第一話 月下の貴婦人 10

 ポー、という間の抜けた音がお湯の沸いたことを知らせる。


 夕食のあと使った食器類を片付け屋内庭園に移動し、暖炉に火をつけたらついでにやかんもその火にかけておいたのだ。


 《月下の貴婦人》のプランターは外に置いているので、それを鑑賞するには外に出る必要があるのだが、もうすでに外は夜のとばりが下りておりよく冷えている。


 防寒のブランケットはすでにおそろいのものがふたりの肩にかかってはいるが、それとは別に体の内側から温めるものも用意するということらしい。


「こうやっていると眠くなってきちゃいますね」


 事前にきれいに拭いておいた丸机にだらしなく突っ伏しながらリスは言う。


 その視線の先ではフィアネがちょうどやかんを火から外したところだった。


 さっきまで勢い良く聞こえていた蒸気の音がどんどん尻すぼみになって消えていく。


「じゃあもうここで寝ちゃう?」


 くすくす、と笑いつつ言葉自体いつもの調子だが心なしかそれが、ふにゃりとしたように聞こえるのは果たしてリスの気のせいだろうか。


「そんなもったいないことはしませんよ」


 食後の満腹感。静謐の中聞こえてくるのは薪のはぜるぱちぱちという音のみ。


 ゆらゆらと燃える炎からは心地よい熱を感じる。


 そんなゆったりとした時間をふたりは過ごしていたが、なにもそれは本来の目的を忘れていたわけではなかった。


 《月下の貴婦人》は一晩の間にしか咲かないとはいえ、しぼみだすのは空が白みだしてからだという。


 だから焦る必要などない。


 最高の楽しみ方で楽しむだけなのだ。


 ことん、と音を立てて机の上にやかんが置かれた。


 リスはいままで占拠していた領域を譲ると、木彫りのマグカップがふたつと琥珀色の液体が入った瓶がそれぞれことり、ことりと置かれる。


「また……これは珍しいものを持ってきましたね……」


 液体は蒸留酒だろう。


 麦の生産が増え余剰分ができるようになって、一部は都市にもっていって貨幣に交換されたが、少なくない割合で酒類に加工されていた。


 もともと酒はこの地方の冬の寒さを乗り切るのに重要な飲み物でもあったからだ。


 その中にあっても蒸留酒は比較的最近生産法が確立されてきた、少しお高めの品である。


 手が届かないことはないが金持ちでもない限りわざわざ手を出そうとは思わない。


 その中でも今リスの目の前にあるもののようにしっかりと色のついているものは特に高級品といっていい。


 きっとこれひとつの値段で普通の家庭ならば一か月は暮らせてしまうくらいのはずだ。


「いいでしょう?」


 フィアネが椅子に座りながらこともなげに言う。


「まあ……はい。……こんなのも隠してたんですね」


「自分で買ったわけじゃなくて貰い物なんだけどね」


「そうですか……」


 リスは少し呆れながらそう言うしかなかった。


 フィアネはコルクでできた栓をキュポンと外すと、まずは自分のコップにそのとろりとした液体を注いでいった。


 満足のいく量を注ぎ終えるとリスの方に寄越してくれる。


 中身はあまり減っていない。


 小さいときから少しずつアルコールに親しんできていたリスとは違い、フィアネはあまりお酒には強くないのだ。


 彼女の手元に目を移せば、蒸留酒の入ったコップにやかんからお湯を加えていた。


 お湯で温められたことによりこの酒に独特な芳香があたりに広がっていく。


 リスもフィアネに倣い、彼女のよりかは多く注いだ蒸留酒をお湯で割っていく。


 それをそのまま口にすると口の中に熱と香りが一気に広がるようだった。


 熱いくらいの酒精が身に染みる。


「いいですね、これ」


 さすがにモノがいいだけはある。


 嫌味のない香りにまろやかな口当たりにリスもこの酒の出処の話など忘れて上機嫌になる。


「うん。もらった時『飲みやすい』って聞いてたけどその通りだね」


 どうやら相手はフィアネのことをある程度知っていてこのお酒を贈ったらしい。


 そんなものを自分も飲んじゃっていいのかとリスは一瞬思ったが、フィアネでは全部は消費できないだろうから問題ないでしょう、と勝手に結論付けた。


 一拍、二拍と置いて、身体も十分に温まったところでフィアネの方が切り出した。


「じゃあ準備も整ったし、そろそろ外に行こうか」


「はい」


 ついにご対面の時間である。



 外に出たとたん、ふっ、と強く風が吹きつけてきて思わずリスは目をつぶった。


 その目を開ける。


「うわぁ、これが……」


 欄干の裏、邸の正面側に取り付けられているプランター、《月下の貴婦人》は確かに満開だった。


 薄暗い月明かりの下、辺りが暗闇に包まれている中、その花は咲き誇っていた。


 5枚の花弁が重なり合い、ひとつひとつの花はハンドベルのような形をしている。


 そのハンドベルは裾のところでちょうどフレアスカートのように広がっている。


 自分の重さに茎が耐えられていないために、それらの口は皆揃って斜めに地面の方向を向いているのだが、そのおしとやかに頭を垂れているような様子が貴婦人というより淑女みたいだな、とも思える。


 ただ特徴的なハート形の葉や、それらを支える茎は夜闇に紛れているため目を凝らさないと見れないのだが、その陰の立役者をもってようやく咲いている、そんな様子を見るとやはり《月下の貴婦人》の方がしっくりくるものがある。


 そう、他のものをすべて覆い隠す闇夜の中、その花の様子がリスにはくっきりと見えているのだ。


 そしてフィアネにもその様子は見えているだろう。


「満月のあとでさらに晴れた夜にしか咲かないって聞いてなんでだろう、って思っていたんですけど、こういうことだったんですね」


「これじゃあ月のある夜にしか咲けないでしょう?」


 そう。


 この花は月の出ている夜にしか咲けない。


 いや、咲く意味がないの間違いか。


 その花は光っていたのである。


 見間違えではない。


 いくら元の色が白いからといってただ白いだけではこうも明るく見えることはないだろう。


 その異様なまでの明るさは、周りとの対比によってもはや眩しいくらいまである。


 どうやら光って見えるのは花弁だけらしい。


 それでも夜行性の蝶を誘うには十分らしく、いくつかの周りにひらひらと舞っているのが見える。


「この花に手をかざしてみて。ちょうど月の光を遮るみたいに」


 コップを片手にご満悦といった様子のフィアネが言う。


「あっ、暗くなった」


「月の光を受けて光っているからね」


「じゃあなおさらこの花にとって咲くのは今日みたいな日じゃないといけないですね」


曇りだったら月の光を受けることができないし、新月の日なんてもってのほかだ。


 手を離してみると、また月の光を浴びて光りだす。


 よくよく観察してみると花弁に細かくチカッチカッと光っているところがある。


 そして角度を変えてみるとまた光っているところが変わるのでそれが面白い。


「なんだか宝石みたいですね」


 キラキラと輝いているところがあって、それが地の白と合わさること、遠くから見ると光って闇の中で浮き上がって見えているのだ。


 プランターは正面の段差を挟んで左右に四つずつ。


 一つの鉢には二株植わっている。


 リスはその全てをひとつひとつ観察していった。


 それはそうだ。


 一晩の間にしか咲かないのだからしっかりと目に焼き付けておかねば損というものだから。


 リスが一通り満足して戸口の方に振り返ると、フィアネはコップに口をつけつつ、リスの方に顔を向けて手すりに体重を預けていた。


 どうやらリスが夢中で《月下の貴婦人》を観察している間、ずっとそうして見守っていたらしい。


 リスは夢中になった挙句、フィアネを冷たい中で待たせてしまったことに恥ずかしくなり、早足で彼女のもとへ戻る。


 言葉が出てこずに照れ笑いのみをしていると、フィアネの方も優しく微笑んで返してくれた。


「もういいの?」


 戻りましょうか、と声をかけようと思っていたリスは彼女のその様子を見て


「あ、やっぱりもうちょっと待ってください」


 最後にとてもいいことを思いついたのだ。


 欄干の間、段差を下り、薄暗くてその様子を今はうかがえない庭を小走りで通り抜ける。


「足元には注意してね?」


「はい、大丈夫です!」


 周りの音が少ない夜だ。大きな声を出さずとも届く。


 リスは花の小径の入り口に差し掛かったところで体ごと、さっと振り返った。


 横一列、きれいに並んだ《月下の貴婦人》は相変わらず、ぽうっと光っている。


 それらの中央には片手にコップを持った麗しの“花の魔女”が欄干にもたれて立っていた。


「やっぱり……」


 リスの思った通り。


 それはこの日の中で一番綺麗だった。



 ひとびとは寝静まったばかり。


 月もまだ昇りきっていない。


 白く輝く貴婦人たちの宴は、まだこれからだ。

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