第4話 桜木町

 貨物の引き込み線を横断し隣接する桜木町駅へ。帰宅ラッシュの人混みにまぎれて街へ出た。レンはハンチング帽を被りレインコートを脱いで小脇に抱えている。目の前は路面電車の走る大通り。その先は買い物客で賑わう戦後の闇市から発展した庶民派商店街。レンはひさしの掛かったアーケードを進み、目当ての店の少し手前で立ちどまった。

 この街に来てからほぼ毎日のように訪れている食堂兼総菜屋だ。惣菜売りの店頭ではレンと同年代くらいのお下げ髪の娘が客を相手に笑顔を振りまいたていた。彼女がこちらの方に視線を向けた気がしたレンは咄嗟に物陰に隠れた。緊張でガチガチのレンは、息が整うのしばらく待ってから店に向かった。


「はい! コロッケ5個ね。いつもありがとう!」

みさおちゃん。暑いのにあい変わらず元気ねぇ」

「やだ、菊枝さんったら! あ、肉じゃがですか? ちょっとお待ちを………」


 白のブラウスにグレーの膝下丈のプリーツスカート、白地にピンクのチェックが入ったエプロンと頭には白い三角巾。大きなクリクリした目を見開いたり細めたり、手をバタバタさせたり、全身を使って会話している子供のような溌溂が、自然と人が集まる親しみやすさを感じさせる。

 レンは活気ある店先でのやり取りを端っこに佇んで眺め、じっと待っていた。揚げ物や醤油の匂いが夕暮れ時の商店街を彩る。ようやく操がレンのいる方に目を向けて彼を見つけると、パっと目を見開いた。


「あ! 来てくれたんだねレン君」操は穏やかな笑顔をレンに向けた。

「う、うん」


 笑顔の操に対し、レンはうつむきながら答えた。


「いつものでいいかな?」

「あ、ああ。………あ!」


 懐を探っていたレンが大きな声をあげた。


「どうしたの?」

「財布忘れた」

「ふふふ。おちょっこちょいなんだぁ!」

「ま、また来るから」


 顔を真っ赤にしたレンは踵を返して駆け出した。市電の走る大通りまで出たところで立ち止まる。壁に手をつき、荒くなった呼吸を落ち着かせながら、先ほどのやり取りを思い出していた。恥ずかしさで強張った頬を両手で叩き、気持ちを入れ替えると、そのまま大通りを西へ進み、夕暮れ時の大岡川へ向かう。


 川沿いの道に出るとそこにはぎっしりと飲食店が立ち並び、ドブ川の匂いに酒とタバコの煙が混じり合う。そんな夕暮れ時の飲み屋街は酒を求める人々で溢れかえっていた。

 人混みをかき分け川沿いを上って行くと、やがて同じように建物は密集しているがどこか閑散としたドヤ街に出た。道端には打ち捨てられた狭い間口の掘っ立て小屋が並び、入り口に板が打ち付けられて入れないようになっている。通りにはゴミが散乱し、ヒロポン中毒の薄汚れた男たちが死んだ目をして座り込んでいた。

 レンは川沿いの道から右に折れてドヤ街の中にある宿へ向かった。薄暗い路地の奥に日の出屋旅館と看板の出た路地裏の煤けた木造二階建て、そこがレンたちの滞在している木賃宿だ。表の門をくぐってすぐの玄関口は白壁が所々剥げ落ちている。ギイギイうるさい階段を上って突き当りにある松の間と書かれた引き戸を開け、8畳敷きの部屋に帰り着く。


「オーパ、帰ったよ」レンは言った。


 オーパというのはお爺さんという意味のドイツ語だ。部屋に入ったレンの視線の先では、蒲団に包まってモゾモゾ動く老人のハゲ頭。


「うーん、おーぅ! あぁ――」


 老人は唸った後、蒲団から這い出して胡坐をかいた。登頂部は禿げ上がり、後頭部から耳の上にかけてチリチリした白髪が生えている。巨大な鼻と彫りの深い眉間。身長は170無い位。頭をかいて大きなあくびをした彼こそが、レンの育ての親であるユダヤ人科学者ジグムント・ヴァイス博士だ。

 彼は戦前、ドイツから日本に招かれて技術指導や大学教授をしていたのだが、本国のナチス台頭を危惧した彼は、旧陸軍の秘密研究機関に協力することを条件に帰化し、戦後もそのまま日本に居ついているのだ。

 ランニングにステテコ姿のヴァイス博士は、視点の定まらない目で宙を眺めた後、ハッとした顔をしてレンを見た。


「おおぉ! 帰っとったぁかぁ! レンよ。今日の収穫は何処じゃ?」

「これだよ。お金は無かったよ」


 レンはそう言うと、コートをひっくり返して振り、強奪してきた指輪やネックレスなどの貴金属を畳にぶちまけた。


「おーほほう! 大漁じゃったのー!」博士は身を乗り出して戦利品をかき集めた。「これだけあれば、当分ワルモノ退治はせんでも良いぞ!」


 博士はかき集めた貴金属に頬を摺り寄せ、顔を緩めた。その様子を突っ立たまま無表情で見下ろすレン。


「もう、やらない」レンは呟いた。

「なんじゃ?」


 レンの方を向かず、貴金属にジッと顔を埋めたまま博士が聞き返した。


「今日だって……、危なかったんだ。だから、普通なら一生暮らせる分あるんだから……。だから、今日を最後に盗みは……、もう……、やらない」


 言葉に詰まりながらも、レンは答えた。それを聞いた博士はゆっくり起き上がると、横に置いてあった杖を左手に持って立ち上がり、右手でレンの両頬をグイっと挿みこんだ。


「どの口が言ってるんだ!? え?! この恩知らずめが!」


 博士は右手を離すと、左手の杖でレンの体をしたたかに殴打した。レンの方は頭を抱えてしゃがみ込んだ。


「うぅ、ごめんよオーパ」

「わしがどれだけ苦労してきたか! バケモノのお前が生きてこれたのは誰のお陰じゃ!」


 続けて打ち据えられる軌道がブレて、乱雑に背中を打ち付ける。 


 ――ゴン!


 杖がレンの左腕に当った瞬間、今までと違う鈍い金属音が響いた。すると、怒りに打ち震えていた博士の顔が一瞬で青ざめた。


「腕をどうしたんじゃ? 音が変じゃぞ!」

「逃げるときに力を使ったから、それで」

「脱げ!」

「大丈夫だよ」

「いいから! グズグズしおって!」


 博士は杖を投げ捨てて飛び掛かるようにレンに手を伸ばすと、ワイシャツのボタンを無理やり外し上着を脱がしに掛った。露わになった青白い少年の肉体に左肩から生えた鈍く銀色に光る金属の集合体。その腕の形をした金属の所々に欠落した小さな隙間が出来ていた。


「可哀そうに」


 先ほどの態度とは打って変わって、愛おしそうに金属の腕を撫でる博士。その瞳には薄っすら涙すら浮かんでいた。


「筋はイカレて無いから、すぐ直さなくても」

「何を言っとるか! この腕はワシの偉大な芸術っ……技術の結晶! こんな醜い無様なままにしておけるかっ!!」


 血走った目を見開き、博士は畳に広がった貴金属の中から何本か金のネックレスを拾い集め、引きちぎってはバラバラにし、散らばった金の破片をレンの腕に出来た隙間に次々と押しこんでいった。


「金なんて贅沢だよ」

「わかっとる、応急処置じゃ! そのうち取り換えるわい」


 何処からかペンチやハンマーを取りだして小一時間修理に没頭した博士。修理し終わったレンの左腕には、所々に散らばった金色の断片が輝きを放っていた。


「あ、ありがとうオーパ」


 左腕を動かし、金色に輝くアクセントを満更でもない風に見つめながらレンは答えた。彼は、以前見たことのあるクリムトの絵みたいだなと考えていた。

 博士は額に汗をにじませて、だらしなく畳にふんぞり返り息を吐いた。


「ふー。労働したら喉が渇いたのう。おい! 酒は?」

「お金が無かったから」

「なんじゃと?」

「盗んだ中にお金が無かったんだよオーパ。最初に言っただろ。だから、お酒は買って帰れなかった」

「ばかもんがぁ! なんで財布を、現金を持っていかなかったんじゃ!」

「だって、オーパが盗みに入るときは余計なものは持っていくなって言ってたじゃん。それに、盗んだ中にお金があるだろうからそれで買ってこいって……」

「言い訳ばかり一人前になりおって!」


 博士は自身の腹巻の中に手を突っ込んで、怒りに任せてくしゃくしゃの紙幣をばら撒いた。


「さっさと買ってこんか!!」


 レンは慌てて畳に散らばった紙幣を拾い集め、ズボンのポケットに突っ込み、上半身裸のままシャツとハンチングを取って部屋から飛び出した。

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