第3話 逃走

 根岸方面から東へ逃走するスバル360は、やがて、米軍住宅が並ぶ本牧に差し掛かった。金網越しに見える広大な芝生に、ポツポツと建つ青いカマボコ屋根。まるでアメリカの道を走っているような開けた景色の中、唸るようなエンジン音が後方から聞こえてきた。ミラーに写るのは人食い鮫のように追いすがる、黒塗りの54年製キャデラック・エルドラド。


 レンはミラーから目を離すと、「リンカーンの方が良かったかなぁ」とつぶやいた。スバル360の非力な18馬力エンジンではアクセルベタ踏みでも時速80キロがやっとなのだ。

 米軍住宅を抜けると、左手にうらぶれたホテル街が見えてきた。追いつかれると踏んだ彼は、海沿いに幹線道路を進むのを諦めて左にハンドルを切る。路地の両脇には所狭しと立ち並ぶ打ち捨てられたネオンサイン付きの白亜の洋館。淫靡なよすがの残る小径を抜けると、やがて鬱蒼とした雑木林を切り開いた険しい峠道に続いていた。

 上り坂になった途端、ズルズルと速度を落とすスバル360。レンはセカンドにギアを落としながら毒づいた。


「チッ……。もっと頑張れ!」


 たちまち野太い唸りが真後ろから迫ってきた。バックミラーにキャデラックのフロントが大写しになる。このまま衝突されるかというところで、バンパーが離れていく。道が急カーブに差し掛かったのだ。レンは貧弱なタイヤを横滑りさせながらコーナーをすれすれにクリア。車体の重いキャデラックを引き離しにかかる。

 やがて道の両脇には大きな洋館が立ち並ぶ丘の上の閑静な住宅街へ。緩やかなカーブが続く稜線沿いの道になり、バックミラーの端に追いついてきたキャデラックの厳つい顔がまた覗きだした。ついには、街に降りる最後の下り坂で横に並ばれる。これで万事休すかと思われたところで、レンはフルブレーキング。なぜなら下り坂の終点に丁字路が迫り、その先は運河だったから。果たして、ブレーキの遅れたキャデラックはガードレールを突き破り、ヘドロの匂いがする堀川に頭から突っ込んでいった。


 横滑りで堀川の岸壁につけたレンは、止まった車の窓から沈んでいくキャデラックを眺めた。ドブ川に沈む車からは先ほどのチンピラが一人、這い出して屋根に登ろうとジタバタしている。こっからは安全運転でアジトへ戻ろうと思いきや、坂の上からタイヤの軋む音が聞こえてきた。

 レンは振り返り反対側の窓を見た。視線の彼方には、坂を爆走してくる水色のリンカーン・コンチネンタル・マーク2。中には先ほどのオヤジとチンピラその2。レンはアクセルを踏み込みスピードを上げる。しかしすぐ先には買い物客で賑わう元町商店街。レンは商店街入り口のゲート手前でフルブレーキングと共に右にハンドルを切った。タイヤを軋ませて暴走する車に道行く人々から悲鳴が上がる。


 車は人混みをギリギリ避けて、堀川に掛かる谷戸橋を渡った。しかし、山下町に入ると格段に交通量が増えてきた。渋滞に捕まるのを嫌ったレンは、左の脇道へ。しかしそこは、人混みや露店のひしめく中華街。クラクションを鳴らしながら、歩道の荷物を踏み越え先を急ぐ。通りは逃げ惑う人々の悲鳴と吹き飛ばされた野菜や雑貨が散らばり、逃げ出した鶏が宙を舞う。先を急ぐも目前に現れた十字路は人が溢れる大通りと交差している。どうみても突破は不可能だ。後ろには追手が迫る。


「しつこいなぁ……」


 レンは直前でサイドブレーキを引きハンドルをおもいっきり切った。後輪が悲鳴を上げながらスリップし180度反転した。通りにはゴムの焼ける臭いと共に白煙が立ち込める。視線の先には真正面から迫りくるリンカーン。それでもレンはアクセル全開で加速した。互いに譲らず、このまま正面衝突かというところで、側道に突っ込むスバル360。立てかけてあった材木に左側の車輪を乗せて、車体を浮き上がらせた。片輪走行でリンカーンの側面に天井を当てながら真横をギリギリすり抜ける。リンカーンの方は車体のデカさが災いして転回が出来ず、仕方なくバックで追いかけるハメに……。


 中華街を抜けだしたレンは、ゴシック調の高層ビルが立ち並ぶ通りを海を目指してひた走る。しかし、ホテルニューグランドに差し掛かる前で、騒ぎを聞きつけたパトカーが追手に加わった。公園通りに出ると、通りの両側からもパトカーが迫ってきた。アスファルトを掻き鳴らして車をグルグル回転させた挙句、山下公園の中へと突っ込む。後ろには5台のパトカーがついて来ていた。チンピラどものどでかいアメ車と違って、小型のパトカー――と言っても米軍払い下げのシボレーなので同じアメ車――は小回りが利く。公園内を蛇行しながら逃げるも、引き離すことがなかなか出来ない。ついには、このまま進むと公園の角というところで、左前方からくる新手のパトカーと挟み撃ちにされそうに。


「クソッ、また怒られるかな……」


 レンは毒づきながらも、左手の手袋を口で咥えて外した。そして、公園の岸壁沿いの隅に追い詰められる間際、ハンドルの上に身を乗り出して、鋼鉄の左腕でフロントガラスを突き破り、車の左すれすれに迫った街灯を掴もう手を伸ばした。

 もちろん腕の長さが足りず届かなかったのだが、左手の先から見えない紐で繋がっているかのようにレンの乗った車は街灯を軸に回転しだした。鋼鉄の腕を軋ませながら遠心力で車体はつんのめるように浮き上がり、左前方から迫っていたパトカーのパトランプを破壊しながら屋根上を掠め飛んで行った。街灯を軸に90度ターンをしたところで手を握ると、車体は紐を離したかのように、真っすぐ、しかし遠心力の残滓でクルクル回りながら吹っ飛んでいく。車は宙を体操選手のように錐揉みしながら着地し、そのまま公園の外へ。大きく湾曲した街灯の周りには、挟み撃ちにしようとしたパトカーが向かい合って立ち往生し、街灯の割れたガラス片とレンの腕からこぼれ落ちた細かな金属片が散乱していた。


 パトカーを撒いて公園通りに出たものの、待ち構えていたリンカーンがまたもや姿を現した。

 レンは通りの右側を逆走したり、路面電車とギリギリですれ違いながら一路、桜木町方面へ。本来ならば、赤レンガ倉庫で車を乗り捨てる手筈だったのだが、追手を撒いて無いのでそんなことをしても意味が無い。周囲を見渡して次の手を考えるレン。視線の先には、大型クレーンが多数そびえ立つ造船所。


「あれだ……」


 レンは作戦を変更して海沿いの線路に侵入、鉄道橋を通って桜木町駅の裏にある造船所を目指すことにした。ボロボロになったリンカーンも線路を伝って追いすがってくる。


 リンカーンに尻を突かれながら何とか線路を出て、造船所のドックに入る。辺りを見回せば無数のクレーンと、その先から伸びたワイヤーに垂れ下がる大きなフック。港の突端を目指し突っ走る。しかし、後ろから銃声が何発か響いたかと思うと、車は制御不能に陥った。左後輪をパンクさせられたのだ。大きく左に蛇行しながら岸壁に向かう。リンカーンも間近に迫る。レンはボロボロになったフロントガラスを蹴破ると、ボンネットに身を乗り出した。横並びになったリンカーンが体当たりをしてきたのと同時に飛び上がった。


「何処行きやがった?!」


 リンカーンの窓から顔を出したオヤジが辺りを見回すがレンの姿が見つからない。


「社長! 上! 上です!」

「なんだと?!」


 手下の声に空を見上げると、大型クレーンから延びるフックにレンは左手一本で掴まっていた。少なくとも10メートルは離れていたが、レンとフックはお互いが引きよせあうように空中で合流していたのだ。

 レンはまるで空中ブランコの様にクレーンから下がるワイヤーとフックを伝っていき、建造中の大型船の中へと姿を消した。ぎりぎり岸壁の手前で停車したリンカーンの中から降りてきたオヤジとチンピラは唖然として、その様子を眺めるしかなかった。

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