風邪と荒川と狛江さんと

 狛江さんが空になった土鍋を持って台所に戻ると、先ほどまで相手にされなかった八つ当たりと言わんばかりに荒川が紙を放ってきた。しかし、丸めたわけでもない紙はふわりふわりと俺らの間を力無く舞っていく。上手いこと掴める気もしないので、それが落ちるのを眺める。


「なんなんですか、笑いたければ笑ってください」


 床に付いたところで滑るように荒川の手元に戻った紙。目を合わせれば笑う気がして、顔ごと視線を背ければ弱々しいパンチと台詞が飛んできた。


「笑ったら絶対さっきの数倍の威力で殴ってくるんだろ。こんなんでも一応病人なんだから少しは優しくしてくれ」

「狛江さんに頼んだらどうです? 随分と仲も良いみたいですし」


 そう言いながら押し付けてきたのは先ほど空中を舞っていた紙。文化展で展示する物の注意書きやら予算が細々と書かれているものだ。

 さっと目を通した限りでは、部活だけでなく、クラス単位でも出展できるプチ文化祭のようになったこと以外に、大きな変更は見当たらない。明日にでも目の前の膨れっ面に秘策を披露すれば、準備はあっさりと終わりそうで一安心。


「そういえば文化展の説明会今日だったな。助かった」

「私と先輩以外はみんな幽霊部員なんですから、先輩がいないと私が行くのが決定するんです。私が書くわけじゃない締め切りが近い書類が手元に来るのって嫌なんですよ」


 ブーとでも言いたげにとがらされた口からは、関係ない文句までもがつらつらと並べられる。それでも嫌な気がしないのは、なんやかんや言いつつも懐いてくれている後輩だからだろう。


「そいつは悪かった。あー、もしかしてアレか? 今日見舞いとか言って来たのは、これ押し付けるためだったりするのか?」

「えっと……。そっ、そうですよ! 何か文句でもありますか」

「いや、わざわざ来た奴に文句を言うほど落ちぶれてないから」


 多少は心配をしてくれたのを知りつつも、少し意地の悪い質問をすれば、少し困った様子を見せる。次いで飛んできた開き直りにツッコミを入れれば、調子はあっという間に戻っていつも通り。えー、本当ですか? なんて若干ウザっこい感じで聞いてくる。しかし、それもつかの間の出来事だった。


「実際どうなんですか? 狛江さんとの時間を邪魔しちゃったわけですし」

「いや、だからだな」

「そういえばまだ狛江さんと知り合った経緯を聞いてませんでしたね」


 幾段かトーンが落とされた声で、ささやかれる言葉。気分はすっかり浮気を問い詰められる男のものだ。目も笑ってないし怖いよ、それと怖い。問い詰められるどころか、追い詰められちゃうんじゃないかってレベルまである。


「いや、アレなんだよ。イ、インセンティブ? な問題だから向こうの許可無しに話す訳にはいかないっていうかね? まあ、つまりだ、俺じゃなくて狛江さんに聞いてくれ」

「インセンティブな問題って何ですか。それを言うならセンシティブじゃないですかね。っていうか先輩おどおどし過ぎですって。さっきの意地悪な質問へのお返しですよ」

「さようですか」


 演技であんな雰囲気出せるとか天職は女優なんじゃないの? 数年後に主演女優賞とか取ったりしてても驚かないよ。


「随分と楽しそうだけど、体調は平気なの?」


 頭の悪そうなことを考えながら、話を脱線させつつ荒川と話していると、洗い物を終えた狛江さんがこちらに戻ってきた。


「おう。食べてゆっくりしてたら元気も出てきた」

「そっか。お粥が効いたんだね」

「まあ、腹減ってたからってのはあるだろうし、あながち間違いじゃないかもな」


 効いたというには、さすがに時間が経ってなさすぎる気もするが、そういうことにしておこう。そんな考えのもとに口にした台詞は、狛江さんを不満げだった表情を変えることに成功した。どうやら無事にあたりを引いたらしい。


「いや、そんなに早く効く訳ないじゃないですか」


 いつもならこれで終わりなのだが、あたりを引いたことを許さないやつが一人。お見舞いに来たとは、一撃お見舞いしてやる的な意味だったのだろうか。


「そうかな? でも雑談で体力消費させるよりかはいい気がするよ」

「そうですかね? 会話って娯楽はいい気晴らしになると思うんですよ。寝てばっかりだと、精神的に参っちゃうじゃないですか」

「でも、その雑談が仕事の話っていうのはどうなの?」


 未だに狛江さんに対して嫌悪感があるのは分かったけど、お願いだから仲良くして。というか、仲良くとまではいかずとも嚙みつかないで。言い負かされちゃうから。


 未だに言い合う二人の矛先がこちらに向く前に夢の世界へ逃げてしまおうか。

 安易な発想のもとに、コソコソと布団をかぶれば、それに気が付く狛江さん。だが、逃がさないとかそういう意図はないらしく、どうしたの? と優しい口調で問われる。

 僅かな良心が痛む気がしつつも、いや、なんか眠くなってきたから寝ようかと、と用意していた言葉を口にする。


「そっか、おやすみ」

「おう。あんまり遅くならないうちに戻れよ。荒川もな」


 二人の返事を聞いたところで、目を閉じる。

 日中寝て過ごしたから眠気は来ないかと思ったが、満腹感が眠気を導いてくれたようで一安心。襲い来る眠気に身を任せた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る