第5話 束縛と自由 前編

 空には澄んだ青空が広がっていました。五月晴れです。


 ほんの少し肌寒い、でも爽やかな風を受けながらワタクシは部活棟の屋上でが来るのを待っていました。


 『これはご信用だよ』と言われ“あの人”から受け取った短刀を背に隠し、今か今かと待ちわびます。


「そうでしたわ……あれも食べておきましょう」


 あの人――ゆいさんからもらったもう1つのもの。お菓子。


 小粒の白い錠菓を口に入れ噛み砕くと得も言われぬ清涼感が口いっぱいに広がります。


 ――はじめて食べたときはものすごい衝撃的で驚きましたのに。


 今ではそれにも慣れていました。


 ただこの清涼感は何度味わっても気持ちのいいものです。


 まるで天にも登るような気分になります。


「いけませんわ……今は気を失うわけには」


 ワタクシはこのお菓子を口にするといつも気を失うように眠っていました。しかし、今回ばかりはそうはいきません


 これから対峙する相手はワタクシのなのですから。


 飛びそうになる意識を必死でつなぎとめます。


 そこへ……


 彼女がやってきたのです――


 ……………………


 …………


 ――なぜですの!? ――どうしてですの!?


 創造つくるさんが死んだという報せが今だに信じられなかった。いいえ。正しくは信じたくありませんでした。


 いつも冷静沈着で物事を俯瞰で捉えることのできた彼。天地創造あまちつくるさん。


 ワタクシと彼はいわゆる恋仲にありました。ワタクシの親は非常に貞操を気にする質でしたので、皆の目を盗んでこっそりとお付き合いをしていました。


 ――お付き合いといいましても、やることは校内で2人の時間を作ってお話をする程度でしたが……


「どうして……ぅ……」


 自然と涙がこぼれました。


 人が亡くなって涙を流したのははじめてですわ。おばあさまが亡くなったときもワタクシは泣きませんでしたのに。


 ワタクシは彼を失ったことに対する悲しみのあまり、これから起こるであろう重大なことにまったく気が回らなかったのです。


 …………


 創造さんが亡くなったことで、疑心暗鬼になってしまわれた天地さんは万葉学園に子を通わせている親の会社に対する投資を一斉に引き上げてしまいました。


 天地家の投資が切られても、多大な投資を受けていたワタクシのお父様の会社はすぐには倒産することはありませんでした。


 収益は大きく落ち込みはしたのですが、いわゆる中流階級程度でとどまり、普通の生活には事欠かない状態でした。


 しかし、羽振りのいい生活に慣れきっていたお父様とお母様は満足いかないらしく、心の余裕が失われた2人は喧嘩ばかりするようになり、ワタクシは必然的に部屋にこもるようになりました。


 あんなにも笑顔の耐えなかった暖かな家庭は見る影もなくなっていました。


 数名いた使用人たちも、払えるものが払えなくなりそうだと皆解雇され、広い家の中にたった3人の家族だけが残りました。


 ――なんと残酷な運命なのでしょう。


 気がつけば独りになっていました。


 家でも、学園でも……


 ワタクシは悲劇のヒロインを気取るつもりはありませんが、それにしてもこれはあんまりな仕打ちではないでしょうか。


 ワタクシは現実逃避をするように街へ繰り出す機会が多くなっていきました。いつもなら友人たち――そう思っていたのはワタクシだけだったようですが――とともに優雅な時を過ごしていたのですが。


 今は独りです。


 校則で決められている、『私用の際も制服着用』のルールも破って、それとわからぬよう地味な服に身を包んで街を徘徊するワタクシ。惨めに思う反面。足の運んだことない繁華街や駅前、デパートなどはワタクシの目にはとても新鮮に映りました。


 しかしそれでも心の悲しみは完全に晴れることはありませんでした。


 願っていなくても悪いことは怒涛のように押し寄せて来たというのに、良いことは願ってもなかなか叶いません。


 …………


 その日は12月24日。クリスマスイブの夜でした。


 この時期、上納市では毎年のように雪が降ります。今年も例年のように街は薄雪うすゆきの様相となりました。


 街も綺麗にライトアップされ、雪との調和が目に鮮やかなほどでした。


 イブの夜はいつも知り合いを呼んで家で盛大なパーティーを開いていたのですが、今年はそれもありません。


「はぁ……」


 ため息は白い塊となってやがて消えていきます。


 街往く男女を見ては創造さんのことが頭をよぎります。


 ――気を紛らわすつもりが、これでは逆効果ですわね……


「はぁ……帰りましょう」


「おやおやおや? 美人にため息は似合わないね」


 うつむいていた顔を上げると、目の前には中性的な顔立ちの女性が立っていました。髪はショートで着ている黒いコートもやや男性っぽいイメージのものでしたが、若干の胸の膨らみがその人が女性であることを主張していました。それがなければ男性と間違えていたかも知れません。


「おお! やはり美人だった。――ところで、こんなところで何をしているんだい? もしかしてナンパ待ちかな?」


「――なっ!? なにをおっしゃっているんですの!? ワタクシはそんなものについていくほど軽い女ではありませんわ!」


「いやぁ、気に触ったなら謝るよ」


 そういう彼女はどこかおちゃらけた態度で、とても謝罪をする人の態度には見えません。


「謝罪は結構ですわ! ワタクシもう帰りますの!」


 キツめの言葉を投げかけ踵を返すと、いきなり腕を掴まれた。


「なんですの!? 人を呼びますわよ!!」


「いやいや。もし歩いて帰るつもりなら危険だからやめたほうがいいよ」


「危険? ワタクシは家から歩いてここまで来たんですの! 何も問題ありませんでしたわ!」


「行きはよいよい帰りは怖いって言うだろ? もしキミが嫌でなければ送るよ。ボクと歩いていれば少なくとも男は寄り付かないはずさ」


 その発言は自分が男性にも見えることを自覚してのものでしょうか。だから一緒に歩いていれば男は寄り付かなくなると?


 申し出は親切心からくるものなのでしょうけど、逆を言えばワタクシが男性と一緒に歩いているようにも見えるということ、そんなところをクラスメイトに見られでもしたらどんな噂を流されるかわかったものではありません。


 今以上に自分の立場が悪くなるのはなんとしても避けたいワタクシは「結構ですわ」と断りを入れ逃げるようにその場を去った。


 ……そしてすぐにそのことを後悔することになりました。


「ね、今1人だよね? これから俺と遊びいかない? せっかくのイブの夜だし楽しいことしようぜ?」


 人生ではじめてナンパというものを受けました。


 ――なんですの。この品のない方は。


 万葉学園に通う男子学生とは天と地ほどの差もあり、迷惑よりも腹立たしさのほうが上を行きます。


「なってませんわね。殿方なら女性をエスコートする際の身なりと言葉にもっと気をつけるべきですわ」


「は?」


「いいですか? 女性に声を掛けるときはもっと真摯に――」


「いいからいいから。サテンでも行ってゆっくり話そう! 外は寒いしね。ああ金の心配はいらないよ。俺がおごるからさ」


「ちょっと、なんですの!?」


「あ? サテンって言っても下着じゃないぜ。喫茶店のことな」


「下着ですって!?」


 ――なんて下品な!!


 この様な人間とは一分一秒でも一緒にいたくはないと逃げようとするワタクシ。しかし、ナンパ男はワタクシの肩を抱くようにして無理やり歩みを進めようとします。


「ワタクシ未成年ですのよ?」


「未成年!? ラッキー……じゃなくて、ダイジョブダイジョブー。俺未成年でも気にしないよ」


 ――正気ですの!?


 と、身の危険を感じるワタクシの耳に、


「気にしなきゃダメだろキィィィィィック!!」


 突然、背後からそんな叫び声が聞こえてきたのです。


「ぐほあっ!!」


 ナンパ男は顔から地面に倒れました。背中にくっきりと靴跡ができていていました。


「大丈夫かい?」


 蹴飛ばした男性をそのままにワタクシを気遣ってくれるその人は、先程の女性でした。


 地面に突っ伏したナンパ男は体を起こすと、「なんだよ! 男連れかよ!」と舌打ちしてどこかへと去っていきました。どうやら彼女を男と勘違いしたようです。


 一応助けてもらった(?)お礼にワタクシはゆいと名乗った女性――年齢は28歳だそうです――と一緒に食事をすることになりました。


 無駄な出費ができるような立場ではなくなってしまいましたが、それでも礼節だけは失ってはいけませんからね。


 やってきたのは大衆向けのファストフード店。イブの夜ということもあって、店にはほとんどお客さんの姿がありませんでした。


「ま、未成年に高いものを奢らせるほどボクは鬼じゃないからね。じゃあ注文しようか」


「…………」


「ん? どうしたんだい?」


「いえ。ワタクシこういう店を利用するのははじめてでして。勝手がわからないんですの」


「まさか! いやそんなまさか!」


 結さんは珍獣を見るような目でワタクシを見ます。


「どうやらボクが思っている以上にキミはお嬢様のようだ」


 あと、声には出しませんでしたが、自分のことを『僕』と呼ぶ女性に会ったのもこれがはじめてです。


 ――


 タレのかかった肉を挟んだサンドイッチにかぶりつくと、甘辛い濃い味が口いっぱいに広がります。少なくともワタクシの好きな味ではありませんでした。


 苦い表情をしていたワタクシを見て結さんがアハハと笑います。


 その豪快な笑い方に自由を感じました。ワタクシの受けてきた教育の中に、女性は人前で歯を見せて笑うなというものがあります。万葉学園に通う女子は皆そう教えられます。


「ところで、キミはあんなところで何をしていたのかな? イブの夜を女の子が一人きりで出歩くなんて普通じゃないとボクは思うけど」


「それは……」


「暗い表情をすることが多いね。何か悩みでもあるのかい? 月並みなセリフだが、悩みというのは人に話すと楽になることもある」


「そ、そうですわね……」


 よく顔を合わせる友人や家族だと恥ずかしくて中々悩みを打ち明けられなかったリするのですが、結さんは所詮は今日あったばかりの他人。


 解決云々は抜きにしても自分の悩みを吐露するのもありなのかも知れないと思うことにしました。


 ワタクシは結さんにこれまでの出来事を話しました。


 創造さんのこと、親の会社のこと、離れていった友人のこと……


「――きっとバチが当たったんですわ」


「バチが当たる? キミは何かしでかしたのかい?」


「ええ……そうですわ」


 今年の4月から高等部にやってきた外部生のひとり、犬塚真理絵さん。ワタクシはなぜか彼女に対して苛立ちを感じていました。万葉学園は将来紳士淑女となる人間を教育するための学び舎で、彼女の生活態度はその理念から大きくハズレていました。


 平気で遅刻してきたり、授業中ウトウトしていたり。廊下で大きな声でほかの学生の名を呼んだりもしていました。しかも、他人を呼ぶときにちゃん付けするのです。それからポロポロと散らかしながら食事をして、口の周りを汚すたびに猪口さんの手を煩わせ――


 彼女の存在は少なからずワタクシのクラス環境に影響を与えていました。彼女の行動をみて悪い方向へと引っ張られていく生徒も目撃しています。


 あげく美術の時間に見たあの落書き……正気の沙汰とは思えませんわ。


 かと思えば文武に関しては平均以上の成績を維持していて。もうめちゃくちゃですわ!


 ワタクシの愚痴をただ黙って聞いていた結さんは一言。


「キミはその学生のことをよく見ているんだね」


 ――ああ……そうですわ……


 言われてはじめて気が付きました。 


「それはおそらく嫉妬だね。――話を聞く限りでは、その女の子は自由な生き方をしているように見えたってことだろう? 対してキミは親の敷いたレールの上を走るだけの人生を歩んできた」


 的確な意見でした。さっきワタクシが結さんに感じた印象そのものです。


 ――ワタクシは『自由』に嫉妬していたんですわ!


「窓の外に見える景色は自由に見える――」


 店の外に目を向ける結さん。外にはライトアップされた街を行き交う人達が見えます。とりわけ目立つのは男女のペア。


 ――自由であれば、誰に気兼ねなく創造さんと一緒に過ごせたのでしょうか……


 いいえ。違いますわ。


 今の環境だから創造さんと知り合えたと考えるほうが自然です。自由であったならば出会いはなかった。


「他人の芝生は青く見えるものさ。……いい機会なんじゃないかい? いっそ自由になってみては。ボクらは人間だ。一度レールを外れてもまた元のレールに戻ることができる。ちょっとくらいの寄り道がなんだ。そんなのは長い人生の中の一瞬でしかない」


「ですが……そう言われましても……」


 レールを外れろと言われてもおいそれとはいきません。むしろそれができるならとうの昔にやっています。


 結衣さんはフフフっといやらしい笑みを浮かべます。


「キミは万葉学園の生徒なんだろう? たしかあの学園の校則には『私用の際も指定の制服の着用』ってのがあったはず。でも今のキミはそれを守ってない。それってつまりキミはもう自由へ扉を開けてその一歩を踏み出したといえなくはないかな?」


「……あ……」


 結衣さんの指摘は間違っていませんでした。


「ってなわけで、これを食べてさらにもう一歩を踏み出してみないかい?」


 そう言うと、結さんはワタクシの手を取って、手のひらの上にポトっと白いラムネの駄菓子のような物を落とした。


「なんですの?」


 怪訝そうに手のひらの上のそれを見つめるワタクシに、


「ココロのおクスリさ!」


 と、片目をパチリと閉じて見せるのです。


 さすがに怪しいものと言うことはないだろうと判断したワタクシはそれを口に運んでみました。


「!? なっ――なんですのこれは!?」


 口の中が清涼感と辛味で満たされる。例えるなら、そう、歯磨き粉味の錠菓ですわ。


 戸惑うワタクシを見て結さんは声を出して笑っていました。


「あっはっは――、それをはじめて食べた人はだいたいそうなるんだよ。でもそれがそのお菓子の味さ。海外ではリラックス効果のあるお菓子として食べられているんだよ。――で、どうかな? 少しは効果あったかい?」


 舌がひりつくようにしびれ、外気が口の中に入るたびにスースーとします。


 ――本当に歯磨き粉のようですわ……


 でもたしかに、結さんの言うように荒んでいた気持ちが落ち着いていくような気がしました。あるいはそれは、お菓子のせいではなく、結さんと過ごす時間がそうさせていたのかもしれません。


 しかし、しばらくしてワタクシの体に異変が起きました。


 胸が締め付けられるような感覚に襲われ呼吸ができなくなったのです。助けを求めるように結さんに向かって手を伸ばすワタクシ。ですが、結さんはただこちらに笑顔を向けているだけでした。


 霞む視界に映るその笑顔は不敵な笑みのようにも見えました。


 それを最後にワタクシの記憶はプツリと途絶えたのです。

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