第一話 月下の貴婦人 9
ラグノーの均しはひとつひとつ丁寧に行うと、個々にかかる時間が大体2分ほどになる。
残すところあと70鉢ほどであったその作業が終わるのに、そう時間は要さない。
終わってみれば時間はまだ、太陽が夕日に変わる前だった。
ちなみに片付けの際に均しで出てきたラグノーの枝葉くずは、今日はフィアネが土に戻しに行った。
リスのせっかくの楽しみを取っておくための徹底した措置である。
それこそ去年より前であったらリスは「わざわざ先生を外に生かせるなんて、大事な道具箱に触るなんて」といって恐縮していたところだろうが、もう冷静になっている今となってはそんな発想などとうにない。
それもそのはず、外に出て土を触るのが嫌ならばそもそも“花の魔女”にはなれなかっただろうし、フィアネは別に貴族であるとかではないので使っている道具も粗悪品ではないにしろリスの身に余るほど高価なものでもないというのが判明していたからだ。
もちろん、だからといってリスはフィアネも道具も雑に扱うようになった、というわけではない。
適切な距離感、扱いを身につけることができていた。
「もうそろそろ焼き上がりますか?」
コトコトコト……という音とともに、煮立てているスープからはおいしそうな香りが漂ってくる。
もう太陽も地に沈み始めている時間帯だ。
もともと貴族の別荘として作られた屋敷だからある、この地方では一般的ではない調理専用の部屋からは、夕日自体は拝めない。
ただガラス窓越しのその橙に染まっていく空の色、徐々に暗くなっていく外の様子からその事実は伝わってくる。
「うん。鍋はもう火から外しちゃおうか。器を運んでおいてもらえる?」
リスは満月を過ぎた後のよく晴れた夜にしか咲かないというその花を見るためだけに今日は泊まりだ。
そして咲くのにはまだ少し早く、先に夕食をいただくことになる。
実は昼食後に手早くタネを仕込んでありそろそろ焼きあがるらしいブロメを主食に、一緒にいただくのは塩でシンプルに味付けされたスープだ。
具材は豆とカブ、それに保存をきかせるため燻製にされていた鹿肉である。
なかなかに豪華な夕食となる。
花の方も気にはなるが焦っても仕方がないことはリスもとうにわかりきっていた。
この時代、科学が進歩してきてそれが農業にも応用されるようになってくると人々は裕福になってきたのだが、庶民の食卓への影響はそれほどなかった。
せいぜい量が増えたり酒などの嗜好品が出てくる回数が増えたりといったところだ。
その一番の理由は食品の保存技術にあった。
それこそこのころ各地に点々と形成されていった大都市でもない限り、外部から穀物以外のものを持ってくるのは困難だったのだ。
様々な食文化が花開くのはもう20年ほどは後の話である。
「今日もひとかけのブロメを食べられることに感謝を。すべての仲間に、大地に、精霊に感謝を」
まだあつあつの鍋と、今しがた焼きあがったばかりのブロメを並べると、決まりきった口上を唱えてからそれらに手を伸ばす。
スープの中の鹿肉は二人分にしては多すぎるくらいに入っている。
「今日はずいぶん贅沢ですね」
基本的に保存のきかない肉はまだこの時代では特別なことがない限り一般の食卓には出ない。
確かに燻製や塩漬けといった昔ながらの保存方法もあるにはあるのだがそれでもあまり日常の食材とは言えなかった。
「まあリスのお祝いということで、というのもあるけど。そろそろ鹿追いもするでしょう?」
「ああ、来週だって聞いてます」
「やっぱり?いつも好意でたくさんもらっちゃうからね」
鹿は羊や鶏といった家畜とは違い、畑の農作物や林野、もっとひどい場合には町の中にも迷い込んできてひとの営みを荒らしてしまう害獣としての側面もある。
そのためハンティングによる捕獲のみならず、秋には冬に備えて栄養をつけるため、そして春には冬の間の飢えを満たすため、間違えて人里に近づいてきたような個体はまとめて駆除してしまうのだ。
これを「鹿追い」と呼んでいて、春は感謝祭、秋は収穫祭とそれぞれ振舞われることになるのだが、その時のおこぼれは市場に流れる他に各家庭に配られることもある。
特に近年はシカが増えているという話を耳にするのだが、どうやらフィアネのところにはそもそも色を付けられているようだ。
「ラッキーといえばラッキーですね……」
「まあね。いつもありがたく頂いているよ」
リスは十分すぎるほど予測できていた事実を前に、あはは……と苦笑することしかできなかった。
「じゃあよく食べてるんですね」
「そうなるね。もう慣れたけど、最初なんか猪と具合が違うからどうしようかなんて思ってたけどね」
フィアネは笑いながらそう続けた。
「猪、ですか?」
それはトレーテル周辺ではあまり見かけない。
どうやら冬の寒さが過ぎるせいらしい。
たまに来るのは運が悪く迷子になってきたものくらいだ。
「そうそう。そっちばかりに慣れていたから。脂の感じが特に違うんだ」
実はリスはこの話は初耳だ。
となればフィアネはここよりもう少し南の方から来たということだろうか。
――まだ、知らないことが多い。
それはそうだ。
ほんの偶然で出会っただけで、もともとは赤の他人だったのだ。
初めのころはフィアネのことを何でも知りたくてたまらなかった。
そうすれば少しでも彼女に近づける気がしたから。
徐々に大人になり、彼女にはなることはできないことが分かっても、依然リスの強い憧れであることには変わりなかった。
だからこうやってゆっくりでもいい、少しずつフィアネのことを知れたら嬉しい、とリスは思っている。
そんなことを考えていると少し会話に間が空く。
別に常におしゃべりしながら食べている、というわけではないが、聡い魔女様はリスがなにか考え事をしていることに気が付いているご様子だった。
どうしたの?と、言葉にこそしないが表情で優しく聞いてきている。
「なんでもないですよ」
すぐ自分の世界に浸ってしまうのはリスの悪い癖だ。
すぐに思考を引き上げる。
「そう?」
フィアネにリスの考えていることが読めているのかはわからない。
どちらにせよ深追いをしてこないのはありがたい気もするし、大人の余裕があるようでリスも見習いたいと思う。
「んー、じゃあ明日も晴れてくれそうだな、って思ってました」
リスは白々しく話題を変えてみる。
それに対しフィアネはふふっ、とほほ笑んで
「うん。明日は町にも下りようかなって思ってたところ。広場のことも気にしないといけないからね」
と、合わせてくれた。
広場とはトレーテルの中心の広場の花壇のことである。
そんなに大きくはないがフィアネに管理が任されていた。
別に彼女が管理を行う必要はないのだが、町でその分のお金を出しているからフィアネの方は律義にその分の仕事をするのだ。
もともと流れ者の彼女だ。
きっと町の長をはじめ、町のひとが彼女を引き留めるためという意味合いが大きいだろうことはリスも当然気が付いている。
このひとはそんなひとだ。
「私もついていきます」
これはきっと断られない。
もとよりフィアネもそのつもりのはずだから。
もう日はとっぷりと暮れている。
満月を少し過ぎたからか、月が出るのは少し遅い。
それでも、歓喜の瞬間まではあともう、ほんの少しだった。
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