第一話 月下の貴婦人 8
前の年にはこんな素敵なサプライズがあったのだ。
そして確かそのあと、こんな会話をしてはいなかっただろうか。
『それにしても花を咲かせるのに大切なのが日の暮れる時間、なんてこともあるんですね』
『おもしろいよね。他にも秋とか冬に咲く花で同じ仕組みなのもまだまだあるかもね』
『ここの庭にこうやって咲かせたのを植えればみんな驚きますね』
そうなれば“花の魔女”の名声もさらに高まるだろう。
『そう?でもまぁ私は季節の花が咲いている方がいいけどね』
あはは、と大笑いしてからフィアネが言う。
確かにそれはそうかもしれない。
それぞれの良さがあるのに、今だけの花があるのにわざわざ別の季節の花を持ってくる必要はないだろう。
『それもそうですか』
一応、納得はするが反対の季節の花の共演、という景色にはやはり夢がある、とリスは思う。
彼女はその奇跡を思い浮かべつつ、ふっと疑問を口にした。
『でもこれってどういう仕組み何ですか?』
その疑問はもっともだ。
なにせ相手はしゃべらない動かないの植物。
動物には考える感じるための頭があるが、目の前のユーチェリアにそんなものがあるとは思えない。
『うーん、残念ながらそれはわからないんだ』
フィアネの笑顔はすかさず少し申し訳なさそうな顔に切り替わる。
『先生でも知らないことがあるんですね』
『失望しちゃった?』
リスはすかさず否定する。
『まさか!そんなことないですよ!私より知ってることが多いのには変わりありませんし!』
事実このユーチェリアのことはこの日初めて知ったことであったのだから。
フィアネはリスのその勢いが面白かったのか、ふふっと吹き出してから
『ありがと。ありがとう。でもそんな反応されるなんて思わなくて』
またそう言って笑いだした。
リスもようやくその可笑しさに気づいてつられてしまう。
そして笑いの波がしばらくして落ち着いた後、フィアネはこんな話を切り出していたのだった。
『そういえば似たようなもので、今度は満月のあとの月が昇る夜にしか咲かない、っていう花もあるんだけど知ってる?カンデフロスっていう名前。他に《月下の貴婦人》なんてあだ名もあるものなんだけど』
そう言ったフィアネは、世界の秘密をもうひとつ教えたくてたまらない、といった笑顔だったはずだ。
『カンデフロス……。知らないです……。どういう花なんですか?』
その話が本当ならばそれはずいぶんとわがままな花だ。
『きっと見たらびっくりすると思う。わかっていることは、咲くのがちょうど春のこの時期、満月のあと、月が出るくらいに晴れた夜ということ。それに一夜限りでしか咲かない、っていうことだけなんだけどね。……話を聞くより先に、実際に見てみたいと思わない?』
実際にその目で確認することができるらしい。
もちろんここで躊躇するようなリスではない。
『はい!もちろん!』
『じゃあ来年のお楽しみだね』
それから約一年。
リスはフィアネとの関係はこの一年でまただいぶ変わったと思う。
リスはそれ以前少しフィアネに対して遠慮していた節があった。
――フィアネには自分の生活もあるのだから、その合間に好意でいろいろ教えてもらっているのだから。
そう考えて少しでも大人しくしていよう、なるべく手を煩わせないようにしよう、ということをずっと考えていた。
それがあのユーチェリアをもらった日を境に、いい意味で遠慮しなくなっていた。
疑問に思ったことは聞くし、自分でもしてみたい作業があったら申し出るようになった。
フィアネは当然のようにそれらを快く丁寧に教えてくれたので結局以前の遠慮など不要だったのだ。
もちろんそういった実務的な面だけではない。
普段の会話でもちょっとした軽口も増えて、いままではリスが厳密に師弟であろうとしていたのに対し、その日からは師弟関係ももちろんありながら、どこか少し年の離れた友人のような関係にもなっていた。
「じゃああれが……。じゃあ今日泊まりで来てって言ってたのも?」
「そう。あれが《月下の貴婦人》。一昨日は満月だったはずだからああやって言っておいても間違いはなかったでしょう?」
九日前、リスが最後にこの邸を訪ねた時にフィアネからはこう言われていたのだ。
『次は一週間過ぎてから最初に晴れた日に来てくれる?その時は泊まりでおいでよ』
言われたときは泊めてくれるなんてことが初めてだったので虚を突かれてしまい気が付けなかったが、実はあれが伏線だったわけだ。
別にラグノーの均しなんて室内作業なのでわざわざ晴れた日に行う必要もない。
それなのに次の訪問日について手の込んだ要求をしてきた。
それが今日。
つまり今年は少し早めの誕生日祝いになる。
リスの謎は解けたが疑問まで消えたわけではない。
「でも今朝見た時はまだ咲くには早いのかな、って思ったんですけど……」
「お昼はどうだった?」
フィアネの方は自信満々といったふうに聞き返してくる。
確かにリスは昼、外の作業から戻るときには《月下の貴婦人》と呼ばれるらしいあの花の様子は見ていなかった。
「でも朝はつぼみも全然小さかったのに……」
それは当然の疑問ではあった。
少し自信はなくなってきたが、それでも朝の時点ではまだつぼみは硬そうだったと記憶している。
「じゃあ実際に今見てみて」
そう言われてリスは一旦作業を止め、半信半疑ながら席を立ちドアの方へ向かった。
窓からは欄干の手すりが邪魔してギリギリ見えない。
フィアネはというとリスが身を翻すときもその余裕を崩さなかった。
こういう時には煩わしく感じる二重扉をくぐり、やっとお目当てのプランターが目に入る。
果たして……。
「本当だ……」
そのつぼみは朝とは比べ物にならないくらいに膨らんでいた。
他の株にも目をやると今にも開きだしそうな株すらある。
大きさだって朝とは違う。
朝の記憶しかなかったときは小さい花なのかな、と思ったのだがそんなことはないようだ。
これならその身の丈にしては大きめな葉と同じくらいの花を咲かせそうだ。
「まだ一日も経ってないのにすごい変化でしょう?」
いつの間にか後ろにはフィアネがいた。
どうやら自分の言っていたことが正しかったからかとても満足そうに見える。
「こんなに……。本当に今日の夜に咲いちゃいそうですね」
「うん。とてもきれいだから楽しみにしておいて」
そう言われると俄然楽しみである。
ただこのカンデフロス《月下の貴婦人》は確か夜に咲く、ということだったはずだ。
つまりはもう少し時間を待つ必要がある。
「まぁまだ満開までは時間もあるし、まずはラグノーの均しを終わらせちゃおうか」
フィアネにそう言われて、リスは今作業の途中であったことを思い出した。
「あとせっかくだから日が暮れて満開になるまで、どうなっているかを確認するのはお預けにしておこうと思うけど、どう?」
つまりはこの半日かけて膨らんだつぼみが、これから徐々に開いていく様子を見るのではなくて、すべて満開になって一番きれいに見えるときまで待ってから見よう、というフィアネの素敵な提案である。
もちろんリスに断る理由などない。
「はい!」
二人はそうして、放り出したままだった作業に戻っていった。
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