看病と邂逅

 すっかりぬるくなった冷感シートが張り替えられ、冷たさが額に帰ってきたところで目が覚めた。ある程度体調はマシになったらしく、頭の重さはだいぶ軽減されていた。


「ごめん、起こしちゃった?」


 冷感シートを張り替えてくれた狛江さんは、申し訳なさそうな顔でこちらをのぞき込んでくる。もう夕方なのか、サイズを間違えて買ったカーテンの隙間から差し込む夕日が狛江さんの透き通るような髪に反射して、茶っこい髪が輝いてみえる。


「いや、平気だ。ところで今何時だ? 朝からずっと寝てたんだけど」

「時間は4時過ぎってところだけど、朝から何も食べてないの?」

「まあ、ずっと寝てたからな」

「ふーん。食欲はある?」


 ちょうどお腹も空いており、狛江さんのお手製と味まで保証されている。その魅力的な言葉に少し食い気味に頷けば、お粥でいいよね、すぐ作るから着替えて、熱測って待ってて、と体温計を渡される。

 渡された体温計の電源を入れて脇に挟めば、ほどなくしてくぐもった電子音が響く。確認すれば37度前半といったところ。

 寝てただけにもかかわらず、朝に比べればずいぶん下がったし、やっぱり睡眠は偉大なんだなぁ、なんて思いながら体温計を片づける。



 寝間着から適当な部屋着に着替え、少しだけ見える台所で手際よく料理をしている狛江さんの後姿をぼーっと眺めていると、呼び鈴が鳴った。


「代わりに出ちゃうけど良いよね」

「多分親からの荷物だと思う」

「分かった」


 エプロン姿で玄関に向かう狛江さんの後ろ姿に、嫁さんが出来たらこんな感じなのか、なんて莫迦なことを少し考えてしまう。しかし、そんな莫迦な思考も次の瞬間、玄関から聞こえてきた声で吹っ飛んだ。


「せーんぱーい、可愛い後輩がお見舞いに来てあげ……。って狛江さん? えっ、ちょっ、えっ? ここ、先輩の部屋。何で?」

「えーっと、どちら様ですか?」


 呼び鈴を鳴らしたのは、親からの仕送り代わりの宅配便ではなく、荒川だったらしい。ところどころ聞こえる会話が気になって玄関を覗けば、玄関には何とも言い難い緊張感が走っていた。

 見なかったことにして寝てしまおうとした瞬間、荒川の目がこちらを捉えた。襲い来る寒気と、止まらない汗は風邪のせいでないことは確かだろう。



「さっきの子がたまに話に出てくる後輩ちゃん?」


 部屋にあげられた荒川が洗面所で手を洗っている間に、狛江さんがやってきて少し複雑そうな表情でそう聞いてきた。まあそうだなと肯定すれば、その表情はさらに複雑そうなものになる。


「悪い奴じゃないんだが、態度がアレだったよな。すまん」

「私は噂があるし、しょうがないよ」


 狛江さんの諦め交じりの瞳は、ここにありながら、ここじゃないどこかを見ているようだった。その姿は、俺の知るどんな絵画よりも幻想的で、儚くて、ふとすれば消えてしまいそうだった。


「それに片倉君は私の事ちゃんと見てくれるでしょ」

「まあな。そんなに長い付き合いじゃないとはいえ、そういう奴じゃないってのは分かってる」


 見惚れていた俺に不意打ちのようにしてかけられた言葉に、何とか平静を装って返せば、じゃあいいよと優しい笑みが向けられる。ついでに、洗面所から戻って来た後輩からジト目も向けられる。


「先輩、狛江さんとはどういう関係なんですか?」


 お粥を作りに狛江さんが台所に戻れば、ニコニコ笑顔に似合わない冷たい声が飛んでくる。なんでそんな冷たい声出るんだよ。


「ご近所さんとでもいえばいいか。隣が狛江さんの部屋なんだよ」

「いつからですか?」

「高校入ってからじゃないか? 話すようになったのはここ1か月とかの話だけども」

「1か月前って先輩がちょうど狛江さんの噂話を持ってきた当たりじゃないですか」


 まあそうだな、と荒川に返せば、何であんな話をわざわざしたのに関わってるんですかと吠える。すごい剣幕を俺に向けただけでは収まらないようで、台所を自分のもののように使っている狛江さんを睨みつけている。


「いや、それはだな……」


 事情を説明しようと口を開いたはいいものの、言葉を続けられない。なかなかにセンシティブな話だし、狛江さんの許可無しに話すわけにもいかないだろうというわけだ。

 口ごもってしまった結果、荒川からの疑いの目は強くなり、俺の部屋だというのに居心地の悪さは最高潮。こんなのでも病人なんだから、少しは気を使ってくれよと叫びたくなる。


「お待たせー」


 何とも言い難い空気を打破してくれたのは、エプロン姿に小さな土鍋をお盆にのせて、やって来た狛江さん。荒川との間に割って入って、ローテーブルに土鍋を置く。

 蓋がゆっくりと開けられれば、前に好きだと話した卵がゆが姿を現した。横の小皿には梅干しも添えてある。

 何とも言い難い空気のせいで食欲はすっかり削がれていたが、湯気にのってきた香りは削がれた食欲を再び掻き立てる。


「はい、口開けて」


 ふー、ふー、と冷まされたお粥がレンゲにのせられ口もとに運ばれてくる。


「いや、自分で食べられるけど」

「いいから、口開けて」


 一向に折れる気配のない狛江さん。そうこうしている間も出しの香りが食欲を掻き立てる。

 少し恥ずかしい気もするが、出汁の香りに釣られ言葉に従い口を開けば、出汁のうま味と卵の優しい味が口に広がる。卵のふわふわとした舌触りと、とろみのついた粥は、一口食べるごとに食欲をかきたて、次の一口を求めさせる。


「美味いな。お粥なんて風邪でも引かなきゃ食べないけど、これは普段も食べたいって思えるレベルだ」

「気に入ってもらえたなら良かったよ」


 そういいながら、狛江さんは次の一杯をすくって口元へと運んでくる。どうやら、食べさせてもらうことに変わりはないらしい。抵抗する気は失せ、一度も二度もそう変わらんと口を開けば、また口の中にうま味が広がる。


「ちょっ、なにやってるんですか」

「看病なんだし、食べさせてあげるのは普通だと思うし、私が作ったものだからね」


 お粥を4分の1ほどを食べたあたりで、ぼーっとしていた荒川が戻ってきていきなり吠える。しかし、狛江さんがそれを気にかける気配はなく、また口元へとお粥が運ばれてくる。

 文句を言いたげな視線は土鍋が空になるまで、俺のもとに向けられ続けた。

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