気まずさと約束
炊飯器が米を炊き上げたことを無機質な電子音で知らせると、それを待っていたかのように呼び鈴が鳴った。きっと狛江さんからの差し入れだろう。
最初の緊張感と警戒感はどこへやら、待ってましたと言わんばかりに扉を開けると、狛江さんがいつもとは違い何とも言い難い表情で立っている。その手にいつものタッパーは無い。なんなら彼女が差し入れに合わせて持ってくる話題すら無いようで、沈黙が玄関先を支配する。
彼女に何かがあったのは明確なのだし、何があったのかくらいは聞くべきなのかもしれない。そういえば、普通は近づかない特別棟の1階で見かけたけど、それと関係あるのか? 特別棟の1階と言えば事務室だし、転校とかの手続きとか? 事件があったところに長々いるのもあれだからってことで。
けれど、先ほど聞いたばかりの先生の言葉が脳裏を掠め、疑問はのどで突っかかっり言葉にもならない。果たして、付き合いの浅い俺が踏み込んでいいものなのかと。すっかり当たり前のように感じている夕飯の差し入れだって、ここ1週間ほどの出来事でしかないわけだし。
言葉を切り出すタイミングを見出せないままに時間だけが過ぎていく。実際には数十秒にも満たない僅かな沈黙だというのに、このままずっと続くのではないかと錯覚してしまう。
「えっと、」「あっ、あのさっ」
軽く息を吸い込んで沈黙を破ろうとすれば、見事に声が重なり思わず笑いがこぼれる。それは狛江さんも同じだったようで、場を支配していた緊張感が消えていく。
「どうしたんだ?」
「えっと、その、差し入れ迷惑だったりした?」
余計な考え事をしたせいで切り出せなかった疑問の返事は予想もしないものだった。そう思わせるような素振りをしてしまったのか、と記憶をたどるも自覚はない。
「そんなことはないぞ、助かってるし。申し訳なく思うことはあるけど。何で突然そんなことを?」
「も、申し訳なく思うってことはやっぱり」
「いや、お礼ってことで継続されてるけど、生活費圧迫してるんじゃないかってな。お礼としては十分にもらったし、そろそろ材料費くらい出させてほしいまである」
俺の言葉に目をパチクリとさせた狛江さんは、えっと、彼女さんに申し訳なくなる、とかじゃなくて? などとよくわからんことを言い出した。
「俺に彼女がいたとか初耳なんだけど、どちらさんなの?」
「えっとねー。小柄で、ショートボブの可愛い子。名前とかは知らないけど、仲良く公園で喋ってたから」
小柄でショートボブか。コンマ1秒とかからず脳裏にヒットするのは、成績に不安を感じる唯一の後輩。まあ、俺が話す女子と言えば、狛江さんか荒川だから脳内で検索する必要もないんだけど。三鷹先生は女子って歳じゃないしノーカンだ。
「あいつは部活の後輩だよ。コーヒー奢ってくれたかと思えば、ほとんど飲み終わったタイミングで、それをネタに勉強を教えるようにせがんでくるような奴だ。向こうは使い勝手のいい先輩くらいにしか思ってないだろ」
「そ、そうなんだ」
あははは、勘違いかぁと少し顔を赤らめて笑い、はぁーと息を吐く狛江さん。その姿を見ていると勘違いしそうになる。莫迦なことを考えないようにと口に出したのは、「夕飯、今日はどうするんだ? 一応、米は多めに炊いてあるが……」と、とんでもなく脈絡のないものだった。
「まだ炊飯器買い替えられてないから、貰ってもいいかな」
「はいよ」
いったん部屋に戻り、炊き立ての米を片手に狛江さんのもとへ。
「とりあえず、ご飯な。材料費の件もあるし、他にも必要なものがあれば遠慮なく言ってくれよ。さっきも言ったが、お礼にしたって貰い過ぎてるし」
「いや、でも――」
そんなことないと続くきがして、彼女の言葉を遮るように俺は口を開く。
「うちの調理器具も使いたいなら使っていいし。なんか知らんけど良いやつなんだろ?」
「ほんと?」
「ああ。なんなら、うちのキッチンごと好きに使っていいまである」
狛江さんの目の色が変わったので、少し軽口気味にそう継ぎ足せば、すごい剣幕でこちらに詰め寄ってきた。
やっぱり料理をするなら、良いものを使いたいんだろうな。この間もいかに俺の部屋の収納スペースを肥しているものたちが素晴らしいか熱く語っていたくらいだ。俺が持っていても使われることない宝の持ち腐れ状態だし、調理器具といて使われたほうが幸せだろう。
「言質取ったからね。約束だよ」
彼女の勢いに押されるままに何度か首を縦に振って頷けば、まるで子供のように指切りげんまん、と強引に小指を絡めてきた。
ほどかれた小指を見て、強引な姿勢と指切りにどこか懐かしさを感じていると、今度は狛江さんが部屋からタッパーを持ってきた。まだ温かいおかずが今日も渡される。今日は野菜たっぷりの
「これまた美味そうだな」
「ありがと。自信作なんだ」
「なるほど、そいつは楽しみだな」
二言三言交して互いに部屋に戻る。
口にした青椒肉絲は、味付けが濃すぎることなく、けれどご飯が進む、控えめに言っても美味しいものだった。さすが自信作といったところだろう。
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