狛江琴音の噂話

 俺が噂話とは何だと考えだした結果、会話が途切れた。

 先生は口を挟まない方針らしく、親しくもない二人の間には重々しい空気が流れてしまう。


「それで、お礼をしたいんですけど」


 そんな状況を打破すべく、先に口を開いたのは狛江さん。視線を下の方で右往左往させ、小さく指先を回しながらもじもじとそう言った。

 彼女の助けを呼ぶ声に応えようとしたのは事実だが、先ほど口にしたように俺が直接助けた訳じゃない。それになにより、俺は別にお礼が欲しくて助けたわけじゃない。

 思っていることをそのまま言葉にするが、それでも彼女は引き下がらない。


「でも、それだと私の気持ちが収まらなくて」


 そんなことを言われても、何かがパッと思いつくわけではない。何かないと探すように部屋を眺めていると、時計が目に入る。ここに来てからそれなりに時間が経っているようだ。荒川に行くと言ってしまった以上、顔くらい出しておきたいが、ここから解放してくれっていうのはアレだしなぁ。


「片倉もこの後は何かあるみたいだし、私もこの後は職員会議だ。連中の処分を決めなきゃならんのでな。とりあえず、一旦保留ということにしておいたらどうだ」

「えっと、じゃあそれで」

「何かあったら言ってね。これ連絡先」

「お、おう」


 連絡先の書かれたメモ帳の一頁を受け取った。いや、この場合は押し付けられたと言う方が正しいか。


「よし、じゃあ解散」

「うす」


 いつものやる気を感じないくたびれパーカーではなく、パンツスーツとセットだと思われるジャケットを羽織って職員室を後にする三鷹先生。それに続くかたちで、俺も部室棟の最果てを目指す。


 *


「先輩、やっと来ましたね」

「俺もこんな時間まで捕まる気はなかったんだ。反省文と課題はちゃんと用意してたし」

「それでこんなに長いこと捕まるんですね。何もしてなかったら、最終下校時刻まで拘束は免れないって感じですね」


 それなー、と適当に相槌を打って机に突っ伏す。

 エネルギー不足が深刻だ。果たして俺はこんな調子で総菜戦争を勝ち残ることが出来るのだろうか。それっぽく言ってみたけど、あらゆる時代あらゆる場所の英霊を召喚、使役して万能の願望機を奪い合うなんて壮大なものではなく、この地域の総菜愛用者が、割引シールが貼られた好みの総菜を奪い合うだけなんだけど。


「そういえばさ、狛江琴音って知ってるか?」

「えっ、先輩そういう人だったんですか? ドン引きです。あんまり近づかないでもらえますか。食費節約してまでそういうことをしようとしてるだなんて、汚らわしい」

「汚らわしい!? お前もうちょい先輩に対する言葉遣いをだな」

「なに先輩ぶってるんですか? 性欲魔人を慕うわけないでしょ。同じ部屋にいるだけで危機感を感じます」

「えっ、ちょっと待ってそんなヤバいの?」


 ちょっと聞こうと思っただけで、散々な言われようだ。なんだかんだ言いつつも俺を慕ってくれていると思っていた荒川が、こんなにもひどい罵声を浴びせてくるなんて。


「……先輩、ほんとに噂知らずに聞いてきたんですか?」


 警戒して平原のように穏やか胸部を腕で隠し、威嚇していた荒川は少しだけ警戒を緩め聞いてくる。


「おう。昼休みにしてた噂の話を職員室に行く途中で耳にしてな。その時に狛江琴音がどうこうとか言ってたから、聞こうと思っただけなんだが」


 もちろん嘘だ。とはいえ、当たらずとも遠からずな感じではあると思うが。


「そういうことですか。びっくりしましたよ。それによく考えたら、先輩そんなに噂知らないですもんね」


 そう思ってるなら一旦冷静になってから発言してくれない? めっちゃボロッカスに言われたんだけど。俺が常人並みの雑魚メンタルだったら、身を挺して電車止めてたかもしれないよ。俺のメンタルの強さに感謝してほしい。身を挺して止めるのは、ブレーキが壊れ線路で作業している従業員めがけ暴走している電車ではなく、現代日本で疲れ切ったサラリーマンをこれでもかとぎっしり詰めた通勤ラッシュ中の電車だ。


「まあ、説明してあげますけど、噂を鵜呑みにして狛江さんに頼んだらダメですからね。そんなことはないと思いますが、先輩が噂のことを頼みに行ったら、先輩を社会的に潰しちゃいますから」


 怖い、怖いよ。社会的に潰しちゃうって何するんだよ。想像すらする気が湧かないんだけど。


「分かったよ」

「えっと、まず狛江さんがどんな人か知ってますか?」

「知らん」

「茶髪でスタイルもいいし、顔は学園のアイドル! って感じじゃないけど整っている方です」


 先程まで会っていたのだから知っているが、ほうほうと頷いておく。


「この学校だと髪染めてる人って珍しいじゃないですか。大体チャラチャラした遊んでる人ですし。そして彼女は遅刻常習犯で、生活指導担当の先生によく呼び出されてます。さらに、身なりの良いおじさんから封筒を貰っているところが目撃されてます。そんなんで、お金を払えばそういったことが出来る、と噂が流れているみたいです」


 なるほど。俺が昨日遭遇したのは、その噂を鵜呑みにした莫迦だったのか。


 *


 その後はたっぷりと、それはもう耳に胼胝たこができるほどに、狛江琴音がいかに警戒するべき人物かという演説を聞かされた。ひと段落がついたのは最終下校時刻だった。

 お陰で今日も割引総菜が手に入らなくなったんだけど、俺は誰に文句を言えばいいんだろうか?


「先輩、拗ねないでくださいよ。私のせいでタイムセール逃したのは謝りますし、これもあげますから」

「おまえ、これコンビニで試供品とか言って配ってたやつじゃん。俺も持ってるっての。まあ、夕飯に1個だと少ないから貰うけど」


 差し出された10秒チャージなゼリー飲料を受け取る。ついでにと差し出されたブロック栄養食一袋も。ゼリー飲料2個なんて全然嬉しくないし、味もなんだか微妙そうだが、まあいいとしよう。今日の夕飯も1分とかからずで終わりそうだ。


「先輩、そのうち栄養失調で倒れそうですね」

「そう思うなら、俺が割引総菜買える時間には解放してくれよ」


 はいはい、じゃあ私こっちなので、と言って荒川は駅の方に向かってった。

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