空港と一週間

hitoiki

空港と一週間

 珍しく晴れた六月の日曜日に、私はバスに乗って友人と空港へ出かけ、地下鉄でひとり帰ることになった。

 地下鉄に乗るのはそれが初めてで、目の不自由な方向けのチャイムが「ぽぉおおん、ぴゃああん」と響く音が空恐ろしいくらいに心細かった。数時間前、バスで海浜沿いの高速道路を走っている時には、窓の外にはそれは美しい梅雨の晴れ間の海が広がっていて、友人の多恵と「夏どうしよっか」と話を弾ませたのだった。地下鉄のチャイムに不安になったと多恵に言ったら、きっと笑われるだろう。彼女は地下鉄も高速バスもあるこの街で生まれ、私は電車どころかタクシーすら珍しい山里で生まれた。私には栗の刺を上手に足で剥くことは出来ても、地下鉄の路線図を読み解くことは難しい。なんだって、路線図って赤ちゃんがいたずらした毛糸みたいに絡まっているんだろう?

 地下鉄の構内は雨だろうが晴れだろうが、音も景色も変わらない。果たして今も外は晴れているんだろうか。なんて気のめいる乗り物だろう。地下鉄通学なんてしたら、高校受験の時期にはあっという間にノイローゼになってしまいそうだ。


 空港へ行こうと誘ってくれたのは、多恵の方からだった。まだ梅雨になる前で、気温が三十度を超えそうな暑い日だった。私たちは中学校への近道である、神社の境内の木漏れ日のなかをゆっくりと歩いていて、私はおろしたての赤いコンバースが階段の朽ち木にとられないように気を付けていた。

「藍那は空港に行ったことがある?」と多恵は私に言った。

「あるわけないじゃない、新幹線だって乗ったことないのに」私は言った。

私は多恵が持つぶどうグミの袋に手を伸ばした。多恵はいつも私の好物であるぶどうグミを買っておいてくれる。

「空港に行ってみたいと思う?」多恵は私にグミの袋を向けて言った。

「飛行機に乗ってどこかへ?」私はありがたく一ついただく。

「そうじゃなくて、空港に」

「分からないよ、空港がどんなところかもよくわかってないんだもの。どうせ多恵はあるんでしょう?北海道のおばあちゃん家に毎年行ってるもんね」

「まぁそうなんだけど」多恵は眼鏡のつるの耳に掛っている部分を指でいじった。

「眼鏡のつる、かゆいの?」

「そんなことないよ、別に耳はかゆくない」

「なんか多恵って眼鏡が似合いすぎてて一体化して神経通ってるんじゃないかって気がする」

「馬鹿ね。それで」多恵は少し頬を赤らめて空咳をした。「それでね、お父さんから空港に入っている有名な蕎麦屋さんのクーポンをもらったの」

「空港の蕎麦屋?立ち食い?」

「違うわよ、ちゃんと十割そばで桜海老のかき揚げなんかが出てくるようなところよ。すごくおいしいの」

「はえー、さいですか」

 私には十割そばがどういうものか、桜海老が高価なものなのかも分からない。多恵がおいしいというのなら、おいしいのだろう。ぶどうグミも多恵から教えてもらって好物になった。

「空港って私、好きなんだ」多恵は空を見上げた。おでこから空に向かってプロジェクターが映し出され、空港のPR映像が流れだしそうだった。「ショッピングセンターとも電車の駅ビルとも百貨店とも違う、独特な空気があるの。もちろんやってくる人たちの目的は高いお金を払って飛行機に乗る事なんだけど、待つ時間は長いし、旅行前だと気分は高まるし、当然お金にはちょっと余裕があるしで、施設が充実していることが多いの。お土産やグルメもそうだけど、飛行機の発着を見られる展望台とか、無料で飲み物を飲めて雑誌を読めるラウンジとか」

「なんか貴族のパーティーの話を聞いてる気分」

「やめてよ、じゃあ行くのやめる?」

 手を腰に当てた多恵に、私は前に慌てて両手をこすり合わせた。

「ごめん、連れてって、一番いい服着ていくから」

「かぼちゃの馬車じゃなくて空港バスになるけど、いいかしら」

「へぇ魔女さま」

「誰が魔女か」

「魔法少女さま」

「歳の問題じゃない」

 そして翌々週、私たちはよく晴れた六月の日に、空港のバスに乗った。そして夏の予定について空想ごとのように話し合った。


 空港の動く歩道に並んでみると、私たちは明らかに軽装だった。私はキャンパス地のトートバックを持ち、多恵は小さな革のバッグを肩に掛けていた。スーツを着た人やアジアっぽい外国人たちのトランクは私がかくれんぼに使えそうなほど大きい。隠れたら鍵が閉まって周りに助けを求める羽目になりそうだけど。

 エントランスへ向かって伸びる動く歩道は、歩いていないのに、そして上がったり下がったりもしないのに景色は前から後ろへ流れて行った。回転ずしのレーンで運ばれていくみたいで気分がいい。せわしなく見回している私に(やたら巨大な炭酸水のポスター、高い天井と広いガラス張り、窓から見える滑走路と飛行機の一部…)すぐ後ろで多恵が声を掛けてきた。

「歩きたいんでしょ?」

「うん。めっちゃ早く歩けそう」私が言った。

「やめてね」多恵が言った。

  

 私は多恵が空港を好きだと言った理由が分かった気がした。ごちそうになった十割そばはスマホで写真を撮るのが気恥ずかしいほど上品な店で綺麗な盛り付けだったし(もそもそしてるのにみずみずしくて、不思議な食感だった)。レストラン街の店構えのカジュアルなのに軒先のサンプルは見た目も値段も豪華なところとか、お土産屋さんや喫茶店のちょっと洒落た風情とか、天井が高くて窓が広くて開放的な作りとか、発着の予定を伝えるお姉さんの優雅なアナウンスとか。多恵も心なしいつもよりはしゃいでいたように見えたし、私はいつも通りうるさいから二人で妙にテンションが上がって、いろんな場所を探検することになった。

「多恵はキャビンアテンダントになりたいの?」私は言った。

「そんな柄じゃないよ。でも、空港で働けたら毎日気持ちよく過ごせそうね」多恵が言った。「藍那はどう?もし芹那が空港に働いていたら時折お邪魔してあげる」

「無理だって、地下鉄の路線図だって読み解けないのに。できても掃除のおばさんだよ」

「あら、空港清掃員はすごく立派な仕事よ。テレビで何度も取り上げられてるわ」

「うそばーかり」

「嘘じゃないって。私なんて、空港のトイレでぴかぴかの蛇口をみるたびに、しみじみ感動するんだもの」

「何なのそれ、笑っていい?」

「だめ」

 そんな風にして私たちはじゃれ合いながら空港をひとしきり見て回ったあとで、展望デッキに上ることにした。飛行機は遠くの滑走路で、小さく見えるサイズのわりに大きな音を立てながら、梅雨の晴れ間の空に気持ちよさそうに飛んでいった。多恵は飛行機そのものも好きらしく、いくぶん口数少なく眺めていた。ちょっと無口すぎるくらいだった。展望台では多恵の長い髪がよく揺れていて、私は大人になった多恵が空港で働く姿を想像した。なぜだかゴム手袋を嵌めた清掃員の姿で、蛇口を真剣な顔でぴかぴかに磨いている多恵が浮かんできて、私は噴き出した。それを聞いてさっきまで大人しかった多恵が突然私をからかい、突然変なスイッチが入ったみたいに元気になって、私たちは展望台のデッキの周りを小学生みたいに追いかけっこしてはしゃぎまわった。

 すっかり汗をかいてしまった後で「私ね、やってみたいことがあるんだけど」と多恵は切り出した。

「さっき空港にお風呂屋さんがあるのを見たでしょう。汗もかいちゃったし良かったら入りに行かない?」

「ほんと?じつは私も入りたいと思ってた」

「ガラス張りで飛行機が飛び立つのを見ながらお湯につかれるの」

「それって向こうから見えないの?」

「滑走路からは見えないフィルムが貼ってあるのよ」多恵は真顔で言った「それとも見せたいの?」

「お互いそんな立派なもんじゃないでしょうが」

 そんな風にして、私たちは小突き合うようにして空港の銭湯へ行った。


 入湯料は私の小遣いの半分くらいしたけれど、多恵が黙って(最初から決まってたように自然に)払ってくれた。銭湯は作りたてのコインランドリーみたいに清潔で、脱衣所はレモンっぽい良い匂いがした。服を脱いでしまうと多恵はまた口数が少なくなって、浴室に入るなり私の隣で素早く髪を洗い始めてしまった。体から洗う派の私が髪にシャンプーをつける頃には、多恵はもう髪を流していた。薄目でシャンプーを洗っていると、すぐ横で多恵が私に顔を向けている気がした。

「ね、なんかちらちら見てない」私が言った。

「見てないよ」多恵が言った。

「見てるよ」私は言った。「タダじゃないんですのよ」

「あら、お金は払いましたけど」

「立派なもんじゃないって言ってんでしょ」

 少し黙った後で「そうでもないんじゃない」と多恵は言った。

 そうして、私たちは口数少なく、お湯に浸かりながら発着する飛行機を眺めた。何となく、深夜放送でたまたま流れていた戦争映画を見ているみたいだった。


 服を着た後、私は国内線のチケットカウンターに連れられた。しばらく待っていると多恵は一人分のチケットを持って戻ってきた。

「実はね、これから北海道のお祖母ちゃんのところに行くの」

「今から?」私は周囲の人が振り向くような声で言った。「今からって、ほんとにこの後のこと?」

「一週間くらいかな、すぐに帰ってくるんだけどさ、なんとなく、見送りに来てほしくて。もちろんチケットは前から予約してたし、お父さんはもうラウンジでビール飲んで待ってる」それから、付け加えるように、小声で「黙っててごめんね」と言った。

「ほんとだよ、私一人で帰んなきゃいけないじゃん」私はおどけて言って見せた。多恵はそれで思いつめたような顔を少し緩めてくれた。

「一週間で帰ってくるんだよね」私は言った。

「そうだよ」多恵は言った。「今回は」


 私は多恵に分かりやすい乗り換え案内のスクリーンショットをスマホで送ってもらい、特急電車のチケットまで買ってもらってから、改札口で別れた。そこまでしてもらったのに地下鉄の乗り換えが分からず、結局しどろもどろに駅員に聞いて何とかホームに辿り着いた。目の不自由な方向けのチャイムが「ぽぉおおん、ぴゃああん」と響く音を聞きながら、私はすぐに多恵にLINEを送った。返事はなかなかこなかった。やきもきしながら待っていたけど、思い直して諦めた。多恵はいま飛行機に乗っているのだ。

 手持ちぶさたにスマホで天気予報を見ると、明日から一週間ずっと雨だった。多恵がいない一週間、雨に降られて一人歩く神社の近道を思った。せめてぶどうグミだけでも持っておかないとやりきれない。

 ずいぶん長くお湯に浸かっていたせいで、体はずっと火照っていた。やがてホームに地下鉄がやってきた。けたたましい音を立てながら滑り込んできた車体は、目の光る巨大なモグラみたいに見えた。

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