

「だって、人形遊びをしているときは、私ではないものになれるから」

「クリス様ではないものになれる、ですか?」

「ええ」

 クリス様の声のトーンが、ほんの少しだけ下がる。どこか寂しそうにも聞こえた。

「ほら、この子を見て」

 クリス様は、人形のうちのひとつを拾い上げた。それは、金髪と碧眼を持った男性の人形だった。

「この子の名前は、クリスティン」

「クリスティン?」

 それは、クリス様と同じ名前だった。

「クリスティンって、まるで私が男の人になったみたいでしょう?」

 確かに、言われてみれば、髪の色も瞳の色も同じで、どことなく、クリス様に似ているところがある。

「だから、クリスティンですか?」

「ええ」

「クリス様は、クリスティンになりたいのですか?」

 私は驚いた。だって、クリス様は、何者にもなる必要がないように思えたから。恵まれた才能、恵まれた容姿、恵まれた出自。きっと、クリス様は、成長すれば、誰にも羨まれるような存在になるに違いない。だから、そんな言葉は、彼女にふさわしくない。

 それでも。

「そういうわけではないわ。でも……」

 クリス様は目を伏せた。その寂しげな表情に、胸を打たれる。

「もし、そうであれば、お父様も、お母様も、きっと喜んでくれたでしょう?」

 まぶたの裏が熱くなる。私は、今にも泣き出してしまいそうになった。

 クリス様は、このローズ家の一人娘である。つまり、このローズ家には、家督を継ぐ男子が居ない。ご両親ももう若くはなく、新しく男子を授かる望みは薄い。だから、お母様のアデレイド様は、男子を産むことのできなかった自らを恥じ、男子として生まれてこなかったクリス様を厭っている。だから、あのように冷たい表情を浮かべる。

 クリス様は、その境遇を知っていた。幼いながらも、自らが望まれない子供であることを知っていた。この小さな体に、その悲しみを秘め、それでもなお、明るく振る舞っていたのだと思うと、私は、悲しくて、悲しくて、涙が止められなくなりそうだった。

「人形遊びをしているときは、私は、クリスではないものになれる。だから、私は、人形遊びが好きなの」

「クリス様……」

「あなたは、どう?」

「わたし、ですか?」

 突然の問いかけに、私は戸惑った。

「あなたは、自分以外の誰かになりたいと思ったことは、ない?」

「それは……」

 私は逡巡した。そして、考える。クリス様の問いかけの答えを。

 私は、要領が悪い。家事は得意ではないし、他人と話すことも苦手だ。今でも、自分がクリス様のお世話を上手くできるか、心配でならない。

 だから、いつも誰かを羨んでいる。

 だから、いつも誰かに憧れている。

 もし、私が、他のメイドのように生まれていたら、これほど家事を失敗して、叱られることもなかったのに。

 もし、私が、クリス様のように生まれていたら、貴族の娘として、何不自由ない暮らしを送っていたのに。

 毎日のように、そんなことを考えている。

 だけど、クリス様の悲しみを耳にして、少しだけ、そのような思いは薄らいだ。きっと、誰もが誰かを羨んで生きている。それは、私だけの苦しみではない。

 そして、それは、クリス様も同様である。

 今まで、クリス様のことを遠い世界の存在のように思っていたけれど、もしかしたら、本当はもっと近しい存在なのかもしれない。

 それを知って、

 少し、嬉しかった。

「あり、ます」

「そう。だったら、それと同じよ。だから、私は人形遊びが好き」

 しばらく、私たちは沈黙した。木々の揺れる声が聞こえる。

「ごめんなさい。変なことを言ってしまったかしら」

「いえ、そんなこと」

「改めて、人形遊びをしましょうか。さて、どんな話にしましょう?」

 クリス様の声の調子が戻った。私の気持ちも明るくなる。

「クリス様は、何がお好みですか?」

「私は、お医者さんごっことかが好きだけれど。でも、今日は、メアリの好きなことがしたいわ」

「私のことなど、構いません。クリス様の好きなことに致しましょう」

「私は、いつもやっているもの。それより、何か新しいことがしたいの」

「新しいこと、ですか」

 私は頭を捻った。

 私は人形遊びをしたことがないから、何が新しくて、何が新しくないのかが分からない。ただ、私の好きなものといえば、これしかない。

「クリス様は、『不思議の国のアリス』はご存知ですか?」

「『不思議の国のアリス』?」

 クリス様は復唱した。

「ええ、知っているわ。アリスが大きくなったり小さくなったり、不思議なことが起きるお話でしょう」

「はい、そうです」

「つまり、『不思議の国のアリス』ごっこをしよう、というわけね」

「ええ、その通りです」

「面白そうね」

 クリス様は、跳ねるように笑った。

「それでは、メアリはこの子を使うといいわ」

 クリス様は、私に小さな女の子の人形を渡した。

「今回は、この子がクリスということにしましょう」

「私が、主人公のアリスを?」

「ええ。だって、私はクリスティンが使いたいもの」

「分かりました。では、今日は私がアリスですね」

 私は、女の子の人形を受け取った。

「それで、最初は何をすればいいのかしら」

「最初は、うさぎを追い掛けるシーンですね」

「では、クリスティンは、ウサギ役ということにしましょう」

 そう言って、クリス様は、クリスティンを走らせるように動かした。人形のように愛らしいクリス様が人形を操る様は、どこか滑稽だった。

「そして、穴に落ちるんです」

「では、穴はこの辺りにしましょう」

 クリス様は、床の一点を指差した。その方向に向かって、クリスティンを動かす。私も、クリスティンを追うように、アリスを動かした。クリスティンは、穴の辺りにぶつかると、遠くへ隠れてしまった。アリスは、穴の辺りまで来ると、ゆらゆら揺れて、落ちているような動きをした。

「ああ、わたし、落ちているわ。いったい、どこまで落ちてしまうのでしょう」

 私は、芝居がかったセリフを言った。それを見て、クリス様は小さく笑った。

「それで、次は何が起きるのだったかしら。確か、誰かと会うのよね。ええと、ハンプティ・ダンプティ?」

「いえ、それは『鏡の国』です」

「あら、そうだったかしら。ごめんなさい」

「でも、それなら、次はハンプティ・ダンプティにしましょうか」

 そう言って、クリス様は歌い出した。

「Humpty Dumpty sat on a wall.

 Humpty Dumpty had a great fall.

 All the king's horses and all the king's men

 Couldn't put Humpty together again.」

 私も声を合わせる。この国のひとなら、誰もが知っているマザー・グース。

「それでは、今度は、クリスティンがハンプティ・ダンプティね」

「ハンプティ・ダンプティのセリフは、覚えていますか?」

「いいえ、ごめんなさい」

 クリス様は、首を横に振った。

「それでは、私が教えて差し上げます。私が言ったことを繰り返してください」

「ええ、分かったわ」

「『やあ、君。いったい、君は何というのだね?』」

「やあ、君。いったい、君は何というのだね?」

 クリスティンが、横柄な態度で言う。

「私は、アリスというの」

 アリスは、心細そうな声で言った。

「『ほう。それで、いくつなんだい?』」

「ほう。それで、いくつなんだい?」

「ええと、七つ半です」

「『いやいや、そんなこと、聞いていないだろう』」

「いやいや、そんなこと、聞いていないだろう」

「年齢を聞いていたのではないのですか?」

「『それなら、そうと言っている。しかし、七歳と六ヶ月とはね。もし、私に相談してくれていれば、七歳でやめとけと言っていたところだったが』」

「それなら、そうと言っている。しかし、七歳と六ヶ月とはね。もし、私に相談してくれていれば、七歳でやめとけと言っていたところだったが」

「そう言われましても、人が歳を取ることはどうしようもないことです」

「『ひとりならそうかも知れないな。だが、ふたりなら何とかできるかも知れない』」

「ふたりなら……」

 クリス様は、考えるように、斜め下を見つめていた。

 まるで、時が止まったかのように動かなくなって、私は心配になる。

「どう、されましたか?」

「残念だけど、おしまいみたいね」

「え?」

 そのとき、部屋の扉が開いて、外からアルフレダがやってきた。

「クリス様、お散歩のお時間ですよ」

「もう、そんな時間?」

 クリス様はため息をついた。外を見てみると、日が高く昇っている。

「名残惜しいけれど、メアリとは、これからいつでも遊べるものね」

「え、ええ」

 私は慌てて答えた。本当は、まだ自分の境遇をよく理解していなかった。

「では、行きましょう。メアリも付いてくるのよね?」

「ええと」

 クリス様に問い掛けられて、私はアルフレダのほうを見た。アルフレダは、両手を揉み合わせながら言った。

「ええ、もちろんです。これから、何をするにも、メアリが付き添うことになりますからね」

「そう、それはよかった」

 クリス様は小さく笑った。そう言って頂けると、私も嬉しい。

「さあ、メアリ。ボサっとしていないで、クリス様のお召し物を持ってくるのですよ」

「あ、あ、はい。ただいま!」

 私は焦って言った。そして、衣装部屋へ行って、自分とクリス様の服を取ってくる。

 着替えてから、私たちは外に出た。外は、夏の眩しさを残していて、じわりと暖かい。草の青々とした匂いを感じながら、鳥や虫たちが跳ねる姿を見つめる。

「クリス様、日傘の中へ」

「ええ」

 私は、クリス様の白い肌が日に焼けてしまわないように、日傘を差すように言われていた。だが、クリス様は、とてもゆっくりと、しかもふらふらと歩くため、なかなか上手く差すことができなかった。屋敷の中では、クリス様は堂々と歩いている。それなのに、なぜ、外を歩くときだけ、このような歩き方になるのだろうか。

「どうして、クリス様は、そのように、足元をじっくりと見ながら歩かれるのですか?」

「不思議なことを聞くのね」

 クリス様は、事も無げに言った。

「メアリも、やっぱり気になりますよねえ」

 だが、アルフレダだけは、賛同してくれていた。

「だって、そうしないと、虫や草を踏んづけてしまうじゃない」

「虫や草花を踏んづけないように、そうして歩いておられるのですか?」

「だって、踏んづけてしまったら、かわいそうでしょう?」

 クリス様は、さらりと言った。

 私は驚いた。

 すべての虫や草花を踏まないようにするのは、難しい。普通のひとは、そこまで気にしていない。それなのに、クリス様は、それをやってのけようとしている。

 だから、私は感動した。

 クリス様は、虫や草花にも深い憐憫を抱いている。そんな慈悲深い少女が、ほかに居るだろうか。

 彼女に仕えることができて、私は幸せ者だ。彼女に仕えることに、私は誇りを感じた。そして、これからも、彼女を支えられるように励むことを、固く胸に誓った。

 この世界には、人の死さえも気にしないような場所があるというのに。

「Humpty Dumpty sat on a wall.

 Humpty Dumpty had a great fall.

 All the king's horses and all the king's men

 Couldn't put Humpty together again.」

 突然、クリス様は歌い始めた。

「ハンプティ・ダンプティは、壁から落ちて死んでしまった。王様のすべての馬と兵隊が手を尽くしても、ハンプティ・ダンプティは元に戻らなかった。虫や、草たちも、死んでしまったら、元に戻らないのよ」

 そして、なぜか、そう言った。

「ねえ、メアリ」

「はい、クリス様」

 クリス様は、私のほうに向き直った。

「ハンプティ・ダンプティは、なぜ、『七歳でやめとけ』と言ったのかしら」

「え? それは……」

 私は口ごもった。

 『アリス』には、意味不明な文章が数多く登場する。何度も読んだ私でさえ、その意味をすべて理解しているわけではない。

「アルフレダは分かる?」

「いいえ。『鏡の国のアリス』でしたかねえ。私には分かりません」

「そう」

 クリス様は、不満そうに呟いた。

「ねえ、メアリ。あなたはいくつだったかしら」

「ええと、確か」

 私は、まごついて答えた。私は、読み書きはできるけれど、数の計算には自信がなかった。

「確か、八つです」

「そう。アリスより歳上なのね」

 クリス様は、静かに言った。

「では、あなたは、もっと成長したいと思う? 八歳より上の年齢になりたいと思う?」

「ええと、それは」

 私は焦った。何となく、クリス様が、いつものクリス様ではないように思えた。

 私はしばらく考えた。もし、自分がもっと上の年齢だったら、どうだっただろう。少なくとも、先輩のメイドに、歳上というだけの理由でいばられることはなくなるだろう。それだけでも、私にとっては、歳を取りたい理由は十分だった。

「はい、思います。だって、成長すれば、体も大きくなって、頭も良くなって、いろいろなこができるようになると思いますから。きっと、家事だって、今よりもずっと上手くできます。それに」

 私は、ふと後ろを向いた。そこには、アルフレダしか居ない。そのことを再確認して、私は、クリス様の耳元に口を寄せる。

「私が使用人の中で一番歳上になれば、誰も私には逆らえませんから」

「それはそうね」

 クリス様は小さく笑った。アルフレダも、コロコロと笑っていた。

「アシュリーには、内緒にしてあげましょう」

「ありがとうございます」

「でも」

 私たちの笑みを遮るように、クリス様は口をはさむ。

「私は、歳を取りたくないわ」

「そう、ですか?」

「だって、お父様は、いつもお仕事のことばかり考えて、難しい顔をしていらっしゃるし、お母様は、いつもシワが増えたと嘆いておられるわ。きっと、私も、歳を取れば、お父様やお母様のように、思い悩むことばかりになるのでしょう。だったら、私は、今のほうがいいわ」

「それは、そうかもしれませんね」

 私は苦笑した。確かに、おふたりは眉間にシワを寄せてばかり居る。

「でも、きっと、大人になったほうがいいこともありますよ」

「そうかしら」

 クリス様は、まだ納得してない様子で言った。

「アルフレダは、どう思う?」

 クリス様は、私の奥に居るアルフレダに向かって言った。

「私ですか?」

 アルフレダは、人好きのする口調で言った。

「私は、確かに、歳を取ることで、できることが増えたように思いますねえ。若い頃には見えなかったものが見えるようになったと言いますか、そういうことが多くなったように思います。ですが、最近は、衰えというのですか。体力や視力も落ちてしまって、困ることも多くなってしまいましたねえ。でも、大人にならなければ、子供を産むこともできなかったし、何より、クリス様に出会うことはできなかったでしょうからねえ。私は、大人になれてよかったと思いますよ。でも、まあ、もしここに若返るための薬でもあったら、やっぱり飲んでしまうでしょうかねえ」

 アルフレダは、再び笑った。

 大人になれてよかった。その言葉を聞いて、私は思い出していた。

 私の近くには、大人になることもできずに死んでしまったひとがたくさん居た。彼らを置き去りにして、私はローズ家にやってきた。

 本当に、それでよかったのだろうか。

 彼らは、私を恨んでいるのではないだろうか。

 いや、恨んでいるに決まっている。それを思うと、私は、怖くてたまらなかった。

 きっと、彼らと会うことは、もうない。仮に会ったとしても、私のことなど忘れているかもしれない。それでも、私の心の中には、まだ後ろめたいものが残っている。だから、毎日のように、あのときのことを夢に見るのだろう。

 私の心は、まだ囚われたまま。いつになれば、解き放たれるのだろう。

「コマドリ」

「え?」

「コマドリが死んでいるわ」

 いつの間にか、クリス様は先に進んでいた。私は、慌てて走って、クリス様の上に傘を置く。クリス様は、地面のほうを指差していた。小さなコマドリの死体が落ちている。

「死んでいる、ようですね」

 目立った外傷はなかった。だから、なぜ死んだのかは分からない。だけど、カラカラに乾いていて、動かなかった。虫が這って、土に塗れて、とても汚らしい。

 そのとき、私は、ひどい恐怖に襲われた。それは一瞬のことだった。なぜそのように感じたのかは、分からない。

「Who killd Cock Robin?」

 クリス様が歌った。まるで、私に問い掛けているようだった。

「I, said the Sparrow,」

 私は歌詞の続きを歌った。クリス様は、それに応じて返してくる。

「with your bow and arrow?」

「I killed Cock Robin.」

「Who'll dig his grave? いえ、私が、お墓を作ってあげましょう」

 そう言って、クリス様は、道の端の草が生えていない部分を掘り返し、コマドリを埋めてやった。手が土に汚れても、構わずに。そして、真摯な表情で手を合わせ、十字を切り、黙祷を捧げる。私たちも、それに倣った。

 本当に、クリス様は慈悲深い。私は、また感動していた。

「ごめんなさい。そろそろ帰りましょう」

 クリス様は粛々と言った。そして、唐突に歩き始める。私の反応は遅れてしまって、クリス様の肌が少しだけ日に晒されてしまった。慌てて追い掛けて、日傘を差す。

「クリス様、突然歩かれないでください」

 私は恨み言を言った。クリス様はくすくすと笑う。

「あら、ごめんなさい」

「もうお帰りですか。もしかして、お疲れになられましたか?」

 アルフレダは訊ねた。

「ええ、そう。わたし、疲れたの」

「それでは、お帰りになられたら、お昼寝でもなされますか」

「そうね。それがいいかもしれない。でも、お昼寝の前に、本を呼んでほしいの」

「ええ、それなら、メアリに頼んでください」

「ねえ、メアリ。読んでくれるわよね?」

 急に話題を振られて、私は驚いた。

「え、ええ、はい。クリス様が、そうおっしゃられるなら」

「ふふ、ありがとう」

 そう言って、クリス様は再び歩き出した。

「London Bridge is broken down,

 Broken down, Broken down,

 London Bridge is broken down,

 My fair lady.」

 クリス様は、また歌い始めた。もしかしたら、クリス様は歌が好きなのかもしれない。

「ロンドン橋は、壊れたら何度でも直すことができるけれど、コマドリは、死んでしまったら、お墓を建ててあげることしかできないものね」

 クリス様は、呟くように言った。クリス様が何を考えているのか、私には分からない。

「これから、毎日、メアリが本を読んでくれるのよね」

 突然話が戻ってきたものだから、私は慌てた。

「え? あ、ああ。はい。そう、なのだと、思います。多分」

「これからよろしくね。マイ・フェア・レディ?」

「はい、よろしくお願いします」


 屋敷に戻って、私たちはまた服を着替えた。そして、クリス様のベッドに寝転がる。

「クリス様は、まだ読み書きができないのですね」

「ええ。もうすぐ、家庭教師が来て、教えてくれることになっているけれど」

「クリス様なら、きっとすぐにできるようになられます」

「だと良いわね」

 クリス様は小さく笑った。

「それで、何をお読みしましょうか」

「今日は、ギリシャ神話をお願い」

「ギリシャ神話、ですか?」

 ギリシャ神話なら、私もいくつか聞いたことがある。だけど、順序立てて聞いたわけではないから、詳しいことは知らない。

「メアリは、ギリシャ神話は知っている?」

「少しだけなら。でも、本として読んだことはありません」

「そう。なら、一緒にお勉強しましょう」

「クリス様は、ギリシャ神話をご存知なのですか?」

「ええ。アルフレダに、何度か読んでもらったの。でも、アルフレダは、もっと『シンデレラ』とか『赤ずきん』のような本を読みなさいって、うるさくって」

「ははは……」

 私は苦笑した。

「では、どこをお読み致しましょう」

「プロメーテウスのところがいいわ」

「プロメーテウスのところ、ですか?」

 私は訝った。ギリシャ神話をあまり知らない私でも、それがあまり人気のない箇所であることは分かる。普通は、もっとゼウスとか、アポローンとか、ヘーラークレースとか、アキレウスとかを好むものだ。

 私は、クリス様に言われて、本棚からギリシャ神話の本を取ってきた。ページをめくると、確かにプロメーテウスに関する記述がある。

「えっと、では、お読みしますね」

「お願い」

 私は、たどたどしく本を読んだ。子供向けの本というわけではなかったから、難しい言葉も使われていたけれど、その度に、私は辞書を引いて単語の意味を調べた。とはいえ、もともとあまり長い記述ではなかったため、すぐに読み終えた。

「というわけで、プロメーテウスは、罰を受けることになったのです」

「何度も何度も、ワシに肝臓をついばまれることになったのよね」

「ええ、そのようですね」

「でも、プロメーテウスは神だったから、不死で、死にたくても死ぬことができず、永遠に苦しみを味わい続けたのよね」

「ええ……」

 クリス様は黙ってしまった。浮かない表情で、枕のほうを見つめている。

「どうかしましたか?」

 心配になって、私は覗き込んだ。クリス様は、笑顔を取りつくろって言った。

「いいえ、何でもないわ」

「そう、ですか。それならいいですが」

「わたし、そろそろ寝ることにするわ」

「そうですか。お眠りになられるまで、おそばにおりましょうか」

「いいえ、その必要はないわ。メアリも、少し休むといいわ」

「そうですか、それでは、お言葉に甘えます」

 私は立ち上がった。そして、クリス様に布団を掛けてやる。クリス様は、仰向けになって、ゆっくりと目を閉じた。

「おやすみなさい、メアリ」

「はい。おやすみなさいませ、クリス様」

 私は、手を振りながら、穏やかな気持ちで、クリス様の部屋を後にした。


 その日、私は、クリス様たちの夕食の席に同行した。

 とはいえ、クリス様たちと共に夕食を食べたというわけではない。クリス様の後ろに立って、控えていただけである。それでも、この場に参加できるのは、ご家族を除けば、ごく一部の使用人に限られていることだから、名誉なことである。

「父なる神よ。今日も、み恵みによって、これらの糧を得ることができたことを感謝します。どうか、これからも変わらぬ祝福をお与えください」

「アーメン」

 お父様のアレキサンダー様に続いて、その場に居る皆で唱える。誰もが、静謐な表情で祈りを捧げていた。ローズ家の方々は信仰が篤く、食前・食後に感謝の祈りを欠かさない。

 祈りを終えて、ローズ家の方々は食事に手を付け始めた。その中で、唯一、クリス様だけが口を開く。

「ねえ、お父様」

「何だ」

 アレキサンダー様は、スープを口に運びながら、クリス様のほうを見ることなく答えた。どことなく、質問されることを嫌っているようにも見える。

「神様って、どこにいらっしゃるの?」

「私たちの心の中だ」

「心の中? 心臓に、神様は住んでおられるの?」

「そういう意味ではない。神は、目に見えないものなのだ」

「目に見えないものなの? では、どうして、皆は神様がいらっしゃると知っているのでしょう?」

「お前は、神の存在を疑っているのか」

 アレキサンダー様は粛々と言った。食堂に重苦しい雰囲気が漂っている。

「いいえ、疑っているわけではありません。ただ、私は、見たことがないものだから」

 クリス様は、さらりと答えた。

「見えないものなのに、どうして、皆は神様がいらっしゃることを知っているの?」

「神の起こした奇跡で、この世界が作られたからだ」

「それを見ていたひとは?」

「居ない」

「なら、どうして分かるのでしょう」

 しばらく、アレキサンダー様は黙った。

「もう、いいだろう。それ以上続けると、神を否定することに繋がりかねない」

「いいえ、私は神様が居ないなんて言っていません。ただ、見ることができれば、より一層信じられるのにと、そう思っただけです」

「クリス」

 アレキサンダー様は、叱るように言った。

「この世界には、見えないものもあるのだ」

「ふうん」

 クリス様は、不満げに鼻を鳴らした。

「お母様は、どう思われますか?」

 クリス様は、無邪気に訊いた。だが、アデレイド様も、やはり億劫そうにしていた。

「そんなこと、どうでもいいでしょう」

「そうでしょうか」

「それより、早くフォークを動かしなさい。料理が冷めてしまいます」

「はあい」

 クリス様は、不満げにサラダを口に運んだ。

 サラダをすべて平らげてしまってから、再びクリス様は口を開いた。

「メアリはどう思う?」

「え、私ですか?」

 私は戸惑った。クリス様は、私の目を見ながら、スープにスプーンを伸ばしていた。

「私には……、分かりません。神様が、どこに居られるのか、なんて」

「それでも、信じられるの?」

「え?」

「見たこともないのに、どうして神様を信じられるの?」

「それは……」

「クリス!」

 アレキサンダー様は怒声を上げた。

 クリス様は、流石に諦めた様子だった。しゅんとした表情で、パンを千切っている。だけど、パンを食べ終えると、再び口を開いてしまった。

「それでは、お父様。『永遠のいのち』は、どうすれば手に入るのですか?」

「今度は何だ」

 アレキサンダー様は、イライラした様子で言った。

「聖書には、『信じる者は、永遠のいのちを手にする』と書かれています。でも、敬虔なお父様、いいえ、牧師様でさえも、不死とは思えません。では、どうすれば、永遠のいのちを手にすることができるのでしょう」

「私は牧師ではない。そういうことは、牧師に訊きなさい」

「そうですか」

 クリス様は、残念そうに言った。

「でも、もうすぐ家庭教師の方が来られるなら、こういうことに関しても訊ねられるはずですよね。わたし、知りたいことがたくさんあるの。それに、読み書きも早くできるようになりたいし、あと……」

「クリス、いい加減になさい!」

 アデレイド様が遮った。石造りの部屋に、声が響く。その音量に、私の体はびくりと震えた。

「あなたは、そのようなことを知る必要も、考える必要もありません。女性に必要なことは、よりよい家に嫁ぐこと、それだけです。そのために、読み書きや礼儀作法を覚える必要はありますが、男性のように、そうやって神学のことを考える必要はないのです」

「はい、お母様」

 クリス様は、寂しそうな瞳を浮かべて、黙った。

 私は悲しくなった。クリス様とご両親の仲があまりよろしくないことは知っていたが、これほどまでとは思わなかった。

 私は、親というものを知らない。だから、親と子というものが本当はどういうものなのかが分からない。だが、私の好きな本に登場する親子は、睦み合い、慈しみ合っているものも多い。どちらが本物の親子なのだろう。睦み合い、慈しみ合う親子は、本の世界の中にしか存在しないものなのだろうか。シンデレラのように、啀み合う親子こそが本物の親子というものなのだろうか。

 無論、ご両親にのみ問題があるわけではないだろう。頑ななクリス様の態度にも、問題はある。それに、ご両親が、もしかしたら本当にクリス様のことを思いやって言っている可能性もある。あの冷たく見える態度は、クリス様をしつけるためのものであって、本当に親心から来たものなのかもしれない。

 それでも、これでは、クリス様は幸せになれない。

 私は同情した。

 それから、しばらくの間、食事は静かに行われた。その厳粛な雰囲気は、まるで礼拝堂のようだった。その光景も、私にとっては異様なものだった。私の知っている食事の風景というものは、常に雑然としていて、騒がしいものだった。だから、これが本当の食事の風景だとは、私には思えなかった。

 何かが違う。食い違っている。そのような思いが、私の胸の中にあった。

 重い静寂を切り裂いたのは、執事のアルバートの声だった。

「おい、どういうことだ!」

「それが……」

「ええい、リズを連れてこい!」

 アルバートの命令を受けて、メイドのマルタが、食堂から去ってゆく。それから、しばらくして、マルタは洗濯メイドのリズを連れて戻ってきた。

「申し訳ございません!」

 リズは、やってくると同時に、アルバートに向けて頭を下げた。だが、アルバートは、それではまだ気が済まないという様子だった。

「謝って済む問題ではない! あのお召し物は、貴様らの給金などでは到底支払うことのできないほど価値のある代物なのだ。それを!」

 どうやら、リズは洗濯の際に服を汚してしまい、それが理由で怒られているらしい。

 私も、似たような経験をよくしている。だから、それは他人事ではなかった。

 自分が叱られているような気がして、萎縮してゆく。心の臓がわしづかみにされたようにこわばり、息が苦しくなる。動悸がする。頭がくらくらする。

「どうやって償うつもりだ! 早く元に戻してこい!」

「それは……」

 私は、よく叱られる。それは、あの場所に居たときも、ここに来てからも変わらなかった。だから、叱られている者を見ると、まるで自分が叱られているような気分になる。汗が出てきて、体中が寒くなって、いたたまれなくなって、すぐにでも逃げ出したくなる。過去の記憶が蘇り、体が恐怖に埋め尽くされてゆく。

 いつしか、アルバートの声も聞こえなくなって、自分がどこか遠くの世界に居るような気がし始める。それなのに、涙だけはあふれてきて、止まらなくなる。

 頭を叩かれる。叩かれた部分が痛い。それでも、叱責は止まない。だから、私は謝り続ける。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。どれだけ謝っても、叱責は止まない。それでも、私には、謝ることしかできないから。

 謝る。謝る。謝り続ける。

 ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。

「もうやめましょう、アルバート」

 それは突然のことだった。 

 天使の声が、私を許した。

 私は、急激に現実に引き戻されて、視界を取り戻してゆく。

 そこでは、心配そうな表情で、クリス様が私を見つめていた。

 私は、汗と涙でぐしゃぐしゃに濡れており、まるで暑い日に野外で作業をしたあとのようだった。

「確かに、リズは粗相をしてしまったかもしれません。でも、ここは楽しい食事の場でしょう。ほら、メアリも、気分を害しているではないですか。怒るなら、別の場所にしてくださらないかしら?」

 クリス様は、立ち上がって、アルバートを糾弾した。そして、私のほうへ駆け寄ってくる。

「大丈夫、メアリ?」

「クリス様……」

 まさしく、それは天使だった。慈愛をもって私を抱擁する、愛しき天使。

 だけど、それを非難する者も居た。

「クリス! 食事中に席を立つなど」

 アデレイド様が怒号を発する。それでも、天使には意味がなかった。

「申し訳ございません。食事中に席を立つことがご法度というなら、今日の夕食は、これでおしまいにします。私は、クリスを部屋へ連れて行く必要がありますから」

「なっ」

 アデレイド様は、怒りに震えた。

「その必要はありません」

 しかし、すぐに冷静さを取り戻して、アデレイド様は言った。

「食事中に席を立つ行為は、礼を失した行いではありますが、今回は緊急事態です。特別に、咎め立てはしないでおきましょう。メアリは、リズにでも連れて行かせましょう。リズ!」

「は、はい。ただいま」

 リズは慌てて私のもとへ来た。私は、首を縦に振って、リズの体を借りて使用人室に戻った。

 それから、食事の席がどうなったかは分からない。だけど、きっと、和やかな雰囲気ではなかっただろう。


†††


 それから、数年が経った。

 クリス様は、家庭教師のもとで、様々なことを学んだ。読み書き、文法、ドイツ語、フランス語、そして、礼儀作法。聡明なクリス様は、まるで布が水を吸収するように、教えられたものをすぐに我が物としていった。また、読み書きを覚えたことで、自分から本を読むようになり、時にはお父様の書斎に忍び込んでまで、様々な本を読むようになった。

 しかし、そのことを、ご両親はよく思っていなかった。

 だから、クリス様に読書をやめさせるよう、私からも何か言うように命じた。

 それは、私の意思に反する行為だった。私は、クリス様の好きなようにさせてやりたかった。それでも、私に命令をする権利は、クリス様ではなく、アレキサンダー様にある。だから、私は、アレキサンダー様に逆らうことができない。

「クリス様は、また本を読んでおられるのですね」

 私は、クリス様のもとに近寄った。クリス様は、今日も読書をしていた。

「ええ」

「クリス様は、本当に読書がお好きなのですね」

「だって、今まで知らなかったことを知られるのですもの」

 クリス様は、にっこりと笑った。その屈託のない表情を見ているだけで、私の気は重くなる。

「あなたは、好きではないの?」

「何を、でしょうか」

「知らなかったことを知ることを」

 クリス様は、無邪気に問い掛けた。私は、苦い表情で答える。

「よく、分かりません。でも、クリス様のお話を聞くのは、好きです」

「ふふ、ありがとう」

 クリス様は、小さく笑った。

「私は、まだ知りたいことがたくさんあるの。無知なままでは、居られないわ」

 そう言って、クリス様は両手を広げた。

「だから、お父様やお母様がどう仰っしゃろうと、読書をやめるつもりはないわ」

「気付いておられたのですか」

 私は後ろめたい気持ちになった。

「あなたが浮かない表情で入ってくるときは、いつもそうでしょう」

「そうかも、しれませんね」

 私は苦笑した。クリス様に隠し事は通用しない。

「大丈夫。あなたが気に病むことではないわ。あなたは、お父様には頭が上がらないものね」

「それは……」

「これからは、あなたのために、隠れて読むことにしましょう」

 クリス様は、いたずらっぽく笑った。それでも、私の罪悪感が消えることはない。

「そこまでして、クリス様は、新しいことを知りたいのですか」

「ええ」

「もう、十分に様々なことをご存知ですのに」

「十分、なんてないわ。まだまだ、知らないことはいっぱいある。きっと、一生かかっても、私はこの世界のすべてを知ることはできないでしょう」

「でも……」

「それに、まだ、私は永遠のいのちを手にする方法を知らない」

「永遠のいのち、ですか」

 私は復唱した。

「聖書には、信じる者は永遠のいのちを手にすると書かれている。でも、私はまだそのようなものを手にしていない。きっと、信仰心が足りないのでしょうね。だって、私は、信じ切ることができないでいるのだもの。目に見えない、どこに居るかも分からない神様のことを信じろと言われても、どうしても、ね。だから、知りたいの。証明してみたいの。神様が、本当に存在するのだということを」

「クリス様は、まだ、神様のことを信じては居られないのですね」

「目に見えないものを信じろと言われても、どうしても、ね」

 クリス様は、寂しい表情を浮かべた。

「ねえ、メアリ。あなたは知っているかしら。イエス様も、神様を疑われたことがあるのよ」

「イエス様が、ですか?」

 私は驚いた。今のクリス様は、私の知らないことをたくさん知っている。だから、クリス様と話している間は、私は驚かされてばかりだ。それが、とても楽しい。

「イエス様は、自ら十字架を背負い、十字架に架けられた。そして、死の間際に、こう言ったの。『エリ・エリ・レマ・サバクタニ』。それは、『神よ、神よ、なぜ見捨てたのですか』という意味の言葉なのよ」

「そう、なのですか」

「イエス様も疑われるくらいなのだから、信仰を保ち続けるということは、とてもむずかしいことなのでしょう」

「そのために、本を読まれていると?」

「逆に揺らぎそうになることも多いけれど、ね」

「立派なことだと思います」

 私は素直にそう言った。

「そうかしら」

 だけど、クリス様は自嘲するような口調で返した。

「それなら、どうして、お父様やお母様は、私から本を取り上げようと言うのでしょうね」

「それは、あまり要らない知識を付けてしまえば、お嫁に行くときに困ることになる、と」

 口にするだけで、胸が痛む。

 それでも、私はアレキサンダー様に逆らうことはできない。自分が悔しい。

「だいたい、女子では、この家の爵位を継ぐことはできないわ。どんな家に嫁いだところで、爵位は消失してしまうのよ」

「でも、よい家柄のところに嫁げば、お金が手に入る、と。お金がなければ、この屋敷を維持することもできない、と……」

 私は、ご両親の言った言葉を復唱した。

 そもそも、そのようなことは、クリス様も分かっているはずである。それでも、こうして口にするのは、納得が行っていないからだろう。

「屋敷の維持、ね。そんなことのために、私は嫁がされるのね」

 クリス様は、うつむきがちに言った。

 私は、クリス様に同情した。確かに、彼女は理不尽なことを言われていると思う。それでも、ただの使用人でしかない私には、彼女を助ける術を持たない。

「ねえ、メアリ」

「はい」

「あなたは、エイダ・ラヴレスという人物を知っている?」

「エイダ・ラヴレスですか? いえ……」

「エイダ・ラヴレスは、数学者の名前なの」

「エイダというと、女性の名前ですよね。女性の数学者なのですか?」

 私の問い掛けを聞いて、クリス様は得意げな顔をした。私は心の中で苦笑する。

「ええ、そう。女性でありながらも、数学の分野において、素晴らしい業績を残したひとよ。このように、今は、女性でも数学者になることができる時代なの。きっと、これから、女性はドンドン社会に進出してゆくわ。選挙も、昔に比べれば、多くの人が参加できるようになった。まだ、男性すらすべてのひとが参加できるわけではないけれど、女性にまで選挙権が拡大するのは、時間の問題よ。だから、女性だから知識を付けてはいけない、ということはないの。むしろ、ドンドン知識を付けていって、正しいことと正しくないことの判断をするべきだと思うわ」

「は、はあ……」

 私は目眩がした。難しいことは分からない。

 それにしても、クリス様は、わずかな間に、おどろくほど立派に成長した。最近読み書きを覚えたばかりだとは思えない。きっと、将来は、もっと賢く、もっと物知りになって、世界に名を轟かす大人物になるに違いない。もし、そうなったら、私も、自分のことように誇らしく思うことだろう。

「ごめんなさい。少し難しかったかしら」

「もうしわけ、ございません」

「いいえ、あなたのせいではないわ。でも、メアリも、勉強すれば、きっとこのくらいは分かるようになるはずよ」

「そう、でしょうか」

「ええ、きっとね」

 クリス様は微笑んだ。クリス様は、私に期待している。私は、嬉しく思う反面、後ろめたい気持ちにもなった。

「さて、そろそろ休憩しましょうか。散歩にでも行きましょう」

「そう、ですね。ご一緒します」

 クリス様は立ち上がった。乳の甘さと薔薇の芳しさが混じったような香りが漂う。

 その香りを嗅ぐ度に、私は安心する。だけど、同時に、どうして、彼女だけがそのような香りをまとっているのかと、不思議にも思う。私も、他の使用人も、ご両親も、そのような香りをまとってはいない。それなのに、彼女だけが、心地よい香りをまとっている。

 きっと、クリス様は、特別な少女なのだろう。

 そのような方にお仕えできる自分は、きっと、とても幸せ者だ。

「女性、といえば」

 私は扉を開け、部屋を出た。衣装部屋へ向かって歩きながら、クリス様が口を開く。

「あなたは、リリスを知っている?」

「いえ」

「リリスというのは、アダムの最初の妻の名前よ」

「アダムって、アダムとイヴの?」

「ええ、そうよ」

「でも、アダムの妻は、イヴではないのですか?」

「聖書には、アダムが結婚したという記述が二箇所存在するの」

「そうなのですか?」

 クリス様は、何も持っては居なかった。つまり、すべて暗記しているということである。

「これは、最初の妻が、アダムを拒否したからだと言われているわ。つまり、最初の妻は、アダムに隷従するように命じられていたけれど、本人は対等な扱いを望んだの。だから、アダムに捨てられた」

「そんな、ひどい」

 私は、素直に言った。

「ふふ、やっぱり、賢しい女は嫌われるということかしら。お父様やお母様の言う通りね」

 クリス様は、自嘲するように笑った。

「また、そのような話をしているのですか」

 それに呼応するように、アデレイド様は言った。

 廊下の角を曲がると、アデレイド様が立っていた。私たちは立ち止まって、アデレイド様と対峙する。その姿は、私にとって、ボクサー選手のように恐ろしいものに見えた。

「お母様、おはようございます」

 クリス様は、物怖じせずに言った。

 アデレイド様は、そちらを一瞥する。

「また、神学の話をしていたようですね」

「はい。申し訳、ございません」

「メアリもメアリです。クリスに、そのような知識を付けないように言うよう命じたはずですが」

「申し訳ございません!」

 私は勢いよく頭を下げた。

 クリス様は、まるでかばうように、アデレイド様と私の間に立った。そして、毅然とした眼差しで、お母様を見つめる。

「いいえ、メアリは悪くありません。メアリは、言いつけ通り、いつも口を酸っぱくして私に言いつけております。悪いのは、何度言っても聞かないこの私です」

「それが分かっているなら、今すぐ辞めて欲しいところです」

「お言葉ですが、お母様。お母様は、エイダ・ラヴレスのことをご存知ですか?」

「エイダ・ラヴレス? ラヴレス伯爵夫人のことですか」

「はい。女性でありながら、数学者としても活躍した、立派なお方です。このように、今では女性が学者としても名を馳せることのできるようになったのです。であれば、これまでのような『家庭の天使』というような女性だけでなく、社会に進出する女性も、きっと増えてゆくことだと思います」

「ふん。小賢しいことを。オーガスタ・エイダ・キング、ラヴレス伯爵夫人は、器量は良かったものの、性格は気狂いのようで、社交界でも爪弾きに……、いや、ご自身が人間嫌いだったのでしたか。とにかく、結婚はしたものの、人物としてはあまり立派な方ではなかったようです。そのような方を参考にしたところで、ろくなことはありません。そもそも、将来、あなたの言うような社会が訪れたとしても、今はまだ、女性にとって憧れるべきは『家庭の天使』なのです。であれば、今は家庭の天使を目指すべきでしょう」

 私は戸惑った。ふたりの言い分は、どちらも間違っているようには思えない。だから、どちらに付くこともできなかった。

「故人を悪く言うのは……」

「ええ、そうですね。確かに、趣味の悪いことでした。ですが、そういう問題ではありません。とにかく、あなたが目指すべきは、オーガスタ・エイダ・キングではなく、家庭の天使です。それを、ゆめゆめ忘れることのなきよう」

 そう言って、アデレイド様は踵を返した。

 しかし、クリス様は引き下がった。

「それなら、お母様。女性は、女は、知識を付けることすら認められていないというのですか?」

 クリス様の叫びがこだまする。私は、クリス様がそこまで感情をあらわにするところを、初めて見た。それほど、アデレイド様の言葉が許せなかったということだろう。

「その通りです」

 それでも、アデレイド様も、意見を曲げることはなかった。

「女に生まれた以上は、女としての役割を全うしなさい。私も、この家を守るために、できる限りのことはします。だから、あなたも、この家を守るために、最大の努力をしなさい」

 そう言って、アデレイド様は、再び歩き始めた。もうクリス様に言うことはない、というような様子である。

「まったく、男が生まれていれば、これほどの苦労をすることもなかったのに」

 アデレイド様は、吐き捨てるように言った。

 その後を追って、クリス様は駆け出した。

 そして、すがるような言葉を投げかける。

「もし」

 クリス様の声は、もはや泣き出してしまいそうなものだった。

「もし、私が男性であれば、本を読むことを、神学を学ぶことを、許して頂けていましたか」

 私の視界では、もうアデレイド様もクリス様も小さくなりかけていた。

 それでも、ふたりのやり取りから目を離すことができない。

「ええ、男性であれば、歓迎したでしょうとも」

 アデレイド様は、再び立ち止まった。

 だけど、それは、クリス様の思いが届いたわけではなかった。

「それは、不公平ではないですか?」

「ええ、不公平でしょうとも。それが何か?」

「えっ……」

 クリス様は、絶望に淀んだ声を上げた。

「平等でありたいですか? ならば、炭鉱夫のように、汗水垂らして働きますか? 工場労働者のように、朝から晩まで働きますか? あなたは貴族です。特権階級です。元より、優遇という不平等に甘んじてきたではないですか。であれば、その程度の不平等、呑み込みなさい」

「そんな……」

 まるで魂が抜けてしまったかのように、クリス様は呆然とした。

「平等など、ないのです」

 そう言って、今度こそ、アデレイド様は何処かへ立ち去って行ってしまった。

 クリス様は、呆然としたまま、しばらく立ち直れない様子だった。

「クリス様……」

 私はクリス様に駆け寄った。

 その瞬間、クリス様の表情が、いつもの明るいものに戻った。

「いいえ、私のことは大丈夫。それよりも、ごめんなさい。私が分からず屋なせいで、あなたにまで迷惑を掛けてしまったわね」

「いえ、そんな。クリス様のせいでは……」

 それでも、クリス様は、小さく笑みを浮かべた。

 きっと、弱い姿を見せたくないのだろう。涙を見せれば、私が心配するから。

 だけど、私は、既に十分心配している。むしろ、涙を流してすがってくれたほうが、どれほどありがたかったことだろうか。

 クリス様は強い。私は、クリス様が涙を流しているところを見たこともないし、泣き言を言っているところを見たこともない。寂しそうな表情を浮かべることもあるけれど、それは一瞬のことに過ぎず、すぐに明るい表情をとりつくろってしまえる。だけど、それは、決して傷ついていないというわけではない。むしろ、きっと、クリス様は人一倍繊細で、人一倍傷つきやすい性格だと思う。

 だから、その強がりが、いつまで保つかは分からない。

 だから、その瑕が原因で、いつか壊れてしまうかもしれない。

 そうならないように、私が、クリス様を支えてあげよう。

 そうならないように、私が、クリス様を癒やしてあげよう。

 そのためにも、私は、クリス様のそばに居てやる必要がある。

 私は、そのことを、胸に固く誓った。

「さあ、予定通り、散歩にでも向かいましょう。今日は、そうね。娯楽小説でも買いましょうか」 


 私たちは、先輩メイドのアシュリーを連れて、三人で外へ出た。

 昔は、屋敷の近辺を歩くことしか許されていなかったが、成長してからは、街まで出歩くことが許されるようになっていた。それから、私たちは、散歩で外へ出る度に、街まで足を伸ばしている。

 なぜなら、街には本屋があるからだ。

「ねえ、見て。面白そうな本があるわ」

 クリス様は、私を手招きした。『初期キリスト教の受容とその変遷』という本を取っている。どうやら、神学に関するものらしい。

「クリス様、お待ち下さいな」

 私は、苦笑しながら駆け寄った。

 クリス様は、いつも精悍で、幼さを感じさせない。だけど、本屋や貸本屋に居る間だけは、年相応の表情を浮かべる。とてもかわいらしくて、いつまでもそうしてあげたいという気持ちもある反面、本屋巡りに付き合うと、私たちはどっぷりと疲れてしまう。

「でも……、」

 今まで明るかったクリス様の表情が、急に暗くなる。

「こういうものは、ダメだものね」

「はい。ご主人様から、このような本は、もうクリス様に買い与えないように仰せつかっております」

 アシュリーは、冷淡に言った。

 アシュリーは、厳しく、融通の利かない性格だから、私たちの味方をしてはくれない。クリス様の味方は、私しか居ない。

「お父様に内緒で、というわけにはいかないかしら」

「はい。私は、購入した本を逐一報告するよう義務付けられておりますゆえ」

 クリス様は、肩をすくめた。すねたような表情がかわいらしい。だが、同時に、かわいそうでもあった。

 私は、励ますつもりで、近くの本をクリス様に見せた。それは、最近人気のものらしく、この本屋でも特集が組まれていた。

「ほら、クリス様。こちらのものなど、如何でしょう。ご婦人にも人気だと書かれておりますよ」

「『吸血鬼ドラキュラ』、ねえ」

 クリス様はつぶやいた。手にしたのは、『吸血鬼ドラキュラ』というタイトルの本だった。なんでも、よその国からやってきた悪い吸血鬼を退治する怪奇・冒険小説らしい。

 そのまま、クリス様は、しばらく、その本を見つめて動かなくなった。

「ねえ、アシュリー」

「何でしょうか」

「吸血鬼って、確か、墓場から蘇る怪物よね」

「ええ、そうだったかと。私も、詳しくは知りませんが、死んだ人間が蘇り、血を吸うために人間に襲い掛かる……、といった伝説だったと思います」

「伝説、ね」

 クリス様のつぶやきが、なぜか悲しく聞こえた。

「ええ。現実には、ありえないことですから」

 クリス様は、また、静かに本を見つめた。

「ありえないかしら。でも、最後の審判では、イエス様が復活し、この世のすべての死者を蘇らせて、裁きを下すそうよ」

「クリス様。神学の話はやめるよう、ご主人様が仰られていましたが」

 アシュリーが冷たく言った。それでも、クリス様はやめようとしない。

「そして、正しい者には、永遠のいのちが与えられる」

「クリス様」

 アシュリーは、厳しい眼差しを投げかけた。

 クリス様は、それを見て、態度を改めた。

「ごめんなさい。もうしないわ」

「はい。そうお願いします」

「では、今回はこれを買うことにするわ」

 そう言って、クリス様は『吸血鬼ドラキュラ』をアシュリーに渡した。

「ふむ。これなら、ご主人様も納得されると思います」

 アシュリーは、変わらない調子で答えた。

「読み終わったら、メアリにも貸してあげるわね」

「本当ですか? 嬉しいです」

 私は、心から言った。私の好きな本は、相変わらず童話やおとぎ話のようなものだったけれど、巷で人気のものと言われれば、違うジャンルでも読んでみたい。

「それでは、そろそろ帰りましょう。早く、それが読みたいもの」

「ええ」

「それでは、購入して参ります」

 承知した旨を示すために、私とアシュリーは頭を下げた。

 そして、アシュリーが店員のもとへ行き、本を購入した。本屋を出て、帰路へ就く。

 外は暑い。街を出れば、草のにおいも感じられる。まるで、私がクリス様の世話役に任ぜられた日のようだった。

「ねえ、覚えている?」

「何をですか?」

「あなたが、私の世話係になった日のこと」

「ええ、もちろん」

 私は、にっこりと笑った。

 あの日は、私にクリス様の世話役が務まるか心配で仕方がなかった。今でも十分に務まっているとは言えないが、少なくとも、この立場になれてよかったと思っている。クリス様のそばに居られるということは、それだけで幸せだ。

「あの日も、こんなに暑い日でした」

「あの日も、こんなに日差しの強い日だったわね」

 クリス様も、穏やかな表情を浮かべている。もしかしたら、クリス様は、私のことを気に入ってくださっているのだろうか。そうだとしたら、これほど嬉しいことはない。

「あれから、あなたはずいぶん傘を差すのが上手くなった」

「クリス様が、早めに歩かれるようになっただけです」

 私は苦笑した。そして、やはりクリス様がふらふらし始めたので、日に当たらないよう、私は日傘を持つ手を伸ばした。クリス様は、まだ、虫や草花を避けて歩いている。ただ、その歩き方に慣れたのか、以前より歩みは早くなっていた。だから、あの日に比べれば、クリス様が日に晒されることは少なくなっていた。

 今でも同じ歩き方をしているということは、虫や草花を想う気持ちは、あのときと変わっていないということだろう。私は、改めて、クリス様にお仕えできることを誇りに思った。

「あのコマドリは、どうなってしまったのでしょうね」

「それは……」

 コマドリの姿が脳裏に蘇る。からからに乾いて、虫に食べられ、ぼろぼろに崩れて、無惨な姿を晒していた。見るだけでは、自分の身が痛くなるわけでも、自らが死んでしまうわけでもない。それなのに、なぜか、思い出すだけで、胸が痛くなる。

「きっと、もう、土の中で、分解され、コマドリとも土とも分からないものになってしまったのでしょうね」

「クリス様……」

「ねえ、メアリ」

 クリス様は、先を歩きながら言った。

「人は、死ねばどうなると思う?」

「え?」

「ある人は、眠りに就くのと同じだと言った。ある人は、永遠の暗闇の中に閉ざされるのだと言った。でも、それは分からないわ。だって、誰も見ていないのですもの」

「そう、ですね」

 私は曖昧に相槌を打った。クリス様に分からないことなど、私に分かるはずがない。

「ダンテという人物の『神曲』という小説には、天国や地獄の様子が描かれている。でも、ダンテ自身も、天国や地獄へ行ったわけではない。すべては想像。だとすれば、天国や地獄というようなものは、本当にあるのかしら」

「それは……、分かりません」

「ええ、そうよね。私にも分からないわ」

 クリス様の声は、僅かに震えていた。

 それがなぜなのか、私には分からなかった。

「でも、たとえば。もし、永遠の暗闇の中に閉ざされるのだとしたら、どう思う?」

「どう思う、とは……」

「ずっと、ずっと暗くて。何もなくて。体を動かすこともできない。声を発することもできない。誰も居ない。何もない。それなのに、意識だけがある」

 クリス様は、まるで見てきたような口調で言った。

 それが、あまりにも真に迫っていたものだから、意識せずとも、目の前の光景が闇に包まれていった。辺りは暗くなり、すべてのものが失われてゆく。

 そこには、自分以外には何もなく、自分すらも見ることはできない。

 ただ、ひたすらに、虚無だけが広がっている。

 暗い世界。黒い世界。闇の世界。無の世界。

 手を伸ばしても、何もない。

 目を向けても、何も見えない。

 暗くて、寂しくて、怖くて、悲しくて、悔恨と、孤独と、恐怖と、不安が広がってゆく。

 いつしか、時間の感覚さえ失って、いつから自分がここに居るのか、いつまで自分がここに居るのかも分からなくなる。

 あと、どれだけ、この闇に囚われていなければいけないのか。

 あと、どれだけ、この責め苦に耐えなければいけないのか。

 無限の闇と、永遠の苦が、私を苛む。

 怖い。怖い。怖い。怖い。

 誰か、私を、ここから、出してくれ。

 誰か――。


 ぱん。

 突然、手を叩く音が聞こえた。その乾いた音に、私は現実に引き戻される。

 もはや、ここは闇ではなかった。眩しいほどの日差しが、私たちを照らしている。

「少し、脅かしすぎたみたいね」

 クリス様が、私を見下ろしていた。その顔には、いたずらな笑みが浮かんでいる。

 もしかして、からかっていただけなのだろうか。

「ごめんなさい。そこまで怯えるとは、思っていなかったから」

 クリス様は、傘を拾って、私に渡した。いつの間に落としたのか、私は覚えていなかった。

「いえ、私の……、ほうこそ」

 気付けば、心臓が激しく動いていた。まるで長い距離を走ったあとのような息苦しさを覚える。

「でも、考えておいたほうがいいわ。死ぬとは、どういうことなのか」

 そう言って、クリス様は、再び歩き始めた。その白い肌に、日差しが当たる。

 私は、慌てて追い掛けた。


 その日、私はいつもの通り夕食に同席した。

 その日の夕食も、静かで、厳然としたものだった。数年見続けてきたが、一度として、そこで家族が仲睦まじく会話をすることはなかった。誕生日でさえ、形ばかりの贈り物を贈り、形ばかりの言葉で祝うだけだった。

 家族の仲は、完全に冷え切っていた。

 それでも、クリス様は、ご両親との会話を諦めていなかった。

「ねえ、お母様」

「何ですか」

 アデレイド様は、相変わらずの調子だった。子供の顔を見ることもなく、ステーキを口に運ぶ。

「今日、アシュリーに『吸血鬼ドラキュラ』を買ってもらったの」

「巷で流行っている通俗小説ですか。あなたも、ようやく分かってくれたようですね」

「まだ最後まで読んでいないけれど、読み終わったら、お母様も如何ですか?」

「結構です。そのような下らないものに、私は興味がありません」

 クリス様は、しゅんとした。

「それでは、お母様」

「何ですか、今度は」

「お母様は、どのような本にご興味があるのですか」

「はあ」

 アデレイド様は、呆れたように言った。

「あなたは、本を読むことしかできないのですか」

「ごめんなさい」

 クリス様は、謝った。

 クリス様がいかに精悍で、博識で、聡明であっても、ご両親の前では、ただの娘だった。また、寂しそうな表情を浮かべる。私には、もう見ていられない。

「でも、まあ、そうですね。強いて挙げるならば、美容に関することには、興味があります」

「美容、ですか」

「でも、私は、それよりも、あなたが本ではなく、もっと他のことに目を向けてくれたほうが嬉しいですが」

「はい……」

 クリス様は目を伏せた。

 私は、この時間が嫌いだった。

 どうして、ご両親はいつもクリス様に冷たいのだろう。

 どうして、クリス様の気持ちに応えてあげられないのだろう。

 私は、いつも悲しくなる。

 でも、私には、どうすることもできない。

 私は、無力だった。


†††


 数日後、私は、夜にクリス様の部屋を訪ねた。

 私は、なぜかどきどきしていた。夜にクリス様の部屋に入ることが初めてだったからだろうか。

「クリス様、起きていらっしゃいますか?」

 私は、小さく扉を叩いた。

 心臓の音がいやに大きく聞こえた。

「入って」

 返事も小さかった。私は、扉を開き、頭を下げ、すばやく中へ入る。いつもと同じ部屋だというのに、夜というだけで、また違って見える。

「お手紙ですか?」

 クリス様は、テーブルに向かい、ランプの明かりを頼りに、手紙を書いていた。

「ええ」

「どなた宛ですか?」

「ちょっと、ね」

 クリス様は、曖昧に答えた。

 私は、クリス様が誰かに手紙を書いているということを知らなかった。今も、答えを言わなかったということは、もしかしたら、私に隠しているのかもしれない。興味はあるが、クリス様が本当にそれを隠しているのだとすれば、何を言っても、私に教えることはないだろう。私は諦めるしかない。少し、寂しく思った。

「あ、そうそう。クリス様。これをお返し致します」

 私は、その感情を隠しながら、『吸血鬼ドラキュラ』を返した。

 そもそも、ここに集まったのは、『ドラキュラ』の感想会をするためだった。本来、感想会をするだけなら昼でも夜でも問題ないはずだが、折角ホラー小説の感想会をするのだから夜がいいと思い、こうしてわざわざ夜に集まったというわけである。

「どうだった?」

「とっても面白かったです」

 私は、本心で言った。

「そう、気に入ったのね。それはよかった」

 クリス様は、小さく笑った。もしかしたら、子供っぽいと思われたかもしれない。

「クリス様は、お気に召しませんでしたか?」

「いいえ、面白かったわよ。よくできていると思った。確かに、これなら、今のこの国で流行るでしょうね」

 私は苦笑した。とても、十を数えたばかりの少女の言葉とは思えない。

「でも、悪者を倒すために必要なものが、神を信じる心だなんて……、そういうのは、あまり、好みではなかったかも知れないわね」

「そうですか?」

 クリス様は、手紙を書く手を止め、こちらを向いた。

「でも、やはり、ホラー小説というだけあって、少し怖かったですね。今も、ちょっと怖いです」

 私は周囲を見回した。ランプの明かりがあるとはいえ、外は闇に閉ざされている。何もかもが暗くて、見えづらい。何かが隠れていたとしても、気付かないだろう。

 悪寒がした。

 まるで、吸血鬼の城のようだ。

「あら、かわいいことを言うじゃない」

「か、かわいい、ですか」

 私は、顔が熱くなるのを感じた。やはり、クリス様は子供っぽいと感じているのだろうか。

 だが、そもそも、実際の年齢は私のほうが上なのだから、歳下の少女にそのように思われるのは心外である。

「誰!?」

 突然、クリス様が声を張り上げた。窓の外の一点を、厳しい表情で見つめている。

「え、えっ!?」

 私も、クリス様の見ているほうを見た。だが、そこには何もなかった。ただ、草木が風に揺れているだけ。

 それでも、不安は募った。もしかしたら、そこに悪漢が居たかもしれない。もしかしたら、そこに吸血鬼のような恐ろしい怪物が居たかもしれない。そう思うと、まるで心の臓を直接掴まれたかのように、体が、呼吸が、苦しくなる。

「なんて、ね」

 クリス様は、表情を和らげた。まるで、何事もなかったかのように、穏やかな表情だった。

「え……」

「ちょっと、意地悪をしてみたくなっただけよ」

「え、じゃ、じゃあ」

「何もなかったわ」

「く、クリス様ぁ……」

 私は脱力した。恨み言を言いたくても、強く言うことはできなかった。

「ふふ、思った通りの反応をしてくれるものだから、面白いわ」

 クリス様は、無邪気な笑みを浮かべた。

「本当に、かわいいんだから」

「もう、クリス様ったら……」

「だって、本当にかわいいんだもの」

「かわいいかわいい、って。何度も言わないでください」

 私は、恥ずかしくて、顔を背けてしまった。

 だが、本当にかわいいのは、クリス様のほうである。

 神に祝福されたかのように整った肢体。神に愛されたかのように整った顔。

 だから、クリス様が私のことをそのように言う理由が分からない。

 きっと、からかっているだけなのだろうけれど。

「それに、大丈夫よ。もし、怪物が居たとしても、私が守ってあげるから」

「守る、ですか?」

「ええ。怪物は、信仰心によって倒されるのでしょう? だとしたら、私なら……、いや、私では不足かしらね」

 クリス様は、自嘲するように言った。

「いいえ、クリス様」

「え?」

「クリス様は、私がお守りします」

「へえ」

 クリス様は、口角を上げた。だけど、それとは裏腹に、眼差しは冷たい。

「だって、私がは使用人なのですから。いざとなれば、盾となってでも、私はクリス様をお守りします」

「私が悪漢にでも襲われたら、あなたが、私を庇ってくれる、と?」

「はい」

「それで、あなたが死ぬような目に遭うとしても?」

「当然です。それが、お仕事ですから」

 クリス様は、じっと私を見つめた。

「ふうん」

 クリス様は、つまらなそうに言った。

「怖くはないの?」

「それは……」

「殴られて、体が痛むかも知れない。切られて、血が出るかも知れない。痛くて、痛くて、我慢ができないくらいに痛いかも知れない。それでも、私を守ってくれる?」

 私は答えなかった。

 打たれて、痣ができた腕を幻視する。

 切られて、ちぎれてしまった脚を幻視する。

 打たれた部分が痛い。

 切られた部分が痛い。

 痛みを感じる。

 その痛みで、私は思い出した。

 私は、いつも殴られていた。

 私は、いつも蹴られていた。

 痛くて、痛くて、私はいつも泣いていた。

 痛くて、痛くて、私はいつも謝っていた。

 だけど、その私は、今の私ではない。

 もう、あの地獄には居ないのだから。

「確かに、あなたは、私を守る義務がある。だけど、そんなこと、別にどうだっていいのよ」

「どうでもよくなんて……」

「だって、いざ、暴漢に襲われることがあったとして、とっさに体が動くと思う? そういう状況で、自らを犠牲に動くことができる者なんて、そんなに居ないと思うわ」

「それでも……」

 私は、つばを呑み込んだ。

 私は、この少女を守らなければならない。

 私は、愛しいあなたを守らなければならない。

 私は、本心から、そのつもりだった。

 だが、そのような言葉をかけられると、自分で自分の言葉を疑ってしまう。

 いざというとき、私は、クリス様を守ることができるのか。

 いざというとき、私は、自分だけ逃げてしまわないだろうか。

 私は、本当に、彼女を守ることができるのか。

「ええ、そう。建前上は、そう言うべきなのでしょうね。でも、無理をする必要はないわ。だって、」

 クリス様は、私の顔を手に取り、自分のもとへ引き寄せた。

「死んだら、もう戻らないのだから」

 顔が近い。

 息が当たる。

 それでも、クリス様は美しかった。

「Humpty Dumpty sat on a wall,

Humpty Dumpty had a great fall.

All the king's horses and all the king's men

Couldn't put Humpty together again.」

 クリス様は、鳥のさえずるような声で歌い出した。

 それは、あの日に歌ったマザー・グースだった。

 ハンプティ・ダンプティは、壁から落ちて死んでしまった。

 王様のすべての馬と兵隊が手を尽くしても、ハンプティ・ダンプティは元に戻らなかった。

「死ねば、どうなるのかは分からない。もしかしたら、地獄に落ちるかも知れない。もしかしたら、永遠の闇に閉ざされてしまうかも知れない。だから、死んではいけないの」

 クリス様が、じっと見つめる。

 熟していないオリーブのような瞳。

「無論、私だって、死にたくはない。だから、私を庇ってくれるというなら、嬉しいわ。でも、そんなこと無理よ。だから、とにかく、死なないように生きなければならない」

 クリス様は、私を解放した。

 細い腕。細い脚。柔らかな肌。小さな身体。

 強く触れれば、折れてしまいそう。

 ああ、この身体も、いつか壊れてしまうのだろうか。

「人は、とかく死を美しいものだと表現したがる。この本だってそう。クインシー・モリスの死は、まるで美しいもののように描写されていた。でも、私には、死が美しいものだとは思えない。もっと、汚くて、惨たらしいものにしか思えない」

 目の前のクリス様が、壊れてゆく。

 目の前のクリス様が、崩れてゆく。

 腕が取れ、脚が裂け、首がもげ、瞳から光が失われる。

 血がこぼれ、泥にまみれ、死があふれ、命が失われる。

 この天使のような少女が、いつか死んでしまうなんて。

 あの日のコマドリのように、汚く、惨たらしく、死んでゆくなんて。

 私には、耐えられなかった。

 彼女を守るためなら、何でもする。

 彼女を救うためなら、何でもする。

 その思いが、私の中で強くなる。

 だけど、本当に、私は守ることができるのか。

「ごめんなさい、変なことを言ってしまったかしら」

「いえ……」

「感想会に戻りましょう」

「そう、ですね」

 私は、頭を振った。余計な思考を、頭から追い出す。

 だって、クリス様は、きれいなままなのだから。

 そう、クリス様は、きれいなまま。

 いつまでも、きっと。

「でも、驚きました」

 私は、新しい話題を切り出した。

「こういう、子供っぽいものは、好まれないかと」

「あら、おかしなことを言うのね。私はまだまだ子供じゃない」

 私は苦笑した。確かに、クリス様はようやく十を数えたばかりである。とはいえ、その言動は、どうしても幼い子供には思えない。私よりも、いや、むしろ、どんな大人よりも大人びて見えることがあるくらいだ。

「それにね、私も、吸血鬼になってみたいなんて、思うことがあるの」

 クリス様は、夢見るように言った。

「もし、クリス様が吸血鬼になれば、それはもう美しい吸血鬼になられるのでしょうね」

「『吸血鬼カーミラ』のように?」

 クリス様が、私をじっと見つめる。

 長い睫毛、翠色の瞳、高い鼻梁、潤う唇。

 ああ、何もかもが美しすぎて、まるで違う世界の存在のよう。

 確かに、これが吸血鬼なら、魅了され、自ら血を差し出してしまうこともあるかもしれない。

 そう思えるほどに、それは蠱惑的で、幻惑的で、幻想的で、夢想的な存在だった。

「ふふ、そうだといいわね」

 クリス様は、小さく笑った。

「でも、吸血鬼になりたいと言ったのは、冗談ではないわ。だって、吸血鬼って、死者が蘇ったものなのでしょう?」

 クリス様は立ち上がった。

 その頭上に、細い月が映る。

「私も、吸血鬼のように、永遠を生きてみたい」

「それは……」

 しばらく、私は見とれていた。

 クリス様という小さな少女に、白い月。

 まるでこの世のものとは思えないほど、儚くて、しかし美しい光景。

 それなのに、

「私は……、」

 私は、目を背けてしまった。

 だって、私は、夜が嫌いだから。

「私は、いやです」

「どうして?」

「だって、」

 ――夜が怖いから。

 クリス様は、驚いたように、じっと私を見つめた。

 非難しているわけではない。軽蔑しているわけではない。

 ただ、優しく、私の手を取る。

 私は、自分でも気付かない内に、震えていたらしい。 

「私もよ」

 クリス様は、意外な言葉を発した。

「クリス様、も?」

「だって、夜は、すべてが寝静まっているから」

 数秒、口をつぐむ。

 その間、何者も音を発さなかった。

 鳥も、虫も、木々も、風も、何も言わなかった。

 すべての音が消え、完全な静寂が訪れる。

「まるで、死んでいるみたい。それって、とても悲しいわ」

 クリス様は目を伏せた。

「とても、寂しいわ」

 私はそっと微笑む。

 ああ、やはり、クリス様は慈悲深く、お優しい。

「あなたは、どうして?」

「私は……」

 厭な記憶が蘇る。

 勇気を出すために、強く、強くクリス様の手を握る。

「夢を見るんです」

「夢を?」

「はい」

 しばらく、クリス様は何も言わなかった。

「つまり、眠ることが怖いのね」

「ええ……」

「ギリシャ神話において、眠りの神ヒュプノスと、死の神タナトスは兄弟とされている。それは、眠りと死が近いものにあると考えられているということよ。人間の死は、ヒュプノスが与える最後の眠りとも言われている。死後の世界を、まるで永遠に眠りにつくようだと表現したひとも居た。今でも、死を永遠の眠りと表現することはある。死ぬことと眠ることとは、同じようなものなのよ」

「死ぬこと……」

「私も、眠るのは怖いわ。そのまま、死んでしまいそうで」

 クリス様は、呟くように言った。

 手が震えている。

 私は、再び手に力を込めた。

「どんな夢を見るの?」

「昔のことを……」

「それって、イースト・エンドに居た頃のこと?」

 私は小さく頷いた。

 きっと、それだけで、クリス様はすべて分かってくれる。

 イースト・エンド。それは、すべての悪徳が集まる場所。現代のソドムとゴモラ。貧民と移民が軒を連ね、生きるためにありとあらゆる罪を犯し続ける魔境。大罪の集積地。この世の地獄。そして、

 ――私の生まれ故郷。

 このローズ家には、孤児を集め、使用人として教育するという珍しい伝統がある。それは、孤児という問題と使用人不足という問題を解決できる、一石二鳥の政策として、昔の当主様が思い付いた政策である。

 だから、私は拾われた。

 だから、私はここに来た。

 それは、とても感謝している。

 だけど、まだ、

 あのときの傷跡は、消えていない。

「ねえ、メアリ」

「はい、何でしょう。クリス様」

「わたし、そこに行ってみたいわ」

「そんな……!」

 私は驚愕した。

 立ち上がり、勢いよく叫び立てる。

「あのような場所、クリス様が行くような場所では……!」

「ええ、知っている。でも、だからこそ、それがどういう場所なのか、見ておかなければならないと思わない?」

 クリス様は、毅然と答えた。

「私は、伯爵家の娘として、いずれは有力な貴族の家に嫁ぐことになるでしょう。そうなれば、何らかの慈善事業に携わることになるかも知れない。そのとき、自分が救うべきものが何なのか、どのようにすれば救えるのか、知っておいたほうがいいと、思わない?」

「それは、そうかも知れませんが」

 私は逡巡した。

 クリス様の考えは、正しいのかもしれない。それでも、あのような場所に足を踏み入れさせるわけにはいかない。

 天使は、ソドムやゴモラに似つかわしくない。

「ねえ、メアリ。お願い」

 クリス様は、握った手を、自分の胸の辺りに付けた。

 どくどくと、クリス様の鼓動を感じる。クリス様は生きている。

「しかし……」

「無論、安全には気を付けるわ。盗られて困るようなものは持っていかない。家の者の中でも、腕っぷしの強い者も一緒に連れてゆく。それなら、問題はないでしょう?」

「でも、『ジャック・ザ・リッパー』も、まだ捕まっていないのですよ」

 ジャック・ザ・リッパーは、イースト・エンドのホワイトチャペル地区に現れた殺人鬼の名前である。多くの女性を凄惨な方法で殺しておきながら、まだ捕まっていない。

「それは、私の生まれた頃の話でしょう。もう、関係ないわ」

「しかし……」

 それでも、私は首を縦に振ることはできなかった。

「それは、そこまでの危険を犯してでも見なければならないものなのですか」

「ええ。私は、どうしてもそれが見たい」

 クリス様は、真摯な瞳で私を見つめた。

 私は、まだためらっていた。クリス様の言葉にも一理ある。周到に準備をしていけば、万難を排することもできるかもしれない。何より、私はクリス様の高潔な志に応えてあげたい。

 それでも、容易に首肯することはできなかった。

「いえ……」

 クリス様は目を伏せた。

「ごめんなさい。こんなこと、あなたに相談するべきではなかったわね」

「え?」

「だって、そこは、あなたにとって、とても、とても、辛い場所なのでしょう?」

 手から力が抜けてゆく。

「そんなところにあなたを連れて行こうだなんて、私」

 クリス様の言葉は、優しいものだった。

 すべて、優しいものだった。

 でも、だからこそ、

「いえ」

 私は、あなたに応えてあげたかった。

 だって、約束したから。

「分かりました」

 何があっても、私が守ると。

 この身を賭しても、あなたを守ると。

 どんな危険が訪れようと、私があなたを守ればいい。

 どんな災難が待ち受けようと、私があなたを助ければいい。

 あなたの本懐を遂げさせる。それが、私の使命なのだから。

「私から、話を通してみます」

「ありがとう」

 クリス様は、私を抱きしめた。

「本当にありがとう、私のメアリ」

 そして、私の頬にキスをした。

 触れられた部分が熱くなる。それは、自分の熱なのか、それとも、クリス様の熱が伝わったものなのか。

 私はどぎまぎした。


†††


 数日後、私たちは、イースト・エンドの地を踏んでいた。

 シティから歩いてくるにつれ、段々と空気が淀んでくる。すっぱい臭いが漂ってきて、居るだけで厭な気分になる。

 やはり、連れて来なければよかったかも知れない。私は、未だに迷っていた。だが、クリス様は、何も躊躇わずに、堂々とした足取りで、私たちの先頭を歩いてゆく。

「そろそろ、目的の場所です」

「ええ、そうみたいね」

 クリス様は、事もなげに言った。

 道路の両脇には、何人ものひとが座り込んでいた。倒れている者も居る。みな、襤褸をまとっていて、虚ろな表情を浮かべている。起きているのか眠っているのか、生きているのか死んでいるのか分からない。彼らは、私たちを奇異の目で見つめた。

 シティとは、まったく違った光景だった。見ているだけで、胸がざわつく。嫌悪、忌避、あるいは憎悪のような感情が掻き立てられて、居ても立っても居られなくなる。

 まるで、ウェルズの小説の世界にでも迷い込んだかのようだ。

「不肖、アルバート。お嬢様の志を聞いて、とても感激致しました。お嬢様に願望を遂げて頂くため、全力をもってお守り致します」

「ええ、お願い」

 クリス様は、執事のアルバートに向かって微笑んだ。

 このような中にあっても、クリス様は平然としていた。やはり、彼女は、違う世界に住んでいるのかもしれない。この世界に何が起きていても、彼女には関係がないことなのだ。

 私たちの後ろには、金で雇ったふたりの男が居た。ひとりは用心棒で、ひとりは案内役。流石に、これだけ居れば、滅多なことはされるまい。

 だが、その想定は早くも破られた。

 不意に、何かが投げられ、クリス様の服に当たった。それは、腐った卵だった。割れて、中身が服に飛散する。薄桃色のワンピースが、オリーブ色に汚れた。もう、洗っても取れることはないだろう。あの服は着られない。

「きっ、貴様!」

 アルバートが激昂した。しかし、それをクリス様が制止する。

「アルバート」

「しかし」

「これくらい、想定できたことでしょう。一々反応していては、キリがないわ。この服は、もう着られなくなってしまったけれども」

「クリス様……」

 アルバートは、案内役の男を連れ、クリス様の前に出た。

「くそ、二度と同じような手は喰らわんからな」

「ひひ、ひひひ」

 誰かが笑った。全員で辺りを見回す。家に寄りかかって寝ていた老人が、奇妙な声を上げながら手招きしていた。干からびたような細い腕をしていて、死んでいるものだと思っていたから、私は驚いてしまった。

「あんた、貴族の方だろう。ひひ。どうして、こんなところへ来なすった。ひひひ」

「ちょっと、ね」

「ひひ、ひひひ」

 気でも触れているのか。そう思って、前を向き直そうとしたときだった。

 風のようなものが通り過ぎる。私は、瞬時に危険を察知して、手を伸ばした。次の瞬間には、私は、少年の腕を握り締めていた。

「くッ」

「あっ」

「お前っ」

「どうしたっ」

 矢のように声が発せられる。アルバートたちも、こちらを向いた。少年は、私の腕から逃れようと暴れていた。

「くそッ、何でこんなに強いんだ」

 私は、少年の腕をしっかりと握りながら、アルバートに引き渡した。少年は、アルバートの屈強な腕からは逃れられないと思ったのか、ようやく抵抗しなくなった。

「スリ、ですか」

「はい」

「よく捕まえましたね」

「そう、ですね」

 私はうつむく。

 私も、同じようにスリを働いたことがあった。だから、彼が来た瞬間、それがスリだと分かった。手を伸ばしたのは、ほとんど無意識だった。何か考えて行動したというわけではない。すべては、反射的な行動だった。

 私は、昔の感覚を取り戻しつつあった。

 もう、二度と思い出すことはないと思っていたのに。

 あのときの悔しさを。

 あのときの寂しさを。

 あのときの悲しみを。

 あのときの憎しみを。

 仲間が暑さに倒れた夏。

 月を見て心細さに涙した秋。

 寒さに凍えて身を寄せ合った冬。

 貴族を妬んで呪詛を吐いた春。

 すべて、ここに置いてきたつもりだった。忘れていたつもりだった。

 それが、今になって、脳裏に蘇る。

「どうしたの?」

 瞳に、クリス様の顔が映る。

 それで、私は現実に戻ってきた。

 ああ、愛しいクリス様。私の救い主。

 私は、あなたの世界で、ともに生きると決めたから。

 もう、私は、あのときの私ではない。

 今の私は、ローズ家のメアリ。 

 悔しさも、寂しさも、悲しみも、憎しみも、

 すべて、ここに置いてきた。

「いえ、大丈夫です」

 私は、小さな笑みを作った。

「さて、どうするか」

「ヤードまで連れて行こう」

「ここからだと遠いぞ」

「いいえ、その必要はないわ」

 アルバートたちが相談している中に、クリス様は割って入った。

「私は、彼に聞きたいことがあるの」

 クリス様は、少年のほうに向き直った。

 その瞬間、少年はクリス様の顔につばを吐きかけた。

 私とアルバートは驚き、慌てる。

「クリス様!」

「貴様、自分が何をやったか、分かっているのか」

 アルバートが凄む。だが、少年は怯まなかった。

「へッ、知らないねェ。第一、貴族サマがこんなところに何の用だ」

 私は、急いでクリス様の顔をハンカチで拭いた。クリス様は、眉ひとつ動かさなかった。

「気にしないで」

「しかし」

「ねえ、あなた」

 クリス様は、少年の瞳を見つめた。その真摯な眼差しに、少年はようやく態度を直す。

「何だよ」

 天使のように美しいクリス様と、泥に塗れて汚らしい少年。それは、まるでふたりが相容れない存在であることを表しているかのようだった。

「これから、私はあなたにいくつかの質問をします。もしかしたら、それは、あなたにとってはとても失礼に聞こえるかもしれない。そうだとしたら、謝ります。ごめんなさい。答えたくないと思ったなら、答えてもらわなくても結構です。でも、もし、そうでないなら、答えてほしい」

 クリス様は、粛々と告げた。

 誰もがクリス様を見つめていた。クリス様がこの場を支配している。暑さも臭いも気にならない。すべてが、クリス様の言葉を待っている。

「あなたは幸せですか」

「ふっざけんな!」

 弾けるように、少年は言った。怒りと憎しみを露わにした表情で、私たちを睨めつける。

「幸せなわけねェだろ。お前たちと違って、こちとら大変なんだよ。毎日毎日、テムズ川の底を漁ったり、ゴミ箱を漁ったりして、それでもメシにありつける日のほうが少ねェんだぞ。今の季節はいいけどな。冬は最悪だ。川は冷たいし、凍ってる日もある。寝ようとしても、毛布なんてねェから、寒くて仕方がねェ。凍えて死んじまったヤツだって、大勢居る」

 少年は、叫びを上げた。

 その怨嗟のこもった言葉に、私は思わずたじろぐ。

 だけど、クリス様は動じなかった。

「お前らは、そんな苦労も知らずに、のうのうと生きてんだろ? それが、幸せか、だと? ふざけんな!」

 クリス様は、無表情で少年を見つめていた。そこには憐憫も慚愧もなかった。

「それでは、あなたから見た感想で構いません。ここに住むひとたちは、みな、あなたのような考えを持っていると思いますか」

「当ったり前だ! ここは地獄だ。地獄なんだよ。みんな、明日にゃ死ぬかも知れない。そう思って生きてンだ。俺だって、二日も何も食ってねェ。それが幸せなんて、誰が言えンだ!?」

「シティの労働者たちも、自分たちの労働環境は劣悪だと訴えています。朝から晩まで働き、狭苦しい家に帰り、ろくに疲れも取れない休眠をして、起きたらまた働かなければならない。それでも、あなたは、彼らと比べて、不幸せだと考えますか?」

「そりゃあそうだ。だって、俺たちと違って、そいつらは温かいメシも食えるし、寝床だってちゃんとあンだろ? 明日死ぬかもなんて、思ってない。それだけで十分だよ。俺たちよりゃ恵まれてら」

「それほど不幸せなのに、あなたはなぜ死なないのですか?」

「は?」

「生きていても、苦しいことばかり、辛いことばかりだと思うなら、死んだほうがいいと、そう思ったことはないですか?」

「お前、バカにしてンのか」

 少年は、忌々しそうに言った。

 だが、クリス様はあくまで表情を変えない。

 クリス様は、何を考えているのだろうか。

「答えたくないことであれば、答えなくても結構です。でも、そうでないなら、答えてほしい」

 少年は、再びクリス様を睨みつけた。

 それでも、少しも姿勢を変えないクリス様を見て、表情を改める。

「俺は」

 諦めるように、彼は口を開いた。

 精悍な顔つきをしている。彼も、裕福な家庭に生まれ、相応の身なりをしていたら、りりしい姿を見せられたかもしれない。

 そう思うと、悲しくなる。

 どうして、彼はクリス様のようになれなかったのだろうか。

 どうして、彼はここで生きなければならないのだろうか。

 クリス様と、彼と、私には、いったいどのような違いがあったというのだろうか。

「なかった。なかったよ。考えたことも、なかった。今まで、生きるのに必死だったから」

 いつの間にか、彼はしおらしくなっていた。

「では、今は、どう思いますか?」

「分からねェ。死んだほうが……、楽なのかな」

「ダンテ・アリギエーリという人物が、『神曲』という書物を著しています。そこでは、死後、人は天国か地獄、あるいは煉獄に送られるとされています。生前、善い行いをした者は天国へ、悪い行いをした者は地獄へ。煉獄は、その中間のようなものです。」

「はっ、そうかよ。だったら、俺は地獄に行くんだろうな。毎日盗みばっかしてンだからな」

「地獄に行けば、毎日、悲痛な責め苦を受けることになります」

「そうか。今でも苦しいっつうのに、死んでも同じなのかよ。そりゃあ……、つれェなァ」

 少年は嘆いた。

「でも、これはダンテの考えです。ダンテも、実際に死後の世界を見たわけではありません。神学的には、このような世界観が正しいと伝えられていますが、そうでない可能性もあります。もしかしたら、永遠の暗闇に閉ざされるのかも知れない」

「そうなのかよ」

「もう一度お尋ねします。あなたは、死にたいと思いますか?」

「それは……」

 彼は、しばらく黙った。

「分からねえ。分からねえよ。結局、死んだらどうなるかってなア、分かんねえんだろ? だったら、俺はどうすればいいか分からねえよ。でもよ、もし、死んだら地獄に行くってンなら……、俺は、何で生まれたんだろうな」

 少年は、悔やむように言った。

「俺、生まれたときから、ずっとこんなでよ。ずっと、ずっと、苦しいって思いながら生きてきた。それなのに、死んだ後も苦しいってンなら、俺、もう、どうしていいか分からねえよ。俺は何で生まれたんだ? どうして、生まれなきゃならなかったんだ?」

 クリス様は、じっと少年の目を見つめた。

 そして、目を閉じて、静かに言う。

「ごめんなさい。その答えは、私には分かりません」

「そうかよ。そう、だろうな」

 少年は、諦めるように言った。

「最後にひとつ、聞かせてください」

「ああ」

「あなたは、神を信じますか?」

「ンだよ、結局は、カミサマとやらの勧誘か?」

 少年は、唾棄するように言った。

「前にも、お前みたいに、神を信じろだの何だの言ってくるヤツに会ったことがあるよ。でもな、こんな状況で、何を信じればいいっつうンだよ。カミサマとやらが居りゃア、こんな生活しなくて済んだんじゃねェのか? カミサマってヤツは、俺を助けてはくれねェのかよ? その牧師だか何だかっていう偉いヤツもな、どうせ温かい寝床で美味いモン食ってんだろ。そんなヤツに、俺たちのことなんて分かるワケがねェ。ンなヤツにぐちぐち言われたって、信じられるワケねェだろ」

「そう」

 そう言って、クリス様は、少年の耳に口を近付けた。

 そして、何かを囁く。

 少年の表情が、驚きに染まる。私たちには、ふたりが何を話しているのかは分からない。

 数秒、沈黙が流れた。それから、クリス様が少年の頭を撫でる。

「ありがとう」

 クリス様の手が、泥と埃に塗れてゆく。それでも、クリス様は意に介していない。

「あなたの本音が聞けて、嬉しかった」

「ンだよ。ったく」

「お礼に、これを差し上げましょう」

 クリス様は、ポケットの中から懐中時計を取り出した。

「あっ」

 事前に、クリス様は盗まれて困るような物は持ってこないと言っていた。だから、私は、クリス様がそのようなものを持っていることに驚いた。

「ふふ、ごめんなさいね。これなら、服に装着できるから、盗まれることはないと思って」

「でも、後でアデレイド様に何とお伝えすればいいか」

「私が失くしたと言い張るわ。あなたたちのせいにはしない」

 そう言いながら、クリス様は、少年に懐中時計を渡した。少年は、ひったくるように受け取る。

 私たちは、その光景を呆然と見るしかできなかった。

「これを売れば、いくらかの金額にはなるでしょう」

「はっ、よく分かってンじゃねえか」

「でも、こんなものをあげても、何にもならない。本当は、ここに居る全員に、ちゃんとした職業を与えてあげるとか、そういうことがしたかったけれど」

 クリス様は、周囲を見た。周囲には、羨ましそうな目で懐中時計を見つめるひとたちが居た。中には、私たちが去った瞬間に、それを盗もうとしているような者も居る。

 もしかしたら、この少年は、そのまま懐中電灯を売りに行くことができないかもしれない。それは、クリス様にも分かっているだろう。だから、本当は、別の方法で救いたかった。

 だけど、今のクリス様に、その力はない。

 きっと、クリス様も歯がゆい思いをしている。

「ごめんなさい」

「あン? 何だよ、それは」

「もし、私がその力を手にしたら、そのときは、あなたたち全員を救ってみせると、約束する」

「はっ、期待なんざしねえよ」

「それでいいわ。あなたたちは、とにかく、今を生きることに注力しなさい」

「てめえに言われるまでもねえ」

「それじゃあ、またね」

 クリス様はほほえんだ。

 少年は、顔を赤らめる。

「さて、そろそろ解放してあげて」

 クリス様は、アルバートに向かって言った。

「いいのですか、クリス様。警察に突き出さなくて」

「ええ」

 一瞬、アルバートは困惑したような表情を見せた。

 だけど、すぐに、クリス様の言う通りに、少年を解放した。

「もう来ンじゃねえぞ、ンなとこ」

 少年は、悪態をつきながら、小走りで去ってゆく。

「ご忠告、ありがたく受け取っておくわ」

 クリス様は、その後姿をいつまでも見送っていた。

「さて、もう帰りましょう」

 少年の姿が見えなくなって、クリス様は踵を返した。

「え、もう帰るのですか? まだ、来たばかりでは」

「ええ、もう、目的は果たしたもの」

「そう、ですか」

 アルバートは、釈然としない様子だった。

 それでも、私たちは、クリス様の言う通りにした。来た道を戻り、辻馬車を拾う。

「ああ、疲れた。家まで寝てしまいましょう」

 馬車に揺られながら、クリス様は口を開いた。

「そうですね」

 こういうところは、まだ子供らしい。そう思って、私は小さく笑った。

「ありがとう、メアリ」

「え?」

 突然のことだったから、私は驚いた。

「ここに来られるよう、骨を折ってくれたのでしょう」

「いえ、骨を折ったというほどのことでは」

「それでも、ありがとう」

 クリス様は微笑を浮かべた。

「あなたにとっては、来たくない場所だったでしょうに」

「そう、ですね」

 私は、少し声のトーンを落として言った。

 だけど、クリス様に心配を掛けたくなかったから、明るい語調に変えて、続ける。

「でも、幼い頃の話ですから、もう、あまり覚えていなくて。正直に言って、実際に行っても、何も感じませんでした」

「そう。それならいいけれど」

 クリス様は、呟くように言った。

 きっと、クリス様は、すべて分かっている。でも、私が隠したから、気付いていないふりをしてくれただけ。

「ねえ、メアリ」

「はい、何でしょう」

「あなたは、いま、幸せ?」

「私は、」

 私は、一瞬躊躇した。

「はい」

 だけど、その答えは決まっている。

「幸せです」

 私は、クリス様を見つめた。

「そう、それはよかった」

 クリス様は、瞳を閉じた。

「昔は……、ローズ家に拾われる前は、どうだった?」

「そう、ですね」

 私は、一瞬外を見た。

 木々が視界に現れては、消えてゆく。のどかな風景。

 あのときは、こんなもの、想像すらしなかった。

「幸せとは、言えませんでした。生きることに、必死で。悪いことも、たくさんしました。まだ小さかったから、あまり上手くいかなかったけれど、何人かの財布をスった経験もありました。スろうとして、失敗して、捕まって、殴られたこともありました。失敗すると、ボスに怒られて、そっちでも殴られました。その日はご飯抜きだと言われました。いつもお腹が空いていて、どこかしら怪我をしていました。辛くて、苦しくて、何でこうなったんだろうって、いつも、貴族や、ジェントリ階級のひとを恨んでいました」

 殺伐とした記憶。

 それは、今まで、ほとんど封印されていた。

 だけど、今では、あまり恐ろしいものではなくなっていた。

 だから、少しずつ、記憶の蓋を開けてゆく。

「もっと聞いても、いいかしら」

「ええ」

 クリス様の手が、私に触れた。

 とても温かくて、なぜか安心する。

 私は、ゆっくりと頷いた。

 そして、静かに、思考の海へと沈んでゆく。

 何があったかを思い出してゆく。

 そこは、暗くて、寂しくて、思い出すだけで、苦しくて、悲しいけれど。

 あなたが居れば、怖くない。

 あなたと居れば、怖くない。

「一度、同じグループに入っていた子が、死んでしまったことがありました。当然、葬儀などできません。埋葬もできませんでしたので、その子の屍体は表に投げて、そのままにしていました。毎日、毎日、前を通る度に、体が腐ってゆくことに気が付きました。ひどい臭いもしました。どんどんどんどん、その屍体が、人間の形を留めなくなって、ただの物になってゆく過程を見ていました。虫に食われて、乾いていって、どんどん見すぼらしくなりました。私は、その頃、きっと、死というものが何か分かっていなかったのだと思います。いえ、今でも、何なのか、はっきりと分かっていません。でも、死んだら、そうなってしまうということだけは、分かりました」

 あの日のコマドリが目に浮かぶ。

 折れた翼。腐った脚。もげた首。失われた瞳。

 そのときは、すぐに目を背けてしまったのに、

 なぜか、今では鮮明に思い出される。

 それは、きっと、私が、死というものを知り始めたから。

 あの屍体も、あのコマドリも、同じ。

 どちらも、死してしまったもの。

 死してしまったら、死体になる。

 それは、人も鳥も変わらない。

「だから、こうなりたくない、と思いました。死は、とても惨たらしいものなんだって、思いました。だから、毎日が苦しいとは思いましたけれど、死にたいとは思いませんでした。いつか幸せな日が来るだなんて、思ってもみませんでした。でも、死にたいとは、思いませんでした。そして、アルバートが来て、私はローズ家の使用人になりました。正直に言って、そのとき、アルバートが何を言っているのか、分かりませんでした。ただ、この地獄から抜けられるなら、何でもいい。そう思っていました。もう、ぶたれることも、お腹が空くことも、寒さに凍えることも、死を目の当たりにすることも、ないんだって。そう思って、私は、アルバートに付いていきました。もちろん、使用人のお仕事も、辛いことはいっぱいありました。でも、やっぱり、あの地獄よりマシです。それに、今は、」

 私は、そこで言葉を切った。

 そして、いま一度自分に問い掛ける。

 私は、本当に幸せだろうか。

 クリス様のほうを見つめる。

 ああ、改めて問うまでもない。答えは決まっている。

「今は、幸せです」

 確信を持って、私は言った。

「そう」

 クリス様は、胸に手を当てた。

「そう言ってくれて、よかった」

 私はにっこりと笑った。

 そのとき、馬車が大きく揺れた。クリス様の体が、私に被さる。

 柔らかい肢体。吸い付くような肌。

 触れているだけで、なぜか心が安らぐ。

「ごめんなさい」

 クリス様は、すぐに離れた。

「いえ」

 私は、もっと触れていたかったのに。

 だけど、それを口にすることはできなかった。

「ご両親は?」

 何事もなかったかのように、クリス様は言った。

 クリス様にとっては、私に触れることなど、何でもないことなのかもしれない。

 悔しさを胸に隠しながら、私は問い掛けに答える。

「母は、私を産んで、私が二歳くらいのときには、既に亡くなっていたようです。父は、分かりません。母も、父が誰なのかは分からなかったようです。もしかしたら、街娼でもしていたのかも知れません」

「あなたは、ご両親を恨んでいる?」

「それは……」

 私は考えた。

 それでも、両親の顔は思い浮かばなかった。どうしても、アレキサンダー様とアデレイド様の顔が浮かぶだけ。

 ふたりは、私の親ではない。

 親代わりとも言えない。

 やはり、私は、両親というものが、分からない。

「分かりません。ずっと、父も母も知らないまま過ごしてきたので、それがどういうものなのか、分からないです。だから、恨んでいるとか、いないとか、そういうことも」

 もし、私に両親というものが居れば、

 私は、今より幸せだっただろうか。

 そんな、虚しい問い掛け。

 どうせ、分かるはずなどない。

 だから、胸の中にそっとしまっておく。 

「あの少年は……、ああ、いや。そういえば、聞きそびれてしまったわね。両親のことを、どう思っているのか」

「きっと、彼も、分からないと思います」

「恨みに思うくらいなら、分からないほうが幸せだわ」

 クリス様は言い放った。

 そして、頭上を一瞥する。そこにあるものは、馬車の庇だけ。

 クリス様は、やはり、両親を恨んでいるのだろうか。

 私は悲しい。

 なぜ、親と子がいがみ合わなければならないのだろうか。

 私に、何かできることはないのだろうか。

「この世も地獄、あの世も地獄、か」

 クリス様は呟いた。

「ねえ、メアリ」

「はい」

「メアリは、神は実在すると思う?」

「それは……」

 私には分からない。分かるはずなどない。

 クリス様にも分からないことを、私に分かるはずなどない。

「神は、人を愛していると言われている。それでも、いま見てきたように、この世界には、辛いこと、苦しいことばかりが起きている。それは、人間を試しているのだとも言われている。辛く苦しい中にあっても、神を信じる気持ちを持つ者こそが、神に救われるのだと。でも、彼は、神のことを信じていなかった。あのような場所に居ては、考えることもできないと言った。彼の言うように、神というものを信ずることができるのは、私たちや、牧師のように、ある程度恵まれた人たちだけなのかも知れない」

 クリス様は、粛々と言った。

「『求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。』」

 それは、聖書の有名な箇所だった。私も、礼拝で聞いたことがある。

「これを鑑みれば、神は、人との関係において、両親に比されていると考えられる。確かに、『創世記』で、神は人を創っているのだから、親に近しい存在と言えないことはないかも知れない。だけど、だとしたら、やはり、神がイースト・エンドの人々に試練を与えていると考えるのは、あまりにも酷すぎる」

 クリス様は目を伏せた。

「いや、もしかしたら、それは正しいのかもしれない。私の両親のように、子に試練を与える親も大勢居るのかも知れないわね」

 クリス様は、自嘲するように笑った。

「神は、完全なる存在だとされている。であれば、何かを創るときも、また完全なものを創ることができるはず。でも、私たち人間は、いがみ合い、憎しみ合い、貧困や争いといった悲しみを生み続けている。これが完全とは、到底思えない。それも、きっと、神が我々を試しているのだと言うのでしょうけれど、そもそも、完全なものを創れるのであれば、試す必要すらないのではないかしら。アダムとイヴが禁断の果実を食べてしまったことで、人間は不完全な存在になってしまったと言われているけれど、そもそも、完全な存在が、蛇の誘惑などに負けるのかしら?」

 私は、何も言えなかった。

「人間は、失敗作なのではないかしら」

 私は、何も返せなかった。

「あのイエス様でさえも、最後には、神を疑った。ねえ、本当に、」

 私は、何も答えられなかった。

 クリス様は、私のほうに顔を寄せた。

 そして、かすかな声で、こう言った。

「神なんて、居るのかしら?」

 まるで、イヴをそそのかしたヘビのようだった。

 私は戦慄した。

 クリス様は、やはり、神の存在を疑っている。

「神を否定されるおつもりですか」

 私は体を引いた。

 少しでいいから、距離を取りたかった。

「ええ、そうなのかも、知れないわね」

「それは……」

 私は戸惑った。

 私は、キリスト教を信じている。食事の前後には感謝の祈りを捧げるし、日曜日には礼拝に行くし、何かがあれば十字を切るし、困ったことがあれば神様に助けを求める。神様の存在に確信を持っているというわけではない。それでも、何となく、神様に見られているような気がして、後ろめたい行いはしたくないという気持ちくらいはあった。

 だから、神の存在を否定することは、私にはできない。

 たとえ、クリス様の言葉だとしても。

「私だって、分かっている。このようなことは、あまり口にするべきではないわ。まだ、あなたにしか言っていない」

「それは……」

 それは、当然である。神の存在を否定するようなことを言えば、ご両親どころか、他の貴族や牧師様が何を言うか分からない。

「ダーウィンの『進化論』は知っているかしら」

「ええ、はい」

 頭の中に、髭面の生物学者が思い浮かぶ。

「少しだけ、ですけれど。私たちは、神に創造されたものではなく、猿から進化した生物だ、という話ですよね」

「ええ、そう。進化論の論争は、まだ決着が付いていない。でも、もし、それが本当なら、聖書の記述は誤りで、神など存在しないということになる」

「クリス様っ」

 私は、諌めるように言った。

「ごめんなさい」

 クリス様は、また自嘲的に笑った。

「もう、辞めるわ。少し、頭が混乱しているみたい」

「そう、ですね」

「まだ、屋敷までは少しあるわ。その間、休んでいましょう」

 そう言って、クリス様は、私の肩に体重を預けた。

 柔らかな肉体を感じる。心臓が早鐘を打つ。

 軽い体。

 大人びているように見えても、まだ幼い。

 もしかしたら、反抗したいだけなのかも知れない。

 幼い拒否感。神や大人という上位の存在に反抗するという、危なっかしい行為に魅力を感じているだけ。

 だとすれば、なおさら、私が分かってあげるべきだろう。

 何人の大人たちが誤解しても、私だけは。

 私は、寝ているクリス様の手に、自分の手を重ねた。


 私たちは、屋敷に帰ってきた。

 だが、その私たちを待ち受けていたのは、悪魔のような形相のアデレイド様だった。どうやら、私たちがイースト・エンドへ向かったことが露見したらしい。

 それでも、クリス様は、逃げることも、怖じることもなく、堂々とお母様と向き合った。

「どういうことですか、これは」

「下層階級の人々が、どのような生活を送っているのかを、この目で見てみたかったのです」

「なぜ、そのような」

「私は、いずれ貴族の家に嫁ぐことになるでしょう。私の夫が、ノブレス・オブリージュとして、慈善事業に手を出すこともあるでしょう。そのとき、私は、妻として、夫のやるべきことを導くことができるよう、正しい現状というものを知る必要がある、と考えたからです」

「そんな必要はありません!」

 アデレイド様は一喝した。

 頭に血が上っている。たとえ、クリス様が、どのような正論を言ったところで、考えを曲げることはないだろう。むしろ、口答えをすればするほど、むきになる。

「慈善事業の正しい方法? そのようなこと、あなたが考える必要はないのです。何度も言っているでしょう。夫のやり方に口を出すのは、悪い妻のやることです。そんなもののために自らの身を危険に晒す娘など、誰が嫁に欲しがりますか!」

「いくら金を注ぎ込もうと、間違った方法では事態は改善しません。ただ金を浪費するだけです。そのために自分の目で見て考えることの、何がいけないのですか」

「いけません! そんなことは、別の者に考えさせれば良いのです。考えるのはあなたの役目ではないと、散々言っているでしょう。そのワンピースの汚れも、あのような汚らわしい場所に行ったから付いたものでしょう? 服の汚れ程度だから良かったものを、もし顔に怪我でもさせられていたらどうするつもりでしたか? それこそ、一生誰も嫁にはもらってくれなくなります!」

「そうならないよう、細心の注意を払いました。メアリやアルバートにも来てもらったし、用心棒も雇いました」

「そんなことをせずとも、そもそも行かなければよかった話です! たとえ注意を払ったところで、怪我をする可能性はあったわけでしょう? それに、メアリやアルバートも悪いのですよ! あなたたちが止めないから」

「メアリやアルバートを悪く言わないでください。彼らは、私の無茶を聞いてくれたのですから」

「ほら、あなたも無茶だと思っていた! それなのにやるだなんて、ああ! 嘆かわしい」

 アデレイド様は、天を仰いだ。まるで、神を味方に付けているような仕草だった。

「どうして! あなたは、私の言うことを聞かないのです!」

「お言葉ですが」

 クリス様は口を挟んだ。

 その声は震えている。

 体もまた、震えている。

 表情には、悔しさがにじみ出していた。

「私には、お母様の言うことが、正しいとは思えません」

 本当は、クリス様も言いたくはなかったのかもしれない。

 それでも、言わなければいけない理由があった。

 だから、クリス様は、言うしかなかった。

 その末路を知りながら。

「子供が、親の言うことに反抗しますか!?」

「子供といえど、親の操り人形では、ありません。間違っていると思うことには、当然、反対します」

 クリス様は、目を背けた。

 ふたりの視線が交わることは、きっと、もうない。

「あなたと言う子は、もう!」

 アデレイド様は咆哮した。

 それは、哀哭とも呼べるものだった。

「どうしてっ、どうして、あなたは……!」

 どうして、ふたりはこのように生まれついてしまったのだろうか。

 ふたりは、愛し合うことができなかったのだろうか。

 睦み合う親子と、啀み合う親子。

 そこには、どんな差があるのだろうか。

「もう良い!」

 アデレイド様が空を叩く。

「もう、良い」

 肩で息をしている。感情が高ぶっている。

 だが、それは、限界を表していた。

「さっさと部屋に戻りなさい。もう、顔も見たくない」

 そう言って、アデレイド様は、踵を返した。

「あなたなど、生まれなければよかったのに」

 そして、吐き捨てるように言って、屋敷の中へ戻っていった。

 あのときと同じだった。

 私たちは、また、呆然と立ち尽くすことしかできなかった。

 アデレイド様の言葉が、脳裏に残響する。

 そんな酷い言葉を、どうして言えるのだろうか。

 生まれなければよかったなど。

 実の娘に向かって言う言葉ではない。

「クリス様……」

 心配になって、私は駆け寄る。

 だけど、クリス様は、不自然なほどに穏やかな表情を浮かべていた。

「ねえ、メアリ」

 優しい声。

 それが、私には、ひどく恐ろしいものに思えた。

「私は、部屋に帰って休むわ。あなたも、着替えたら、少し休んでいて良いわよ。それと、夜になったら、私の部屋に来てほしいの」

 私は、クリス様の顔を直視できなかった。

「少し、話したいことがあるから」

「はい」

 まるで、ヘビに睨まれたカエルのように、私は硬直していた。

 私は、クリス様が怖かった。 


†††


「失礼します」

 あのときと同じように、私はクリス様の部屋へ入った。

 だが、前回と違って、部屋は暗かった。クリス様の手元を照らす一本のロウソク以外に、明かりはない。その明かりの周りには、本や手紙の類が散乱していた。今まで読みふけっていたのかも知れない。

「人間は」

 クリス様は、唐突に言葉を発した。

「生まれながらに罪を負っている」

「生まれながらに、ですか?」

「ええ、そう。あなたは、アダムとイヴの物語を知っているでしょう?」

「はい」

 私は小さく頷く。

「蛇にそそのかされたイヴは、アダムと共に善悪の知識の実を食べた。その咎を受けて、アダムとイヴの子、すなわち、すべての人間は、生まれながらにして罪を背負っているの」

「すべての人間は、生まれながらにして罪を、ですか」

「もし、地獄というものがあるなら、イースト・エンドの彼は、生きている間も苦しければ、死した後も苦しみを背負うことになる。だとしたら、彼は、どうして生まれてしまったのでしょうね? いっそ、生まれなければよかったのにと、そう思うのではないかしら」

 生まれなければよかった。

 それは、クリス様に対して言われた言葉でもある。

 もしかしたら、クリス様は、あの少年に自身を重ね合わせているのかも知れない。

 でも、それは、あまりにも悲しすぎる。

 ひとが、すべて罪人であるというなら、

 ひとは、なぜひとを産むのだろうか。

 それは、罪を積み重ねてゆくことに他ならない。

 それでは、クリス様は、まるで罪を重ねるために生まれたようなものではないか。

 望まれて生まれたわけでもないのに。

 なぜ、クリス様は、生まれなければならなかったのか。

 私は目を伏せた。

 私も、もしかしたら、望まれずに生まれてきたのかも知れない。

 父は居らず、母は貧しいまま、私を恨みながら生んだのかも知れない。

 私は、母のことを覚えていない。私の周囲にも、覚えている者は居なかった。だから、私には、母を知ることができない。

 母は、私のことをどう思っていたのだろう。

 今では、もう、何も分からない。

 クリス様のように、望まれて生まれたわけではないなら、

 私は、なぜ、生まれたのか。

「クリス様……」

 きっと、アデレイド様の言葉は、クリス様の心に深い傷を刻みつけた。

 であれば、私は、それを癒やしてやる必要がある。

 私は、クリス様を見つめた。

 そして、そっと、優しい言葉をささやく。

「そう、思い悩まないでください。きっと、アデレイド様も、興奮して、口が滑ってしまっただけです」

 だけど、クリス様は、私の言葉を無視して続けた。

「しかも、アダムは乗せられて食べただけだけれど、イヴはそそのかした側だから、その罪は、女性のほうが大きいと言われている」

「クリス様……」

「『創世記』には、こうあるわ。『神は女に向かって言われた。『お前の孕みの苦しみを大きなものにする。お前は、苦しんで子を産む。お前は男を求め、彼はお前を支配する。』』」

「クリス様」

 まるでオルゴールのように、言葉を紡ぎ続けるクリス様。

 その機械的な口調に、なぜか焦燥が募ってゆく。

「中世の司教が書いた『魔女の鉄槌』という論文には、こう書かれている。『女はその迷信、欲情、欺瞞、軽薄さにおいてはるかに男をしのいでおり、体力の無さを悪魔と結託することで補い、復讐を遂げる。』」

「クリス様!」

 私は、思わず叫びを上げた。

「私は、産まれたいと望んだわけでもないし、女として産んでくれと言った覚えもない!」

 それに呼応するように、クリス様も叫びを上げる。

 それは、まるで産声だった。産まれて初めて発した、彼女の嘆き。

 きっと、ずっと秘めていたのだろう。それが、今日の口論を通じて、溢れ出してしまった。

 だけど、それは、決別を意味する。

 そんな悲しいこと。

 母と子が決別するなど、悲しすぎる。

 私は、クリス様の体を抱いた。

 優しく、愛しく、抱きしめた。

「クリス様……!」

 クリス様は、何も言わなかった。何も拒まなかった。

 ただ、無感動に、私の抱擁を受け止める。

「だめです、それは。それ以上を言っては。そんな悲しいこと、言わないでください!」

 私は泣いた。彼女のことを思って、泣いた。涙が頬を伝って流れ、彼女の肩を揺らしてゆく。

 だけど、

「ふふふ」

 彼女は笑った。

 肯定するわけでも、否定するわけでもなく、ただ、笑った。

「ごめんなさい。冗談よ。私も、興奮して口が滑ってしまったみたい」

「クリス様……」

「そんな顔しないで。私まで、悲しくなってしまうじゃない」

 にっこりと、クリス様は笑みを浮かべた。

 だけど、それが心からのものとは、私には思えなかった。

 それでも、そう言われたからには、言い返すことはできない。

 私は、手を解いて、クリス様から離れて行った。

 改めて見たクリス様は、髪が乱れていて、いつものような精悍さがなかった。まるで、亡者のような不気味さを湛えている。

「ねえ、メアリ」

 クリス様は、無邪気に言った。

 まるで、子供の頃に帰ったかのような口調だった。

 それが、私には、ひどく恐ろしいものに思えた。

「はい、クリス様」

「外に行きましょう」

「外、ですか?」

 私は、緊張して言った。

「ええ、はい。他のひとに見つからないように、こっそりとなら」

「では、行きましょう」

 クリス様は立ち上がった。

 ふたりで、夜の廊下を歩く。

 廊下は、とても静かだった。ロウソクの火はあるけれど、クリス様の部屋と同じで、昼間に比べればずいぶん明るい。その上、私たち以外に通行するひとが居ないから、とても寂しい。

 前に、クリス様は言っていた。夜は、すべてが寝静まっていて、まるで死んでいるかのようだと。

 今なら、その気持ちが分かる。私は、ひどく心細い気持ちになった。

 玄関までたどり着くと、靴を履いて、外に出た。外には門番が居たけれど、クリス様は、いたずらっぽい笑みを浮かべながら、見なかったふりをするようにお願いした。その様子は、いつものクリス様と変わらないものだった。

 もう、立ち直ったのだろうか。

 本当に、あの言葉は、口が滑って言ってしまっただけなのだろうか。

 それとも。

「ねえ、メアリ」

「はい、クリス様」

「『オデュッセイア』において、オデュッセウスは、キルケーと別れたあと、何をしたか、覚えているかしら」

「ええと」

 私は覚えていなかった。クリス様にせがまれて、何度も読んだはずなのに。

「オデュッセウスは、キルケーと別れたあと、予言者テイレシアースのもとへ行ったの。テイレシアースは、血を飲むことで、力を得て、オデュッセウスに未来のことを語った」

「そういえば、そういう記述だったような。まるで、ドラキュラみたいですね」

「そう。きっと、血には、何かそういう力があるのよ」

「血、ですか」

 クリス様は答えなかった。そのまま、庭のほうへ進んでゆく。

 ふたりで、庭を散歩したかったのかも知れない。

 だが、その割には、どこか目的地があるような、まっすぐな歩みだった。クリス様に従って奥へ進むと、茂みの中に、一羽のウサギが倒れていた。

「どうして」

 見れば、足には罠が付いている。原始的な仕掛けで、狩りに慣れた者の仕業とは思えない。そもそも、貴族の私的な屋敷の庭に、知らない者が狩りをしにくるはずもない。

「私が仕掛けたのよ」

「え?」

 私は驚いた。

 クリス様が、そのようなことをするはずがない。

 だって、

 クリス様は、虫や草花が傷つくことすら厭うような優しいお方だから。

 クリス様が、ウサギが傷つくようなことをするはずがない。

 それなのに。

「どうして、ですか?」

「こうするためよ」

 私は、自分の見ているものが信じられなくなった。

「ひっ……」

 まるで、趣味の悪い演劇か、でなければ悪夢でも見ているようだった。

 クリス様は、いつの間にか持っていたナイフを使って、ウサギの頸を掻き切っていた。

 どくどくと血が溢れてくる。クリス様は、恍惚とした表情を浮かべた。

「昔、ハンガリーに、バートリ・エルジェーベトという貴族の女性が居たの」

 クリス様は、ウサギを高く持ち上げ、滴る血を嚥下した。悍ましい光景だったけれど、なぜか、目を背けることはできなかった。

「彼女は、鮮血を浴びることで若さを保つことができると信じ、多くの少女たちを切り裂いたと言われているわ。でも、実際に、彼女はいつまでも若い姿で居たと言われている」

 クリス様の声が、どこか遠くに聞こえる。虚ろに響く。

 これは、本当に、私の知っているクリス様なのだろうか。

 もしかしたら、今見ているこれは、本当のクリス様ではなく、いつの間にかすり替わった偽物なのかも知れない。

 そう思うほどに、今のクリス様は、普段のそれとかけ離れていた。

 優しいクリス様。慈悲深いクリス様。

 これは、本当にあなたなのですか。

 だって、あなたが、禽獣を殺すようなことをするはずがない。

 あのときから、何かが、壊れてしまったのか。

 アデレイド様の言葉が、あなたの何かを壊してしまったのか。

 ああ、クリス様。

 できることなら、戻ってほしい。

 元のあなたに。

 優しいあなたに。

「ごめんなさい」

 やがて、ウサギから血が出なくなると、クリス様は呟くように言った。

 クリス様は、ウサギの亡骸を地面に埋め、十字を切った。

 そして、深く黙祷をする。

 その姿は、私の知っているクリス様のものだった。

 数分前の彼女とは、似ても似つかない。

 私は戦慄した。

 果たして、どちらが本当の彼女の姿なのだろうか。

「ああ、服までべっとりと血で汚れてしまったわね」

 クリス様は、自らの姿を見直して、言った。

「どうしましょう。こうなったら、捨ててしまうしかないわよね」

 そう言って、クリス様は、服を脱いで、下着姿になった。それでも、白い肌に、赤黒い血がこびり付いている。

「ふふ、服を失くした、なんて言えば、お父様やお母様はどう言うかしら。いや、もしかしたら、気付きもしないかもね」

 クリス様は、自嘲的に言った。

 もしかしたら、クリス様は、ご両親に構ってほしかったのだろうか。

 自分のことを見てほしかったのだろうか。

 だから、あえて、ご両親に怒られるようなことをし続けた。

 でも、だからといって、そのためにウサギを切り殺すのは、やりすぎである。

 自分を見てもらうためならば、もっと他にやり方がある。

 これが、クリス様の行いのはずがない。

 私は、ただ戸惑うばかりだった。

「どうして」

 まるで、それ以外の語彙を喪失してしまったかのように、私は繰り返す。

「どうして、このようなことを」

「前にも言ったでしょう。私は、永遠のいのちがほしい」

「永遠のいのち……」

 私は訝った。

「どうして……」

「あら、あなたなら、分かってくれると思っていたけれど。あなたは、死を目の当たりにしたのでしょう?」

 そう言われて、記憶が蘇る。

 イースト・エンドで死んだ仲間。死んだコマドリ。死んだウサギ。

 思い出すだけで、気持ちが悪くなる。

 それでも、なぜか思い出されてしまう。

「思い出したくないことだったなら、謝るわ」

「いえ……」

 クリス様は、私の心を読んでいるように言った。

「私は、毎日、あのコマドリのことを思い出している。忘れられようもない。あの、無惨な死体を。あの、哀れな死体を。あの死体を思い返すたび、私は、とても悲しい気持ちになる。今まで動いていたはずのものが、途端に動かなくなるのよ。まるで、ゼンマイの切れたおもちゃのように」

 クリス様は、月を見て、言った。

「命は、戻ることがない。動かなくなって、冷たくなって、土に汚れて、虫が這って、生きていたはずのものは、死体になる。それって、とても悲しいことではないかしら」

 だから、

「だから、私は、死にたくない」

 だから、あのウサギを殺したというのだろうか。

 あなたのせいで、あのウサギは、死体になったというのに。

 私には分からなかった。

 クリス様の考えていることが分からなかった。

 クリス様が正しいのかどうか分からなかった。

 私には、何も分からなかった。


†††


 それから、一年ほどが過ぎた。

 その間、クリス様は、非常に大人しかった。お母様に反抗することもなく、静かに、あるいは無為に日々を過ごしていた。それでも、お母様との関係がよくなったわけではない。むしろ、彼女たちは、ひとつも会話をすることがなくなっていた。

 もはや、そこには、親子の情などなかった。完全に、断絶してしまっていた。

 それでも、家族であるからには、ある程度行動を共にしなければならない。

 アレキサンダー様が、気分転換に、しばらく別の邸宅で過ごすことを思い立った。アデレイド様も賛成し、クリス様も、黙って付いてゆくことになった。

 無論、私も、クリス様の世話係として、同行することになった。使用人の中には、もとの邸宅に残る者も居たから、他のメイドに羨まれたりもした。

 別の邸宅へ向かう道中。馬車は山道に差し掛かっていた。空は青々と晴れ渡り、誰しもが、このまま順調に山を抜けることができると思っていた。しかし、突然雲がかかり、雨が降り、ひとつ前の馬車すら見えないような天気になってしまった。空気は冷たく、肌を突き刺すような風が吹いてくる。既に山を半分は過ぎてしまっていたため、このまま引き返すよりは、先に進んだほうが早く抜けることができる。そう判断し、馬車は止まらずに駆け続けた。

「クソッ、さっきまで晴れてたっていうのに。どうしたってんだ」

 虚空に向かって、馭者が愚痴る。私たちの間にも、不安が広がっていた。

「大丈夫よ、メアリ」

 クリス様は、私の手を握ってくれた。

 おかげで、私も少し落ち着いてきた。

 あのウサギを切り殺した日以来、私は、クリス様と話すことがめっきり減った。本当は、前までと同じように接していたかったけれど、あの蛮行が頭にちらついて、どうしても、クリス様を直視することができなかった。

 だが、クリス様は、あれから本当に大人しかった。神学の話をすることもなくなったし、吸血鬼の話をすることもなくなった。当然、動物を殺すようなこともなかったし、服を汚してしまうこともなかった。お母様との会話は途絶えていたけれど、まるで人が変わってしまったみたいに、糾弾されるようなことは何もしなくなった。もしかしたら、クリス様なりに反省したのかもしれない。反抗したい年頃は、終わりを告げたのかもしれない。

 だから、私も、あの夜のことを忘れて、昔と同じようにクリス様に接しようと思っていた。環境が変わることもあり、心を入れ替えて、クリス様に仕えようと思っていた。

 その矢先に、このようなことがあったものだから、私は、クリス様の優しさに胸を打たれた。やはり、クリス様は変わっていなかった。お優しいクリス様。それは、初めて世話役になった日から、変わらない。

 それなのに。

 どうして、このようなことが起きるのだろうか。

 神様は、どうしても、クリス様に試練を与えずにはいられないということなのだろうか。

 ゴロゴロゴロゴロ。

 突如、大きな物音が鳴り響く。外を見れば、地面が震えていた。地震かと思ったけれど、馭者の声が、それを否定していた。

「うわああああ! 上が、上がァ!」

 私は高くを見上げる。しかし、馬車の庇に遮られ、何が起きているかは分からなかった。

「いったい、何が」

「大丈夫よ、メアリ」

 私は慌てた。それを、クリス様が励ます。私は、すがるように、握る手に力を込めた。恐怖に縮こまり、心細さが広がる。馬は怯えていて、地団駄を踏むばかり。馬車の中で慌てふためいている内に、私たちは横から強い衝撃を受けた。

「うわあああああああああっ!」

 恐怖が全身を駆け巡る。汗が出るけれど、体は冷たくなっている。その瞬間、何か柔らかいものが、私の体を覆った。

 馬車が揺れる。私はしたたか体を打ち付けた。全身に衝撃が走り、とにかく痛かった。やがて、揺れが収まって、周囲から何の音も聞こえなくなった。ようやく、事態は収束したのだろうか。私は、クリス様のほうを確認した。

「クリス様。大丈夫ですか、クリス様」

 返事はなかった。心臓がきゅっと縮こまる気がした。私は慌ててクリス様の体を起こして、軽く揺さぶった。体を動かすと、動かした部分に痛みが走ったけれど、まったく気にならなかった。

「クリス様。クリス様!」

 クリス様は、動かなかった。頭から血を流している。目は閉じていて、開かない。体もぐったりしていて、意識があるとは到底思えなかった。

「クリス様、クリス様!」

 思えば、あのとき私に覆い被さってきた柔らかいものは、クリス様だったのだろう。ということは、クリス様は、とっさに、私を庇ってくれたということだろうか。本来であれば、私がクリス様を庇うべきであるはずなのに。

 あのとき、約束したのに。

 命を賭しても守ると、約束したのに!

「クリス様!」

 返事はない。何度声を駆けても、結果は同じだった。恐る恐る呼気を確認してみると、クリス様は、息をしていなかった。脈を確認しても、結果は同じだった。

 クリス様は、死んでいた。

「どうして……」

 絶望が心を支配する。私は、わけが分からなくなった。本当に、クリス様は死んでしまったのだろうか。つい先程まで、あれほど元気に動いていたのに。

 どうして、クリス様は死んでしまったのか。

 どうして、クリス様は死ななければならなかったのか。

 優しく、愛らしく、鋭く、聡明で、きっと、将来は、世界を救う傑物になるはずだったのに。

 悲しくて、寂しくて、ご両親との不和に頭を悩ませていたけれど、それでも、死にたくないと言って、人一倍生きることを望んでいたのに。

 どうして、私などを庇って、クリス様は死ななければならなかったのか。

 私のせいだ。

 私が、クリス様を守ることができなかったせいで。

 クリス様は、死んでしまった。

 私が守ると約束したのに。

 私は、約束を果たせなかった。

 私が守るべきだったのに。

「ああ……、ああ……!」

 私は涙した。号泣した。涙がとめどなくあふれてきて、止まらなかった。せっかく、この移動を機に、また昔のように親しく話し合えるようになればと思ったのに。まだ、私は、何も成せていない。

 ああ、愛しいクリス様。私の救い主。

 私は、もう、あなたに会うことはできないのですか。

 それは、どれほど残酷なことだろうか。

 ああ、あなたが居ない世界など、私には何の価値もないのに!

「うう、ううう、うううう……」

 私はうずくまった。もう、立っている気力すらもなかった。

 悲しくて、悲しくて、他のことが何も分からなくなった。まるで、悲しみという水を湛えた湖の底に沈んでいるように。

 そうして、どれくらい経っただろうか。ようやく、私は感覚を取り戻し始めた。どうやら、誰かが、私の乗っている馬車に向かって声を掛けているようだ。

「おおい、大丈夫か!」

 本当は、答えなければいけないところだったけれど、あまりにも悲しくて、私は声を上げることができなかった。

 立ち上がろうとして、クリス様の姿が見えた瞬間、また、悲しみがあふれだしてきてしまった。再び立っていられなくなり、私は泣き出した。

「誰かの泣き声がする」

「早く開けるんだ!」

 横転した馬車の扉を開けて、上から誰かが覗き込んできた。それは、ローズ家執事のアルバートだった。

「メアリ、無事だったか!」

「あ……」

 それでも、私は声を出すことはできなかった。天を仰いで、アルバートの顔を見つめながら泣き続ける。

「クリス様は!」

「く、りす、さま、は……」

 涙に濡れた声で、私は必死に喉を震わせた。

「まさか!」

 アルバートは、事態を察したらしく、強引に中へ入ってきた。そして、狭い車体の中で窮屈そうに体を動かし、クリス様の容態を確認した。

「メアリ、クリス様は……」

 私は、泣きながら首を横に振った。

「そんな……」

 アルバートの表情が絶望に歪む。私は、涙をこらえるだけでせいいっぱいだった。

「くそっ! くっ……、ぐう……!」

 アルバートが車体を叩いた。それでも、クリス様は帰ってこない。

 それから、クリス様の死体が引き上げられ、私も馬車の外へ追い出された。初めて見た馬車の外は、それこそ地獄のような光景だった。

 ほとんどのひとが、怪我をして血を流していた。地面に倒れ込んで動けなくなっているひとも居た。馬車は横転しているものもあり、まるで悪魔が通り過ぎた後のようだった。

 後で聞いた話によると、落石がぶつかったらしい。とはいっても、石の直撃をまともに受けたものはなく、車体が潰れるほどの事故にはならなかったとのこと。あくまで、石の欠片がぶつかったり、馬が慌てて転倒したりして、バランスを崩しただけだったという。

 それでも、いくつかの馬車は大きく滑り出し、道の端まで投げ出されているものすらあった。その中には、クリス様のご両親が乗っている馬車もあったようだ。

「アデレイド! アデレイド!」

 アレキサンダー様の声が聞こえる。アデレイド様の名前を呼びながら、悔しそうに地面を叩いていた。アレキサンダー様も、体中に傷を負っている。それなのに、何も痛みを感じていないかのように、必死に地面を叩きつけていた。

「……くぅ」

 アレキサンダー様の姿を見て、私も自分の痛みを思い出した。両腕がずきずきと痛み、左足がじんじんと痛み、頭はずきりと痛む。それでも、命があっただけ、幸いかもしれない。

 だって、命を失ったひとも居るのだから。

「クリス、様……」

 また、悲しみがあふれ出してくる。私は、地面に横たえられていたクリス様のほうに向かった。顔は血にまみれて、髪は埃にまみれて、体は土に汚れている。

 クリス様の言った通りだった。

 死は、惨たらしい。

 美しい死など、ありはしない。死は残酷で、死は唐突である。

 あの麗しいクリス様でさえ、それを回避することはできなかった。

 きっと、私も。

 いつか、あのようになってしまうのだろう。

 腕が取れ、足が切れ、首がもげ、瞳から光が失われることもあるのだろう。

 そんな、いつかを想像し、

 私は吐き出した。

「メアリ……」

 ああ、地獄だ。

 横たわる死体。

 壊れた馬車。

 泣き叫ぶ人々。

 嘆き悲しむ人々。

 まるで、地獄の責め苦を受けて泣き叫んでいるかのよう。

 この世に、これほど凄惨な光景が他にあるのだろうか。

 夢であれば覚めてほしい。神様が居れば救ってほしい。

 どれほど私が祈っても、

 世界は、あまりにも残酷だった。


 結局、その事故で、クリス様とアデレイド様というふたつの尊い命が失われた。

 移動は中止になった。

 私たちは、元の屋敷へ帰ってきた。

 屋敷では、急遽ふたりの葬儀が執り行われた。ふたりは牧師によって弔われ、土に埋められた。

 アレキサンダー様は、泣いていた。ずっと、ずっと泣いていた。泣きながら、しきりに奥様の名前を呼んでいた。

 はじめ、私は泣けなかった。あのとき、既に涙が枯れてしまっていたのかもしれない。呆然として、クリス様の亡骸を見送ることしかできなかった。清拭されたクリス様は、きれいだった。死んでいるということが、嘘みたいに。

 後悔と、絶望で、まだ何が何だか分からなかった。

 ただ、自分が約束を破ってしまったことだけは、分かっていた。何かがあれば、クリス様をお守りすると言ったのに。

 所詮、私如きが何をしたところで、クリス様の死を止めることはできなかっただろう。それでも、自分がクリス様との約束を果たせなかったことに、私は深く悔恨の念を抱いていた。

 悲しかった。ただただ悲しかった。もう、クリス様にお会いすることができないことを思うと、ようやく涙が溢れ出してきた。

 私の半生は、ずっとクリス様とあったのだ。クリス様を見て、クリス様とともに育ってきた。そのクリス様を失うことは、私にとって、半身を失うことに近かった。

 美しいクリス様。聡明なクリス様。優しいクリス様。誇り高きクリス様。

 どうして、私はもうクリス様に会えないのだろう。

 私は、死というものを、ようやく実感し始めていた。

 ああ、誰かが死ぬということは、これほどまでに悲しいことなのか。

 もう、クリス様に会うことはできない。もう、クリス様を見ることはできない。

 あの愛らしい笑顔も、あのいたずらな微笑みも、あの優しい抱擁も、あの聡明な眼差しも、

 すべてが永久に失われてしまった。

 会いたい。

 クリス様に会いたい。

 もう一度会って、話がしたい。あの笑顔が見たい。

 私は泣いた。いつまでも、泣いた。どれだけ泣いても、クリス様にお会いできないことを思い出して、涙が枯れることはなかった。


 それから、私は洗濯メイドに戻った。

 だが、何をしていても、楽しく思うことはなかった。大好きだったおとぎ話も、それが本であるというだけで、クリス様のことを思い出して、悲しくなってしまう。

 面白くない。幸せではない。ただ、機械的に洗濯をこなすだけの日々。それは、空虚で、無為で、無意味で、無価値なものだった。

 クリス様は、今頃どうしているだろうか。天国で、安らかに暮らしているだろうか。地獄で、恐ろしい日々を送っているだろうか。それとも、永遠の暗闇の中に囚われているのだろうか。

 ずっと、ずっと暗くて。体を動かすこともできない。声を発することもできない。誰も居ない。何もない。それなのに、意識だけがある。そんな世界に、ずっと、ずっと、囚われる。永遠に、無限に、闇の中に閉じ込められる。

 そうだとしたら、あまりにも酷い。どうして、クリス様が、そのような酷い目に遭わなければならなかったのか。

 生まれたいと願ったわけではないのに。

 望まれて生まれたわけではないのに。

 これでは、永遠の苦しみを味わうために生まれてきたようなものではないか。

 罪人として生まれ、罪人として死後に苦しめられる。

 それなら、ひとはなぜ生まれてくるのか。

 そして、

 それは、私にも避けられない運命である。

 私は、あと何年生きられるのか。私は、あと何年死を逃れられるのか。

 そして、それを終えたとき、私はどうなるのか。

 私も、永遠の闇に囚われてしまうのか。

 厭だ。

 怖い。

 死にたくない。

 生きていたい。

 汚らしく、惨たらしい骸を晒して、

 永遠の闇に囚われるなど、

 そんなのは嫌だ!

 今なら、クリス様の気持ちが分かる。

 死を忌避する気持ちが分かる。

 私は、死にたくなかった。

 私は、死ぬのが怖かった。

 死を想像するだけで、涙があふれてくる。

 死にたくない。死にたくない。

 死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない――。


 ある日、私は、遺品の整理を命じられて、クリス様の部屋へ入った。

 本当は、入りたくなかった。だって、クリス様のことを思い出してしまうから。

 それでも、遺品を他のひとに触られるくらいなら、自分がやったほうがいい。

 そう思って、私は引き受けた。

 確かに、私は遺品の整理には適任だっただろう。何せ、数年間クリス様の従者を務めたのだから。クリス様のことであれば、私が一番よく知っている。

 だが、だからこそ、悲しみも深かった。

 部屋は生前のままだった。机には、読みかけの本が積まれている。それを見るだけで、クリス様のことを思い出して、辛い。見ているだけで、泣いてしまって、作業ができない日もあった。

 それでも、何日もそうしていると、ようやく涙も乾いてきて、少しずつ、作業が進むようになった。

 慣れたわけではない。ただ、悲しんでいても、意味がないと思っただけ。

 整理した本の中には、吸血鬼や、錬金術など、永遠のいのちを手に入れるために調べていたと思われるものが多くあった。もしかしたら、これらを紐解けば、私も永遠のいのちを手に入れることができるかもしれない。

 いや、私ごときかいくら考えたところで、手に入れることはできないかもしれない。だって、クリス様でさえ、手に入れることは叶わなかったのだから。

 それでも、私は、何かに没頭していたかった。

 そうしなければ、クリス様のことを思い出してしまいそうだったから。

 そうでなければ、死の恐怖を思い出してしまいそうだったから。

 そうして、私は、部屋に残された文献を漁ることにした。

 永遠のいのちを手にするために。

 死を忘れるために。

 少しでも、クリス様の思いに近づくために。


†††


 私は、ひとつの手がかりを見つけた。

 クリス様の残した文献に、私たちと同じようなことを調べている団体の記述があった。

 私は、不安に思う気持ちもあったけれど、決心して、手紙を送ってみた。すると、意外にも好意的な返事を得られて、様々な情報を提供してもらえた。

 そして、次の春。

 私は、その団体の施設のある場所へ向かった。

 屋敷には、数日暇をもらっていた。そもそも、クリス様とアデレイド様が亡くなって以来、ローズ家にはアレキサンダー様しか居らず、使用人の必要も減っていた。そろそろ数を減らすべきかと考えていたようだから、メイドひとりが数日暇をもらうくらいは問題なかった。

 その施設があったのは、帝都の郊外だった。建物自体は小さく、あまり目立たない。本当にここで合っているのだろうか。不安に思って、私は手紙に書かれた住所を何度も確認した。だが、間違ってはいなかった。どきどきしながら、ドアノブに手を掛ける。

「失礼します」

 扉を開け、頭を下げ、中へ入る。頭を下げる必要はなかったかも知れないが、体が勝手に動いていた。

 そこで、私は、驚くべきものを目にした。

「あ、ああ……、ああ……!」

 感動と驚愕で、思わず声が上がる。

「久しぶりね、私のメアリ」

 それは、懐かしい声だった。

 それは、懐かしい姿だった。

 幾度となく聞いた声。

 何度も見たいと願った姿。

 その声を、私は知っている。

 その姿を、私は知っている。

 ああ、それは、

 それこそは、

「クリス様!」

 思わず、私は駆け出していた。その体をかき抱き、それが幻想ではないことを確かめる。

「クリス様、クリス様……」

 何度も、何度も名前を呼んで。あなたが、あなたであることを確かめる。

 だけど、もう分かっていた。その声は、その姿は、その言葉は、その仕草は、間違いなく、私の知っているクリス様のもの。

「あなたなら、きっとここにたどり着くと思っていた」

「生きて、おられたのですか……」

「ええ、そう。最初から、死んだというのは嘘」

 心の中が、熱いもので満たされてゆく。瞼の奥が、熱いもので満ちてゆく。

「クリス様……!」

 嬉しくて、嬉しくて、私は何度もその名を呼んだ。

 もう一度呼ぶことができるとは、思ってもみなかった。

 何という幸運だろうか。夢でも見ているのではないか。

「でも、どうして」

「その話もしたいのだけれど、その前に、ひとつプレゼントがあるの」

「プレゼント、ですか?」

「ええ。だから、私に付いてきて」

 導かれるままに、私は、廊下を進み、最初の部屋へ入った。そこは、机と椅子と棚が並んでいるだけの簡素な部屋だった。机には、ひとつのパンが乗っている。

「これは……」

「これが私からのプレゼントよ。さあ、食べてみて」

「え?」

 そう言われても。私は困惑した。

 クリス様に会えたことは、嬉しい。だが、あの落石事故のとき、クリス様は確実に息をしていなかった。脈が止まっていた。それどころか、埋葬もした。それなのに、クリス様が生きていて、そして、何も説明をされずに、パンを食べることを勧められている。

 理解ができない。

 まるで、『不思議の国のアリス』のように、荒唐無稽な筋書き。

 本当に、夢を見ているのかもしれない。

 私は不安を感じた。

「これは、ただのパン、ですか?」

「酵母なしパンよ」

「酵母なしパン、ですか?」

 クリス様は頷いた。笑っている。だけど、その笑みは、どこか不気味だった。

 机の上のパンは、ただのパンではなかった。平たく、赤黒い色をしている。ブドウか何かを練り込んでいるのだろうか。それとも。

「これ、何か入っていますけれど、何ですか?」

「食べてみれば分かるわ」

「食べてみれば分かる、って」

「さあ、食べて」

 クリス様は、にっこりと笑った。

 違う。おかしい。私には分かった。クリス様は、何かを隠している。

「クリス様、これは、何なのですか?」

 私は焦って問いただした。

 その感情が伝わったのか、クリス様は、観念したように息を吐いた。

「疑り深いのね」

「すみません」

「いいえ、いいのよ。疑うことは重要なこと。たとえ、相手が自分の主人であっても、ね」

 私は罪悪感を覚えた。

「ごめんなさい。説明すれば、あなたは食べたがらないと思っていたから。でも、こんな騙し打ちみたいな真似をするのも、あなたに悪いわね。だから、全部打ち明けるわ」

 私が食べたがらない。

 ということは、これは、やはり、何か悪いものでも入っているのか。

 だが、それでは、なぜ、クリス様はこれを私に食べさせようとしたのか。

 分からない。何も。

 しばらく会わなかった間に、クリス様は、変わってしまったのだろうか。

 ここに居るクリス様は、私の知っているクリス様ではないのだろうか。

「そこに入っているのは、そう。私の赤ちゃんよ」

「え?」

 私は、焦ってパンを見た。

 赤黒いパン。

 もし、クリス様の言葉が真実であれば、

 この色は、クリス様の。

 しかし、だとしたら、

 なぜ。

 クリス様は、

 私に、

 どうして。

「それは……、でも……」

 クリス様の顔とパンを交互に見る。

 クリス様は、冗談を言っている様子ではない。

「正真正銘、紛れもなく、私の、私がお腹を痛めて産んだ赤ちゃんよ」

「そんな、どうして」

 恐怖に身がこわばる。

 私には理解ができなかった。

「なぜなら、それこそ、永遠のいのちを手に入れるために必要なものだから」

「これが……?」

 私は、もう一度パンを見た。

 赤黒いことを除けば、何の変哲もないパンである。

 これで、こんなもので、永遠のいのちを手に入られるというのだろうか。

 そして、クリス様は、なぜそれを知っているのか。

 クリス様は、何を知っているのか。

 私には分からない。

 何も理解ができない。

 このクリス様は、

 本当に、私の知るクリス様なのだろうか。

「ねえ、メアリ。『さまよえるユダヤ人』を知っているかしら」

「いえ……」

「イエス・キリストが、架刑に処せられ、十字架を背負って、ゴルゴタの丘を歩いているとき。ひとりのユダヤ人が、イエスを罵ったの。『さっさと行け』とね。そうすると、イエスは、『行けというなら、行こう。だが、その代わり、お前は私が帰ってくるまで待ちなさい』と言ったの。この『帰ってくる』というのは、最後の審判に帰ってくることを表している。つまり、イエスは、最後の審判まで、彼が生きているような呪いを掛けたと言われているの」

 クリス様の姿が、記憶の中のクリス様と重なる。

 やはり、目の前のクリス様は、私の知っているクリス様である。

 それなのに、どうして。

 私は、クリス様を信用することができない。

「そう、そのユダヤ人は、不老不死になったの。それでね、前にも、イエスが神を疑ったという話をしたのを覚えているかしら?」

 私は頷いた。

 声を出すことは、できなかった。

「さすが、私のメアリ。イエスは、その後、十字架に架けられた。だけど、イエスでさえ、その責め苦は辛く厳しいものだったのでしょう。イエスは、とうとう、神を疑う言葉を口にしてしまった。『エリ・エリ・レマ・サバクタニ』。その言葉の意味は、『神よ、神よ、なぜ私を見捨てたのですか』と言われている」

 クリス様は、ひと呼吸置いた。

「私は気付いたの。イエスを冒涜したユダヤ人は、不死になった。神を冒涜したイエスは、死してなお復活を果たした。そう、神を冒涜した者が、永遠のいのちを手に入れられる」

「神を冒涜した者が、永遠のいのちを手に入れられる……?」

 言っている意味が分からない。だが、クリス様は、それを信じているらしい。

「そこで私は調べた。最も神を冒涜する方法を。それは、『血の中傷』と呼ばれる儀式だった」

「血の、中傷」

「それは、異教徒が古くにやっていたとされる儀式で、特定の日に、攫ってきた嬰児の生き血を、酵母なしのパンなどに入れて食べるというものよ。これは、キリスト教徒を、ひいては神を冒涜するために行われていたと言われているわ」

「神を、冒涜する」

 私は、それほど信仰に篤いわけではない。

 礼拝に行くのは面倒くさいと思うこともあるし、神様の言うことが正しいかどうかなど分かっていない。

 それでも、まったく神を信じていないというわけではない。

 この国に生まれた者として、漠然と、神は正しいものだという認識はある。

 だから、

 神を冒涜することは、私にはできない。

 たとえ、クリス様の命であっても、私にはできない。

「そう、それを食べれば、あなたは吸血鬼になれるの!」

「クリス様は、もう、これを口にしたのですか?」

 震える声で、私は言った。

「ええ、そう。そうよ。私は、既に一年前にそれを口にしている。私は、もう、立派な吸血鬼なのよ!」

 クリス様は、うっとりとした表情を浮かべた。

 私は、自分の頭がどうにかなってしまったのかと思った。

 これは、現実なのだろうか。夢ではないのだろうか。

 私の知っているクリス様は、こんなに残忍なことを、平気な顔して行える方ではなかった。

 だって、この中には、クリス様の子供の血が入っているのだから。

「クリス様!」

 私は叫んだ。

 クリス様は、飼い犬に手を噛まれるとは思わなかったというような、驚いた表情をしている。

「クリス様、あなたは、自分が何をしているのか、分かっているのですか?」

「ええ、分かっているわ。もう一度言いましょう。私は、自らお腹を痛めて産んだ子供を、その血のために殺め、食べさせようとしている」

「殺め……、って。まさか、殺したのですか!?」

「ええ、だって、そうする必要があったのですもの」

「酷い。こんなのって……」

 私は絶句した。

 クリス様は、虫や草花を踏み潰してしまうことさえ、厭われるお方だった。

 それなのに、今では、自らの子を殺め、その血を他人に食べさせようとしている。

 やはり、あのとき、何かが壊れてしまったのだろうか。

 クリス様の中で、大切な何かが崩れてしまったのだろうか。

 それなら、

 私は、守らなければならない。

 私は、救わなければならない。

 だって、約束したのだから。

 クリス様を、守ると。

 私が、この手で、守ると。

 あのとき果たせなかった約束を。

 私は、果たさなければならない。

 それが、私の使命だから。

「クリス様は、虫や草花を踏み潰してしまうことさえ、厭われるお方だったのに……!」

「ええ。その気持ちは、今でも変わってはいない。でも、私だって、食事をすることくらいあるわ。食事をするということは、動物や植物のいのちを奪っているということでしょう? それは、無為に奪っているわけではない。私が生きるためには、その犠牲が必要なのよ」

「だからって、そんな……」

「酷い? 言っている意味が分からないわ。それでは、ウサギを食べることも、じゃがいもを食べることも、酷いと思わなければならない。私は、すべてのいのちを等価値だと思っている。だから、たとえそれが自分の子供であっても、ウサギであっても、そのいのちを奪うことに関しては、同じように悲しまなければならない。自分の子供だから重要というのは、道理に合わないわ」

「いいえ、それは……」

 クリス様を、憐れみ深い方だと思っていた。すべてのいのちに哀れみを感じている方だと思っていた。

 だが、それは、虫や草花のいのちも、人間のいのちと同等に見ていたということだったのか。

 結果として、クリス様は、すべてのいのちを簡単に捨て去ることができるようになってしまった。

 確かに、クリス様の言葉は、正論に見える。

 いや、実際正論なのだろう。クリス様が間違った言葉を吐いたことを、私は知らない。

 だが、だからといって、首を縦に振ることはできなかった。

 何があっても、引き下がるわけにはいかない。

 私は、クリス様を救わねばならないのだから。

「いいえ、それは違います。だとすれば、クリス様のいのちも、また等価値としなければならないはずです」

「あら、さすが私のメアリ。なかなかいいことを言うじゃない」

 クリス様は口角を上げた。

「そう。畢竟、誰を犠牲にして、誰を生かすかというだけなのよ。嬰児を犠牲にすれば、あなたは不死になる。でも、嬰児を生かせば、あなたはいずれ死んでしまう。どちらを取るか。であれば、私は、あなたに生きてほしい」

「それって……!」

「自分勝手かしら? でも、結局は、選び取らなければならない。嬰児を生かして、あなたが死ぬか。嬰児を殺して、あなたが永らえるか。ふたつにひとつ。どちらも生かす方法は、ないの。であれば、そこから先は、どちらが自分の勝手を通すかということになってしまう。それなら、生殺与奪の権利を握っているほうが、強いほうが、その勝手を通すことになる。それは、どうしようもないことなの」

「でも、そのために子供を殺すなんて!」

「では、あなたはそのために死んでもいいの?」

 ナイフのように、言葉が突き刺さる。

 私は、数秒息ができなくなった。

 あの恐怖を思い出す。死を想像したときの恐怖。あの恐怖から逃れるためなら、私は何にでもすがるつもりだった。

 だけど、

 それは、それだけは、私にはできない。

「私は、あなたがこの『黄金の夜明け団』に出した手紙をすべて読んでいる。そこには、あなたが死を恐れているということが綴られていた。『私は、幼い頃から死を目の当たりにしてきました。そして、とても親しい少女が死んでしまったとき、私は、心から死というものを恐れるようになったのです。だから、私は、死を逃れたい。死を逃れる方法を知りたい。そのために協力をお願いしたいのです。』この言葉は、きっと嘘ではない。あなたは、心から死を恐れている。そして、私も、あなたと同じ苦しみを抱いている」

 クリス様は、手を伸ばした。

 まるで、天使が死の淵にある信者に手を差し伸ばすかのよう。

 きっと、その手を取れば、天国に昇ることができる。

 だけど、今は、

 その手を取ることはできない。

「だから、私は、あなたの苦しみを取り去ってあげたかった。あなたを死から解放してあげたかった。そのために、私は苦しみながら孕み、苦しみながら子を産んだ。そして、その子をあなた捧げた。ただ、それだけなのよ!」

「でも……」

 クリス様が、私のことを思っていてくれた。

 私のためにしてくれた。

 以前の私であれば、そのことだけで、手放しに喜んでいただろう。

 いや、今でも。

 嬉しいという気持ちがないわけではない。

 だけど、喜びに甘んじていることはできない。

 私は、クリス様を救わねばならないのだから。

 だが、私には、反論することはできなかった。

 やはり、クリス様には、敵わない。

 いつも、そうだった。クリス様は、聡明で、能弁で、どんなことでも、すべて納得させられてしまう。

 懐かしい思い出が蘇る。

 人形遊びをしたこと。『吸血鬼ドラキュラ』を買ったこと。お母様と激しい口論をしたこと。ウサギを殺したこと。

 クリス様の世話係になったこと。コマドリの死体を見たこと。イースト・エンドに行ったこと。そして、クリス様が死んでしまったときのこと。

 あのときは、悲しかった。ただただ、悲しかった。

 クリス様に加えて、アデレイド様も死んでしまったのだから。

 そう、アデレイド様も。

「ひとつ、訊きたいことがあります」

「ええ、構わないわ」

 クリス様は、あの日死んだ。

 だが、それが予定調和だったなら。

 永遠のいのちを手にしたクリス様が、何らかの理由で、自らあの事故を起こしたものだとしたら。

 自らの子供さえ手にかけることのできるのであれば、反りの合わなかった母を殺すことなど、何のためらいもなかったはず。

 もしかして、

「もしかして、」

 私は、恐ろしいことを口にした。

「もしかして、クリス様は、アデレイド様も、ご自身の手で殺されたのですか!?」

「あれは不幸な事故だった」

 クリス様は、冷たい瞳で言った。

「本当は、殺すつもりはなかったの。ただ、私の巻き添えに会ってしまっただけ」

「ということは、やはり、あの落石事故も、クリス様の」

 私は震えた。あの地獄も、クリス様が引き起こしたものだったとは。

「ええ、そうよ。そのほうが、都合がよかったものだから。勝手に姿を消しては、行方を捜されてしまって、面倒なことになる可能性があったから。死んだことにするほうが都合がよかった。本当は、私以外には死人が出ないようにするつもりだったけれど、運が悪かったわね」

「運が悪かったって、そんな……」

 私は戦慄した。

 私には、母は居ない。もし、母が居たとしても、殺すことは、きっとできないだろう。

 だって、自分を産んだひとなのだから。自分と血の繋がっているひとなのだから。

 子供は、母の身体の一部が成長したものである。それに手を掛けるということは、自らの身を傷つけることにも等しい。

 だから、子供が母を殺すことも、母が子供を殺すことも、できるはずがない。

 たとえ、母から愛してもらえなかったとしても。

 たとえ、その生を母に望まれていなかったとしても。

 だが、クリス様は、平然とした顔で言った。

 本当に悔いているなら、そのような顔では言えない。

 そもそも、自分が死ぬだけなら、もっと他に方法があったはず。

 あれでは、誰かが巻き込まれるに決まっている。

 それくらいのこと、クリス様に分からないはずがない。

 だから、きっと、クリス様は、

 心の中で、殺してしまってもいいと思っていたのではないだろうか。

「でも、その必要もなかったかも知れないわね。あの両親なら、たとえ私が行方を晦ましたとしても、捜さなかったかも知れない」

「そんな、こと」

「分からないわよ。だって、お父様は、私が死んだときも、葬儀のときも、一度も、私の名前を呼ばなかった!」

 私ははっとした。

 確かに、アレキサンダー様は、事故のときも、葬儀のときも、奥様の名前を呼ぶだけで、クリス様の名前は呼ばなかった。

 だが、その言い方では、クリス様は、名前を呼んでほしかったようにも聞こえる。

 いや、

 きっと、呼んでほしかったのだ。

 誰でも、親には、愛してほしいと思っているに決まっている。

 ――ああ、そうか。

 頭の中で、何かが弾けるような音がした。

 私は気付いた。

「そう、だったの、ですね」

 なぜ、クリス様がこのようなことをしたのか。

 クリス様が、何を考えて、ここまで至ったのか。

 私は分かった。

 初めて、私はクリス様の考えていることが分かった。

「……どうしたの?」

 なぜ、クリス様が、神学に興味を持ったのか。

 それは、救いを求めていたから。

 なぜ、クリス様が、神を否定したのか。

 それは、神では救いが得られなかったから。

 神は、すべてのひとが罪深きものだと言っている。

 神は、女は男に劣るものだと言っている。

 神にとって、人間は失敗作だった。女は欠陥品だった。

 クリス様は、お母様にとって、自分は失敗作だったと思っているのかもしれない。

 だから、

 クリス様は、それを否定したかった。

 クリス様は、自らが失敗作ではないと知ってほしかった。

 自分は要らない子ではないと。

 自分は優れた子であると。

 親に、知ってほしかった。

 親に、認めてほしかった。

 そのために、自らを証していただけなのだ。

「私にも、分かります」

「何が?」

「私も、親に捨てられた身ですから」

 きっと、寂しかったのだ。

 寂しかっただけなのだ。

「私は、捨てられてなどいない」

 クリス様は、冷静に言った。

 だが、きっと、その心は、悲しみと、寂しさと、苦しみと、痛みに苛まれている。

 それを救うことができるのは、神ではない。

 あなたに憧れ、多くの時間を共有した私だけが、あなたを救うことができる。

 だから、私は、せいいっぱい、手を差し伸ばして、

 あなたに、届くように。

「クリス様は、色々なことを教えてくださいました。歴史、地理、法律、政治、フランス語、ドイツ語、科学、数学、そして、神学。話が難しくて、分からないこともあったけれど、クリス様とお話をするのは、とても楽しいことでした」

 ひとつひとつ、言葉を紡ぐ。

 たとえ、とりとめのないものでも。

 私の気持ちを伝えるために。

「クリス様は、私の生きがいでした」

 クリス様は、あくまで静かに私を見つめる。

「思えば、私は、世話役のお仕事を仰せつかる前から、クリス様のことばかりを見ていました。かわいらしく、美しく、聡明で、高潔で、まるで、おとぎ話に登場するお姫様のようだと、思っていました。私は、かわいくも、美しくも、賢くも、高潔でもありません。でも、クリス様を見ていれば、自分もそのようになったような気がして。それで、嬉しかったんだと思います。だから、世話役に任じられたときは、本当に嬉しかったです。私は、難しい話は分からないし、クリス様ほど高邁な精神を持っているわけではございません。でも、クリス様の語る言葉は、きっと、とても素晴らしいものなのだろうと、思いました。それに、クリス様が話されるお姿はとても楽しそうでした。だから、見ているだけで、こちらまで楽しくなるようでした。いつも、いつも、私は、クリス様のことばかりを見てきました。クリス様のことばかりを考えてきました。クリス様にお仕えすることは、私の喜びであり、私の誇りでもありました」

「何が言いたいの」

「クリス様」

 私は、クリス様の瞳を、じっと見つめる。

「私は、クリス様が好きです」

「何ですって?」

「それだけで、あなたには、生まれた意味があったのです。だって、あなたのお陰で、私はこんなにも幸せになれたのだから!」

 そう言って、私は立ち上がる。

 そして、クリス様を抱きしめた。

「クリス様」

 聡明で、美しく、いつも誇り高い振る舞いをしていたクリス様。

 優しく、慈悲深く、しかしどこか憂いを秘めていたクリス様。

 確かに、生まれることを望んだわけではなかったのかもしれない。

 確かに、女であることを願ったわけではなかったのかもしれない。

 それでも、そのいのちに意味がなかったなど、誰にも言えようはずがない。

 だって、

 クリス様は、私に多くの幸せを与えてくれたのだから。

 それだけで、そのいのちには、十分すぎるほどの価値がある。

 だって、クリス様は、ひとりしか居ないのだから。

 ひとりを幸せにできれば、それだけで。

「生まれてくれて、ありがとうございます」

 強い意思を込めて、私は言う。

「生きていてくれて、ありがとうございます」

 強い力を込めて、その体を抱く。

 離さないように、逃さないように。

 今度は、絶対に、あなたを救ってみせる。

 だって、それが、私の使命なのだから。

「メアリ……」

 クリス様は、泣いた。

 私は、クリス様が涙されるところを、初めて見た。

 とめどなく、果てしなく、クリス様は泣いた。

 泣いて、泣いて、泣きわめいて、涙が枯れるまで、泣き続けた。

 それを、私は、ずっと、ずっと、優しく、愛しく、抱きしめ続けた。

「ありがとう」

 ――私のメアリ。


 私は誓った。

 いつまでも、クリス様のそばに居ることを。

 いつまでも、クリス様にお仕えすることを。

 だって、クリス様は、私の幸せなのだから。

 きっと、彼女となら、夜も怖くない。




Fin.

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血の中傷 Athanasius @V_Athanasius

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