壁ドンと風邪

 目覚ましの頭に響くような音で起こされ、今日も一日が始まる。

 眠気と闘いながらも、トーストを咥えて制服に着替える。口の水分を奪っていくトーストに文句のひとつでも言いたくなるのも朝の恒例行事。飛びきらない眠気のせいか、体が少しふらつくが、コンビニでコーヒーでも買えばいい感じになるだろう。今なら、トーストのおかげで渇いたのども潤うおまけつきだ。


 支度を整えて部屋を出ると、昨日のように隣の扉も合わせて開く。出てきた狛江さんも昨日のように眠気全開。


「おはようさん」

「うん、おはよ。やっぱり早起きはしんどいね」

「……そうだな」

「そういえば、体調は平気? 昨日はくしゃみしてたし、今日は顔が若干赤い気がするけど」


 大丈夫なはずだ、と返し歩き出そうとしたところで、足がもつれてバランスが崩れる。

 とっさに壁に手をついたおかげで、地面に唇を重ねる最悪な展開は回避できた。しかし、狛江さんを巻き込んで手をついたせいで、壁ドンをしたような構図になってしまっている。


「えっ、ちょっ、何?」


 狛江さんは顔を赤らめ、目も合わせてくれない。怒っているのか、はたまた、怯えているのか。少なくとも、男子に襲われた奴にやっていいことではないことは確かだ。


「すまん、なんかふらついて」

「大丈夫? 風邪ひいてるんじゃない?」


 すぐに体勢を戻して謝れば、狛江さんは顔色を変えて俺の心配をしてくる。


「いや、大丈夫なはず」

「ほんと?」


 そう言いながらも伸ばされた手は、少しの冷たさを俺の額にもたらした。


「部屋戻って」

「え?」

「いいから。体温計持ってくるから、部屋でおとなしくしてて」


 そこまで体調が悪い気はしないのだが、その勢いに気圧される形で指示に従う。

 部屋に戻ってまもなく、体温計を持った狛江さんがやってきた。

 狛江さんが制服姿でこの部屋にいるのは珍しいな、なんて思いながら熱を測れば、体温計は38度も後半を示している。どうやら狛江さんの予想は当たっていたらしい。昨日やたらと感じていた寒気は風邪の前兆だったという訳だ。

 ひとり合点がいっていると、狛江さんが横から体温計をのぞき込んでくる。


「風邪だね。何で気づかなかったの?」

「いや、頭が重かったり、若干ふらついたりはしたけど、眠いからだろうって思ってました」


 狛江さんは先ほどの壁ドン事故の時なんかよりも怒っている感全開で、静かに燃え盛っているような物凄い気迫だ。思わず委縮して敬語になっちゃったし。


「今すぐあったかい格好に着替えて、布団に入る」

「あっ、はい」


 小さい頃、母さんに言われたような台詞を同級生に言われるものだから、少しおかしく感じる。それに合わせ少しの懐かしさを感じながら、着替えて布団にもぐれば、ようやく風邪をひいているんだと実感が湧いて、頭の痛みが増してくる。

 病は気からとはよく言ったものだと思う。だいたい状況を理解してから一気にしんどくなるし。


「とりあえず、飲み物持ってきたから。あとこれ貼って」


 手渡された冷感シートは俺の部屋にあるものではない。狛江さんが部屋から持ってきたものだろう。ありがたく受け取って額に貼ればひんやりと頭が冷やされる。


「すまん、助かった」

「いいの、いいの。で、体調の方はどんな感じ?」

「熱あるってわかった途端風邪だなって感じになった」


 それって何なのよ、と言いながら持ってきたスポーツドリンクと水にストローを挿して飲みやすいように用意してくれる狛江さん。このまま学校をさぼって看病でも始めるんじゃないか、という勢いすら感じる。


「とりあえずはこれで平気だと思うから学校に行ってくれ。俺のせいで授業を欠席扱いにされたり、休まれても困る」

「いや、でも……。何かあったら連絡してよ。学校終わったらすぐ帰ってくるから」

「移すわけにもいかんし、来ないでいいから。寝てれば治るだろ」

「自分の体調がよく分かってなかったんだから、おとなしく看病されなよ」


 それを言われると痛い。でも、仕方ないじゃないか。去年風邪ひいたときは、死を覚悟するくらいにしんどかったんだし、それと比べたら大したことないんだから。大したことになってないのは、狛江さんの手によって食生活が劇的に改善されたからだろうが。


「無理のない範囲で頼む。あと、玄関に相鍵あるから、ここ出るときと放課後来るときはそれ使ってくれ」


 返事をしなければここから動かない。そう言いたげな目でこちらを見てくる狛江さんに折れる形でそう言えば、よしと満足げに頷く狛江さん。


「うん。じゃあ、行ってきます」


 ようやく登校してくれた狛江さんを視線で見送る。それから、飲み物の横に置かれた携帯に手を伸ばす。ろくに働きもしない頭で、作り上げた文面はなかなかに酷いものかもしれないが、要点は纏めたわけだし、休むことくらいは通じるだろと荒川にメールを送る。

 そこまでやったところで、緊張の糸がほどけたように体に力が入らなくなり、襲い来る睡魔に身を任せた。

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