見たもの全てを、この筆に
みたか
見たもの全てを、この筆に
子どもみたいな人だ。
その男と初めて会った時、周三郎はそう思った。七歳の自分がそのように考えるなど失礼だろう、とも思ったが、周三郎の目には確かにそう映るのである。
幼名、周三郎。のちに幕末から明治にかけて、浮世絵師として活躍する
師匠である国芳の姿は、まるで無邪気な少年のように見えた。他の大人とは違う、純粋で真っ直ぐなところが、国芳にはあったのだ。
雨上がりの、ある日のこと。
周三郎は筆と紙を持って庭へ下りた。稽古をしている部屋から見える庭には、大小の水溜まりができ、ぽつ、ぽつ、と草木から雫が垂れてきている。それを見ていたら、気持ちがうずうずして、居ても立ってもいられなくなったのだ。
もしかしたら、あいつがいるかもしれない。
低い姿勢であたりを見回し、お目当てのものの前で立ち止まった。周三郎はそっとしゃがみこんで、葉っぱに乗った小さな生き物をじっと見つめては、さらさらと筆を走らせる。
「んー? 蛙か?」
国芳の声に、周三郎はこくりと頷いた。小さな手に握られた紙には、色んな角度から見た蛙が描かれている。
「こいつぁ大したもんだなぁ。周三郎の描く蛙は、まるで生きてやがるみてぇだ」
そう言いながら、国芳は周三郎の頭をガシガシと撫でた。大きくて、ごつごつして、温かい手のひら。その手のひらはいつも、筆を持つ以外では猫に奪われている。
大の猫好きの国芳は、いつもたくさんの猫と暮らしており、この時分には家に八匹もの猫がいた。そのうちの一匹は必ず国芳の懐に入って、ぬくぬくと寛いでいるのである。そして猫がにゃあんと鳴くと、よしよしと優しく撫でるのだ。
国芳の手のひらは、筆と紙と、それから猫。それらでいつも塞がっていた。
大きくて包み込まれるような手のひらに撫でられ、周三郎の心はほくほくと温かくなる。
この時だけは、師匠の手のひらが自分に向けられている。周三郎は嬉しかった。
「俺ぁ、蛙が一番好きだ」
そう言った周三郎に、国芳は慈しむような笑みを見せた。
「おう、いい絵を見つけたな」
周三郎が畳の上で絵を広げていると、国芳が上から覗きこむようにして言った。合戦の様子を参考にするための、ちょうど良い絵が見つかって、周三郎はそれをまじまじと見つめているところだった。
国芳は隣にどかっと腰を下ろして、周三郎とともに絵を眺めた。その時、国芳の懐から猫が顔を出して、いつものように、にゃぁ、と小さく鳴いた。ふわふわとした小さい頭を、国芳の厚い手のひらがよしよしと撫でる。
「周三郎。ワッチが一つ、大事なことを教えてやろう」
根っからの江戸っ子である国芳は、自分のことをワッチと言い、相手のことをメェ(お前)と呼んだ。さっぱりとして勢いのあるその喋り方は、人懐っこさを感じさせる。
こっちへ来い、と周三郎をぴったりと引き寄せた国芳は、まるで悪戯をする前の内緒話かのように、そっと囁いた。ニカニカと笑う顔が眩しくて、周三郎は目を細める。
「こういう場面を描きてえっつうなら、喧嘩を見るのが一番よ。いいか、投げ飛ばす時の身体や、手足の動きをよーく観察するんだ。もちろん、組み敷かれた奴が抵抗する様子もだぞ。それから、怒りの表情。これもしっかり覚えておくんだ」
「なんだあ? 喧嘩か!? こうしちゃいられねえ! メェも来い!」
騒ぎを聞きつけると、国芳はそう言って一目散に飛んで行ってしまう。周三郎も、小さい身体でその後を必死に追いかけた。
やっと追い付くと、国芳が野次馬の中でもみくちゃになりながら、わあわあと叫んでいるのが見えた。その目はきらきらと輝き、まるで相撲か何かを観戦しているような姿である。
その姿を見た周三郎は、ほうっと胸が熱くなり、自らも野次馬の中へ飛び込んでいった。大人の脚の間から漸く見ることができたそれは、迫力のあるものだった。
拳が飛び交い、脚を絡め、胸ぐらを掴んで押したり倒れたりしている。筋肉が盛り上がり、力がぎゅうぎゅうと込められ、砂埃が舞い、身体中が汚れている。怒りで顔が歪み、血管が浮き出て、鬼のような目が相手を捉えているのが見えた。
周三郎はその様子を、じっと頭に刻み込むように観察した。頭に焼き付けて、その手で表現するために。
その後周三郎は、国芳の素行を心配した父親によって、たった二年で画塾を辞めさせられてしまう。しかし周三郎の心の中には、国芳の言葉がぎゅっと深く刻まれていた。
「よーく、観察するんだ」
周三郎は九歳の頃、神田川で拾った生首を黙々と写生したという、驚きのエピソードを持っている。この出来事は周三郎にとって、滅多に見ることのできない生首を写生できる、大きなチャンスだったのだ。このような経験からか、暁斎の作品には、骸骨や幽霊、天国や地獄などがモチーフになっているものが多い。
国芳の教えは、のちに河鍋暁斎と名乗る頃まで、彼の中に染み付いていた。
彼は作品を完成させる時、モデルを使うことはほとんどなかったと言われている。それほどの観察力、そして記憶力は、幼少期から培っていたのだ。
暁斎は後年、国芳のことをこう語っている。師は自分を大変可愛がり、色々と苦心をして絵を教えてくれた、と。
見たもの全てを、この筆に みたか @hitomi_no_tsuki
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