第3幕

ふと、目が醒めた。

晴渡った青空。

部屋の窓から差し込む朝日は、眩しく自分の視界を照らしていた。

外からは、チチチ、と小鳥のさえずりが聞こえる。

絢音は、枕元にある目覚まし時計を確認する。

ただいま、午前七時過ぎ。目覚まし時計をセットした時刻よりも、少し早めに目が醒めた。

絢音はベッドから上半身を起こして、うーんと軽く伸びをした。

さて。

絢音は身体を起こし、一階の居間へと向かった。


絢音は居間のドアを開けて、

「おはよぉ〜」

と、まだ少し眠そうに挨拶をした。

「おはよう、絢音」

「おはよう。お母さん」

絢音はお母さんに挨拶を返すと、椅子に座って、いただきます、と机の上に置いてある朝ごはんを食べ始めた。

柳葉家の朝食は、どこの家庭でも出されるような至って普通なものである。

今朝は、トーストにスクランブルエッグ、サラダに鮭のムニエル、ポタージュスープに牛乳といったものだった。そんなどこにでもあるような朝食を食べ進めていると、居間に誰かが来る気配がした。

「おはよう、絢音。髪がボサボサしゃないか。しっかりと整えてから学校に行くんだぞ」

日課のジョギングを終え、シャワーを浴びて居間へと戻って来ていた長髪のこの女性こそ、絢音の姉である柳葉朱音本人なのである。

「はぁ〜い、お姉ちゃん」

絢音は、朱音の挨拶を欠伸混じりで返した。


絢音は自室に戻り、ボサボサだった髪を整え、制服を着て鞄を持ち、部屋を後にする。

「行ってきます!」

絢音は、元気にそう言って外に出た。


澄み渡る青空。

小鳥の囀り、芽吹く草木。

ポカポカとする気温。

外は、まさに春の陽気を感じさせていた。


––––––––––––––––––

正門をくぐり、昇降口へと向かう。

正門から昇降口までは少し距離がある。その間に植えてある桜や梅の木々には、今の季節に相応しいと言わんばかりに、可憐な花を咲かせていた。

昇降口で靴を脱ぎ、スリッパへと履き替える。一年生の教室は幸いなことに、校舎の一階に存在している。絢音は、自分のクラスの教室へと歩き始めた。

廊下の窓から、外の陽気な光が差し込む。

廊下からは中庭を眺めることが可能であり、樹齢十数年ともいわれている桜の木が植えられていた。

その大木に咲いている桜は、風に吹かれたその花弁だけが、美しく荘厳に宙を舞う。

その様子は、絢音たち新入生を歓迎しているようであった。

絢音は教室のドアを開け、いつものように挨拶をする。

「あ、おはよう〜!絢音」


栗色の髪。

自分の席のすぐ横で、笑顔で手を振っているポニーテールの女の子。

「おはよう!紗奈さなちゃん!」

絢音は、その子に元気に挨拶を返した。


南條紗奈。

絢音のクラスメイトにして幼馴染である。

「絢音、なんか嬉しそうな顔をしてるけど、何かいい事でもあったの?」

「実はね、高校生になってから初めての友達が出来たの!」

「それは良かったわね。私もお友達を作らないとなぁ」

「うーん……。それじゃあ紗奈、私の友達に会ってみない?」

「……え?」

紗奈は思ってもいなかった事態に、少し戸惑ってしまう。つまりは、『自分の友達に会って欲しい』という事なのであろう。

「私の友達が、三河悠希ちゃんっていうんだけど」

「つまりその、『三河悠希さん』っていう子が、絢音のお友達ってことなのよね?」

「うん、そうだよ!」

「うーん。私は別に構わないけど、今は時間は無いかも。そろそろHR 《ホームルーム》の始まる時間だし…」

「そうかぁ…残念」

「お昼の時なら時間はたっぷりあるだろうし、そこでそのお友達に会いに行くっていうのはどうかしら?」

「なるほど。それじゃあお昼に会いに行く、ということでよろしくね」

「うん、わかったわ」

二人はそんな約束を交わして、HRの開始のチャイムが鳴る前に、素早く自席に座ったのだった。

––––––––––––––––


四時間目の授業が終わり、県立御坂高校の生徒たちは、数少ない休憩時間である昼休みをそれぞれ楽しんでいた。

「やっとお昼休みになったところだし、悠希に会いに行けるよ〜!」

勿論、紗奈も絢音と同じ目的の為に昼休みを過ごす予定なのではあるが。

「そうだね。朝話していた、悠希さんに会いに行くん……だっけ?」

「そうそう!それじゃあ早速……」

「ちょっと待って。それで絢音、その悠希さんって何組にいるのか知ってるの?」

「うん、もちろん知ってるよ!隣の一組にいるんだけど」

絢音はそう言うと、紗奈は絢音の手に引かれて、自分たちの教室を後にする。

十秒後。絢音は一組の教室の後ろのドアを開けて、

「悠希っている?」

と、そう自然に言い放った。

「あ、絢音」

「悠希、お昼を一緒に食べたいんだけど、大丈夫かな?」

「うん。絢音が良いなら、私も大丈夫」

「よし、なら決まりだね!」

悠希は机に掛けてある鞄から、お弁当箱を取り出して絢音の元へと向かう。

「お待たせ、絢音」

悠希は、絢音の後ろに誰かがいる事に気がつく。

私を待っていた絢音の後ろで、少し緊張した面持ちをしている女の子は一体誰なのだろうか。

「ええと、その人は……」

「ごめんごめん。紹介するね。私の幼馴染で同じクラスの南條紗奈ちゃん」

「南條紗奈です。驚かせてしまってごめんなさい」

「いえいえ、こちらこそ」

「挨拶も済んだところで、この3人で早速お昼を一緒に食べに行こう!」

という絢音の急すぎる提案に紗奈と悠希の2人は少し戸惑ってしまうものの、悠希も紗奈も、お互いに絢音の提案を了承したのだった。

––––––––––––––


青空。

春の暖かな陽気を漂わせているのは、高校ここの屋上でも変わりなかった。

晴れた日であれば、この屋上で昼食を摂る生徒は少なくない。特に、今日のような暖かい日であれば、屋上に来る生徒の数というのは尚更増えるであろう。

そんな屋上でお昼を食べている生徒たちの中、特に屋上の端の方で、絢音たち3人はお昼ご飯を食べようとしている最中であった。

「そういえば、まだ詳しくは自己紹介をしていなかったわね。絢音の幼馴染の南條紗奈です。よろしくね」

「えぇと、1年2組の三河悠希です。絢音とは、昨日友達になったばかりだけど…よろしくお願いします」

悠希は立ち上がって、ぺこりと丁寧にお辞儀をする。

「そんなに堅苦しくしなくても良いわよ。それよりも……中々可愛いじゃない」

「そ、そうですか……?」

「そのルックスにツインテは卑怯よ…。それで、他には他には?」

「えぇと……?」

「ごめんね悠希。紗奈ちゃんって可愛い女の子を見るといつもこうだから……」

「いつもって何よいつもって。私はどんな女の子でも良いって訳じゃないのよ。特に可愛い女の子が良いのよ。あ、でもあか姉は譲れないかなぁ」

紗奈の豹変ぶりに、悠希は少し困惑してしまう。

「ストップ!悠希が困ってるからその辺にしておいてあげて」

「あ……ごめんなさい」

「いえ、お気になさらず」

「そういえば紗奈ちゃん、今日のお弁当も自分で作ったんだよね?」

「ええ、もちろん」

「紗奈さんって、料理お上手なんですね」

悠希は、紗奈のお弁当箱の中身をまじまじと見つめる。

「まぁ、親が喫茶店をやっているからその関係で少し、ね」

「そうなんですか?初耳です」

「また今度、悠希と一緒に紗奈ちゃんのお店に行っても良いかな?」

「もちろん良いに決まってるじゃない!」

会話は弾む。

3人は、お互いの好きなものや趣味などの話をしていく。その過程で、

「そういえば悠希ちゃんって、絢音と同じ部活に入るんだっけ?」

「はい、演劇部なんですけど……」

「演劇……ねぇ」

「ん?どうしたの紗奈ちゃん?」

「いや、演劇部に少し興味があって。良かったら、今日少しお邪魔しても良いかしら?」

「まだ仮入部の期間だから問題ないと思うけど……」

「一応、放課の時間に先輩方に聞いてみます」

「ありがとう悠希、助かるよ!」

–––––––––––––


一日の授業は何事も無く終わった。

まだ仮入部期間であるとはいえ、足早に部活動に向かう生徒や教室の端で放課後のことについて論じ合っている生徒たちが居たりと、それぞれの生徒が、それぞれの高校生活をエンジョイし始めていた。

そんな中。

絢音と紗奈の姿は、文化棟にある演劇部の部室にあった。

絢音たちが演劇部の部室を訪れる少し前。先に部室へと来ていた悠希は、先輩たちに昼休みでの出来事を話していた。

“演劇部に興味がある人がいる”のだと。


その結果。

南條紗奈は、予想以上の歓迎ムードで迎えられた。

「あなたが、悠希ちゃんの話していた子ね。私は部長の寺内美香。よろしくね」

「はい。南條紗奈と言います。よろしくお願いします」

「私は副部長の木野瀬詩。よろしくね。で、この緑色の髪の子が」

「た、立花みどりといいます!よろしくお願いします!」

「詩先輩に立花先輩、よろしくお願いします」

「それじゃあ早速だけど、声出し練習から始めましょうか」

「はい!」


彼女らは昇降口から文化棟の外へと出る。

文化棟の外には様々な木々が植えており、その様相は街路樹のようであった。

「先ずは声出し練習なのだけれど、言葉を一語一語はっきりと丁寧に発音していくのだけど、その時に、しっかりと腹式呼吸を忘れちゃダメよ」

「わかりました」

「はい、これは声出し練習の単語が書いてある紙ね。初めのうちは、この紙を見ながら声出しをして欲しいの」

「うわぁ…この量は」

「結構あるね」

「何度も繰り返し言っていれば自然と覚えてくるから大丈夫よ」

「絢音ちゃんたちは今回が初めてだから暫くの間はペースはゆっくりと行うけど、慣れてきたら私たちがいつもやっているペースまで上げるから、覚悟しておいてくださいね〜」

「り、了解です!」

「それじゃあ行くわよ〜。発声練習!」

せーの、という掛け声に合わせて、彼女たちは発声練習を開始する。


あえいうえおあお、かけきくけこかこ。

一音一語丁寧に。

腹筋を使って、空気を押し出す。

紙に書いてある言葉を、一つ一つしっかりと発音する。


「うんうん、初めてにしては上手いじゃない」

「まだまだなところもありますけど、練習あるのみです!」

「そうね。分からないことがあったらいつでも訊いてね」

「わかりました。ありがとうございます」

「次は“外郎売ういろううり”をやりましょうか」

「外郎売り…?」

生まれて初めて聞く言葉。

外郎売りとは一体何なのだろうか。

外郎というのを売りに行くということなのだろうか…。という事は、部活で何かを販売するってこと…⁉︎

しかし、

「滑舌練習の一つですよね?」

絢音のそんな見当違いな思い込みは、悠希の的確な一言によって見事に打破された。

「流石は悠希ちゃんね。そうよ、滑舌練習の一つなの」

「そうなんですか⁉︎てっきり何かを売りに行くのかと思いましたよ〜」

「偶然だね紗奈!私も同じ事を思ってた!」

奇遇にも、絢音だけでなく、紗奈も全く同じ事だと思っていたのであった。

「発声練習の時に配った紙の裏に外郎売りの文が載っているから、それを見ながら練習しましょう」

「了解しました!」

「それじゃあ、ゆっくり行くわね。滑舌練習!」

拙者親方と申すは––––––。

外郎売り。

享保きょうほう三年(一七一八)の正月に、二代目市川團十郎によって初演された歌舞伎の十八番おはこなのだという。

現在では、“外郎売り”といえば、その劇中に出てくる長台詞を指すことが多く、現在では、全国の演劇や俳優、アナウンサー業界では一般的な練習法となっている。

ここ御坂高校演劇部も、外郎売りを滑舌練習として採用している学校の一つである。

この外郎売りも発声練習と同様、腹式呼吸を使っている。

なので–––––

「はい、滑舌練習終了です〜」

「つ、疲れた……」

「案外キツイのね、これ」

とまぁ、こんな感じで腹筋への負担が半端ないのではあるが。

「少し休憩にしましょうか。その後は、夏大会に向けての脚本選びと試し読みをしますね」

–––––––––––––––


楽しく濃密な時間は、あっという間に過ぎていく。

発声練習に外郎売り。

脚本選びに役割の説明。

美香先輩や詩先輩、みどり先輩から教わる事はとても多くて––––––でも、どこか心躍るものだった。

今日の部活が終わる。部室の窓から外を見てみると、オレンジ色の夕焼けが鮮やかな光を発しながら、地平線の向こう側へとゆっくりと沈んでいく。

絢音たち3人は、今日一日の出来事を話しながら、それぞれの帰路へとついていった。




(続)

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