第5話 彼女の食堂

 既に辺りが暗くなる中、レンは桜木町駅近くの商店街までトボトボと戻っていった。裏通りの飲み屋街はまだまだ酔客で賑わっていたが、表の商店街はほとんど店じまいしていて、酒屋にたどり着いたときにはすでにシャッターが降ろされていた。夕食だけでも調達しようと、操の居る食堂に歩いていくと店頭売りはとっくに終わっていて、ちょうど店内の方も暖簾を下げるところだった。


「まいったな……」


 店の前でズボンのポケットに手を突っ込んで立ち尽くしていると、店内の片付けをしていた操がレンの姿を認めた途端、目と口を大きく見開いた。すぐに笑顔になり飛び出すように戸口を開いた彼女。


「来てくれたの?」

「うん」

「ごめんね。惣菜の方はおわっちゃったの! あ、食堂の方はまだ大丈夫だから、たまには中で食べて行きなよ? ね!」


 操に右腕をつかまれて、強引に店の中へ引っ張りこまれる。閉店間際の食堂には客は他に一人しかいない。レンは入り口近くの4人掛けテーブルへ通された。


「油は火落としちゃったから、いつも頼んでくれてる唐揚げは無理だよ」

「じゃあ、うーん。肉野菜炒め定食貰おうかな」

「おー!」と言いながら、操が顔を近づけて来た。

「な、なに?」

「ちゃんと日本語しゃべれるんだなぁ~って。ほら! いつも、「うん」とか「これ」とかしか言わないし、初めて名前聞いた時も「え?」とかいうから「わっちゃーねーむ」って聞いたら「レン」って……あ! あとあと! 髪が白くて顔もちょっと外人さんっぽいじゃんって……」

「少し混じって……」


 レンの答えを遮るように、操は注文をカウンターに向けて叫んだ。


「ニクテイ一丁!」

『あいよ』


 操はニコニコ顔で向き直る。 


「うふふ、冗談よ。ねぇ、帽子取って!」

「え? なんで」

「お店の中では帽子を脱ぐのがマナーだよ」


 レンは操のペースに押されて、渋々ハンチング帽を取りテーブルに置いた。


「わぁ、真っ白だね。田舎のひいばあちゃんと同じだぁ! あ、悪くとらないでね! 老けてるって意味じゃないよ!! とってもきれいって意味だかんね。あ、私、男の人に何言ってるんだ? あわわわ」


 操は両腕をバタバタ振り回して、慌てふためいた。


『お? 色気づいたのか操ちゃん! 隅に置けないねぇ』


 奥の席で新聞を読んでいた口髭の中年男がニヤニヤしながら操をからかった。


「もう、やだ! 本庄さん!! そんなんじゃないから!」

「ところで、見かけ無い顔だけど。あんちゃん何て名だい?」

「レン……」


 レンは本庄を感情のこもっていない瞳でいちべつする。

 本庄は目を細めて席を立ち、警察手帳を出してテーブルに近づいて来た。

 

「苗字は?」

「梅洲(バイス)」

「何処に住んでんだ?」


 本庄は朗らかな表情でありながら、その声には有無を言わせない語気の強さがあった。

 レンは顔を下に向け口をきつく閉じた。


「ちょっと、お店の中で職質しないでよ本庄さん! レン君怖がってるじゃない」


 操が腕を組み仁王立ちになりレンと私服警官との間に割り込んだ。それを見て、レンは操に迷惑を掛けまいと慌てて口を開く。


「黄金町の安旅館に泊まってます。日雇いしながら、ずっと続く仕事を探してます」

「ほう、そうかい。歳は幾つだ?」

「17」

「え?! 私の一つ年上なんだぁ!」

「操ちゃん、どうみてもこいつより年下だろ」

「そういうことじゃなくて! なんていうかなぁ。年齢不詳って感じじゃない?」

「そうだなぁ、後ろから見りゃ年寄り見てえだし。顔だけなら肌がまっ白で若い女みてぇだなこりゃって、それじゃ性別不詳か!」

「ねぇ、もういいでしょ?」


 操は本庄の胸板に両手を突き出して押し返そうとした。


「最後にひとつだけ!」本庄はヒョイと操をかわしてレンの左隣に座り、手袋を指さした。「手を見せてくれ」


「なんで?」下を向いたままレンが言った。

「なんか見せられない事情でもあるのか?」


 本庄が声のトーンを落としたことで、食堂の中に一瞬緊張が走った。

 レンは真顔の本庄に一瞥をくれたあと、観念して、おもむろに左手の手袋を脱いだ。


「ひゃっ!」


 操はおもわず声を漏らし、口元を両手で押さえざる負えない。


「義手なんだ」レンはぼそりと呟いた。

「こりゃ凄い。本物の手みたいだ」

「…………」

「悪かったな、最近この辺りは中毒者が多くてなぁ。注射跡を隠してるんじゃないかと思ったんだ」


 本庄は、レンの袖を捲り上げるまではせず、ばつが悪そうに自分の席に戻り新聞を手に取ると勘定を済ませ、そそくさと店を出ていった。そのころ合いを見計らったかのように、店主が定食の載ったお盆をテーブルに運んできた。


「あ、ゴメン叔父さん」

「先食べてるぞ」


 仏頂面の店主は筋張った腕でテーブルに皿を置くと、キッチンの奥に引っ込んだ。


「なんかゴメンね。まったく本庄さんったら」

「いいよ。慣れてるから」レンは視線を反らした。「爺みたいな白髪に、ガラクタの腕。こんなバケモノみたいな奴みたら、疑うのが普通さ」

「なに黄昏ちゃってるの」

「え?」


 見上げると目を細めて見つめて来る操の顔がそこにあった。


「見た目で勘違いされたって、良い人だって知ってもらえば良いじゃん」

「そんなの……」


 無理だよと呟く前に、操の言葉に遮られた。


「そんな風に自分を悪く言わないで、私はレン君が良い人だって分かってるから」

「え?」


 レンが驚きをもって見つめ返した。彼女の顔は、とても優しい目をしていた。しかし、操はパンっと両手を合わせていつもの元気な彼女に戻る。


「さぁさぁ、冷めないうちに食べちゃって」

「うん」


 少なくとも、彼女は自分を見ていてくれると理解することで元気を取り戻したレンは、がっつく様に肉野菜炒め定食をかき込み始めた。


「もう、どんだけお腹すかせてたの!」

「あっ!」

「どうしたの?」

「オーパに酒を買って行かなくちゃならないんだ!」

「オーパって?」

「ああ、ええと、お爺さんの事だよ。お爺さんと一緒に住んでるんだ」

「そうなんだ! 変わった名前なんだね。そのオーパさんは、どんな人なの?」

「飲んだくれ」


 レンは明るく答えた。


「え?」

「オーパは酒がガソリンなんだ。酒が無いとエンストしちゃう」

「ぷぷっ」操はたまらず吹きだした。「ごめん、笑いごとじゃないのに、もう、変な例え使うんだもん! でも体に悪いでしょ?」

「戦争が終わってからずっと一緒だけど、最初から爺で、最初から飲んだくれだったから分かんない。でも、オーパは天才なんだよ。凄い博士で、この腕もオーパが作ってくれたんだ。あ! ナイショにしなくちゃいけないんだった。バレたらワルモノにイタズラされるから、言っちゃダメなんだ。どうしよう?! お前はバカなんだから言葉に気を付けろっていつも言われていたのに。さっきも本当は左手を見せちゃダメなのに、いつもだったら逃げるんだけど。そしたら、操に会えなくなるし」


 レンは頭を掻きむしりだした。


「落ち着いてレン君! 私は誰にも言わないから。秘密にしておいてあげる。だから大丈夫だよ」

「ほんとう?」


 レンは子犬のような目で操を見つめ返した。


「約束するよ」

「わかった。でも」

「でも?」

「お酒どうしよう?」


 結局、店のおばさんに近所のバーを教えてもらい、そこで目当てのウイスキーを分けてもらうことになった。心配そうに食堂の外まで操は見送りに出てきた。


「分からなかったら戻ってきてね。まだしばらくは片付けしてるから」

「うん、ありがとう。大丈夫」

「暗いから気をつけて帰ってね」


 レンはハンチングを被り、微笑みで返事をした。しばらく進んでから、思い出したように振り返り、「また来るからー!」大きく手を振った後、夜の街へと消えていった。

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