雨音芽衣はとにかく楽しんでほしい

 修学旅行もすでに三日目。

 クラスもグループも関係なく、場所すら問わないという自由行動の日。隣の大阪府にあるテーマパークに行く連中もいるのだから、ホテルで寝ていることすら大丈夫なのではないかと思えるほどに自由だ。もっとも、京都駅から比較的近いホテルから、嵐山のホテルへと移動になるのだからそれは不可能なのだが。

 閑話休題。

 今日一緒に回ることになっているのはクラスメイトではなく狛江さん。朝に弱い彼女に合わせて立てた予定通りにロビーへと下りると、すでに生徒の姿はほとんどなく、ぽつぽつと見えるのは他の利用者ばかりだ。

 班行動の際に班員の話に聞き耳を立てたときには、その集合時間の早さに驚かされたりもしたが、これくらいの方が彼女も気を遣わずに済むし良かったのかもしれない。


「おはよ。えっと、お待たせ」


 少し恐る恐るといった感じの声がかけられる。だが、どうにも声の主は俺の待ち人ではなさそうだ。先ほどかけられた声なんかよりも恐る恐るという言葉が似合うように、首だけを少しずつ声のした方へと向ける。


「なんてね。おはよう片倉君」

「……雨音先生、なんの用ですか」


 声の主は、先日俺たちを夜の京都へと連れ出した雨音先生。楽し気に微笑む先生の思惑は分からないが、聞いた限りではどうやら三鷹先生とも親しいらしく、俺のことは一方的に知られているらしい。


「狛江ちゃんを待ってるんでしょ。もう少ししたら来ると思うけど、それまで少し話をしない? 千代ちゃん先生が余計なこと言っちゃったみたいだし」


 纏っている柔らかな雰囲気は生まれ持ったものなのか、職業柄なのかは知らないが、終始穏やかで裏なんてないような声で話しかけてくるのだから、警戒して構えているのが莫迦らしくなってくる。


「言われたでしょ、上手くやるだとか、踏み込むだとか」


 記憶をたどれば、そういう話をこの旅行の初日にされた覚えがある。千代ちゃん先生というのはどうやら三鷹先生のことらしい。

 ええ、まあ、とだけ簡潔に頷いて言葉の続きを待つ。


「千代ちゃん先生が間違ってるって話じゃなくてね。えっと、最終的に行きつくところは一緒なんだろうけど、そんなことは考えないで良いからさ、一緒に楽しんできてねって話。いろいろ考えてるのって分かっちゃうから。せっかくの誕生日なんだし、なおさらね」


 雨音先生はそれだけ言うと、任せたと言わんばかりにこの場を後にする。誕生日だとか、いくらか気になるフレーズを残していったが、どうやら尋ねることを許してくれるわけではなさそうだ。それに、俺の待ち人も来たようだし。


「おはよ。えっと、お待たせ」


 人もほとんどいないロビーで、それでも辺りの様子を探りながら、声をかけてきた狛江さん。さきほどとまったく同じセリフだったものだから、少し驚いたが、まあ、待ち合わせの時に使うフレーズなんてそうないし偶然だろう。


「おう、じゃあ行くか」


 一昨日の夜に話したことから変わりがなかったのなら、昨日の班行動で狛江さんは俺と同様に太秦の辺りを散策しているはず。確認がてら昨日のことを尋ねてみれば、散策場所は同じだったらしい。なんなら、班員の後ろを三歩分ほど遅れて付いていくだけだというのも同じだった。

 なるほど、確かに気を遣わずに一緒に楽しんだ方がよさそうだ。俺も狛江さんもこのままじゃ修学旅行の思い出が、雨音先生に連れ出されたのと、黙って散歩後ろを付いていっただけになってしまいそうだし。


「最初は伏見稲荷でも見に行こうかと思うんだけど、どう?」

「伏見稲荷って千本鳥居が有名なんだっけ」


 狛江さんの言葉に頷いてやれば、京都って感じだし見たいかもと嬉しい反応が返ってきた。朝は弱いと言っていたが、日の出から四時間も経てば平気なのか、多少周りを気にする様子は見られるが、よく知ったいつもの調子で振舞う狛江さん。携帯で行き方やグルメを調べてはこちらに見せてくるあたり、言われた通り一緒に楽しむことは出来そうだ。

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