狛江さんの部屋

 うっとうしく鳴る目覚ましを切って、カーテンを開ける。窓の外には澄み渡るような青空が、なんてことはない、まだ朝日が顔を出しはじめたばかりの早朝。

 なぜこんな早くに起きたのかといえば、今日から修学旅行だからだ。幸いなことに、空を覆う雲は少なく、雨が降るなんてこともなさそうだ。

 昨日の早寝など無駄だと笑わんばかりに、身体の内からあふれ続ける眠気。それをなんとかこらえて、いやに冷たい水道水で顔を軽く洗い流せば、眠気は一気に引っ込んでいく。


「あー、電話かけなきゃいけないんだっけか」


 制服に着替えながら、俺の安眠を妨害してくれた携帯を手に取る。そのまま、知ってこそいたけれど、使うことのなかった番号を入れていく。コールは何度も聞こえるが、ついに取られることなく留守電へとつながってしまう。

 制服に身を包んでからもう一度かけてみても、結果は一緒。どうやら、机の上に鎮座するカギの出番らしい。

 荷物を玄関にまとめて、カギを片手に隣の部屋の前へ。

 こんな早朝にインターホンを押すのは、若干近所迷惑な気がしないでもないが、まあ、変な展開になられても困るし、このカギだって使わない方がいい筈なのだ。

 晩秋の朝というだけあって、冷たい空気。俺と同じように目覚めたばかりのスズメたちの声だけが聞こえる。その静かさを壊すようにインターホンを押せば、人工的で無機質な音が響く。



 返事、というか、反応がないまま一分が経過。嫌だがこいつを使わなくてはいけないらしい。ゆっくりと鍵穴に差し込んで軽く回せば、カギが開いた音が聞こえる。


「おじゃましまーす」


 つぶやきのような声と共に、足を一歩踏み入れれば、甘い香りが俺を迎える。だが、一般的に想像するであろう女子の部屋とは少し乖離した物が少ない部屋。小さなローテーブルと座椅子、教科書が並んだ本棚。そして彼女が眠るベッド。クローゼットがあるとはいえ、すっきりし過ぎた部屋。


「えっと、あー、狛江さん? 朝だよ。起きないと遅刻するよ、修学旅行」


 本棚の上に飾られている写真だけが、少し異質な気もしたが、そこに目を向ける前に、うなされているようにも見える狛江さんに声をかける。身体でも揺すって起こしてやるのがいいのかもしれないが、手を伸ばすことは憚られる。

 何度か呼びかけていると、聞きなれたアラームが聞こえる。俺の携帯から出ているものではなく、この部屋に元々あったものが鳴り響いているらしい。

 けたたましく響く、その音でようやく目を開けた狛江さん。


「うー、あと少し」

「いや、そろそろ起きないと遅刻するから」


 誰に向けていたのかもわからない、寝起きのテンプレのようなセリフを吐いた狛江さんに、そうツッコミを入れれば、ゆっくりと体を起こそうとする狛江さん。だが、細い腕に支えられていた体はふらりと倒れる。

 よく見れば、顔色もそこまで良いわけではなさそうだ。


「ちょっ、大丈夫か?」

「う、うん。まあ、良くあることだから。って、なんで片倉君がここに?」

「いや、昨日の夜、起こしてやろうかって話をしたら、カギ置いてったじゃん。一応、電話してインターホンも鳴らしたんだけどな。反応なかったから」

「そっか、ごめんね」


 申し訳なさそうに謝る狛江さんの顔色はいまだに悪いままだ。


「それより、本当に大丈夫なのか?」

「うん。割と毎朝こんな感じなの。今日はちょっと早いからってのもあるんだろうけど。朝起きたときにちょっと低血圧みたいな」

「うなされてるみたいだったけど」

「変な夢見ただけで平気だから」


 触れてほしくないところだったのか、いくらか食い気味に返ってくる言葉。思うことがないわけではないが、それらは飲み込んで、薄っぺらい言葉を吐き出す。


「なるほどな。まあ、平気ならいいんだ。とりあえず、部屋で飲み物飲むくらいの時間はあるから。カギは置いてくぞ」


 そのまま狛江さんの返事も待たずに、部屋を後にする。


 居心地が悪かったというのもあるが、それ以上に、異様なほどにものが少ない部屋と白を通り過ぎて青いようにも見えた顔から目を背けろと本能がうるさかった。それを知って元の生活に戻れるのかと。

 彼女曰く複雑らしい家庭事情や尾ひれが生えて人の間を泳いでいる噂といった俺の知らない狛江さんが抱えてきる闇の部分、その片鱗に近いものだったからだろうか。まあ、なんであれ、そこに踏み込むための覚悟も出来ていなければ、そういった関係でもないのだから仕方ないだろう。

 気を紛らわすために買ってきたブラックコーヒーは、その苦さで都合よくすべてをかき消してくれるなんてこともなく、ただ、微妙な後味だけが、先ほどの光景と同じように残り続けた。

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