第一話 月下の貴婦人 5
いくら早春とはいえ太陽が北に昇り切る、この時間だけはどうしても窓を開けなければいけない。
「ガコンッ」
という鈍い音とともに、半分よりやや上の部分で回転が効くように壁に固定されている四ツ窓が一旦宙ぶらりんの自由になる。
それからリスが両手を広げたくらいの大きさのその窓の、下の部分を家の内側に引き込み、専用のフックでひっかけたら完了だ。
「こっち終わりましたよ」
「うん、ありがとう」
見ればフィアネの方も玄関を挟んで同じようについている窓を開け終わったところだった。
湿り気を帯びた冷たい風が肌に気持ちいい。
午後一番の暖かい日差しは、南向きに作られたこの邸自慢の屋内庭園にもれなく差し込む。
とはいえまだ冬の名残を引きずっているからか、外はまだ時折ひんやりとした風を感じる。
このため、いくら厳冬に備えた二重窓を備えているものの、暑さを覚えるほど室内の気温が上がるわけではない。
ただ日当たりの抜群なこの部屋は、家主の横暴で屋内庭園へと変貌を遂げてしまった。
そうなると冬を除いて、特に一日も折り返しの時間になってくると部屋は濃密な草花の香りに包まれてしまい……結果息苦しささえ覚えるようになるのだ。
ちなみに、いくら“花の魔女”であってもその辺の感性はしっかりと人間のものであるらしく、またリス自身もこの方策に否やはない。
「それじゃあ机動かしておきますね」
リスは窓を開け切ってからそう間を置かずに言った。
「うん、おねがい。私は道具持ってくるから」
「了解です」
そう言って早速リスは作業に取り掛かった。
屋内庭園の一角に大きく場所を取り大量に育てられているのは、この地で「ラグノー」と呼ばれ親しまれている花だ。
朝にも見かけたが、そのうちいくつかの先端にはまだ花を咲かせるには時間がかかりそうではあるが、つぼみができてきている。
一見つぼみがまだできていないようにみえるものも、おそらく今日の陽気を受けて一気に生長が進むだろう。
それが植わった鉢の方へ、丸机と椅子をずずず……と引っ張って寄せる。
これから作業台になるのだ。
「ここらへんでいいですよね?」
「うん、ありがとう。じゃあ早速始めちゃおうか」
必要な道具を持ってきたフィアネが作業開始の合図をかける。
これから行うのは一連の作業をまとめて「均し」と呼んでいるものだ。
ラグノーの切り花は、春のトレーテルの一大イベントである感謝祭の主役といっても過言ではない。
そしてフィアネの育てるラグノーはピンと伸び、一段に大きな花を咲かせるため見栄えがよく人気であり、“花の魔女のラグノー”としてもはや欠かせない存在とすらなっている。
そんな花を作り上げるのに重要な作業となってくるのがこの「均し」である。
フィアネが持ってきたのは午前に使ったようなハサミと手袋に加え、幅の狭いペーパーナイフ、それにランタンだ。
これで増えた脇芽を二、三本残して切り取り、切り口を熱した金属で焼き固めるのだ。
切り花は曲がりなくまっすぐに伸びているものの方が見た目にいい。
通常植物というものは自身の繁栄を最優先するために、葉と花を増やし、また日光を求めて広がっていく。
そうなるとどうしても茎が曲がっていくのだ。
ラグノーの茎は硬めなのが特徴である。
そのため最高の切り花を作るには、こまめに枝葉を整えて風通しをよくすることで花を咲かせる茎が湾曲していかないようにしていく必要がある。
また果実もそうである通り、花も一つの株につきすぎると栄養が分散してしまうせいか一つ一つが貧弱になってしまう。
側芽を取り払ってしまうことでこの二つのことが一度に解決できるのでこの作業はとても重要なのである。
リスも心を鬼にして取り掛かる。
フィアネが薄い金属の板のようにも見える愛用の火打石二枚をすり合わせれば、ぼうっとランタンに火がともる。
近頃は庶民も手を出せるようになった昔ながらの高級品、燃料にはアルコールが使われている。
ちなみに最近出回りだした着火燐を採用していないのは、信頼におけないから、ということらしい。
「わかっているとは思うけどやけどには気を付けてね?」
フィアネが少しからかったように言う。
「もうその話はもういいじゃないですか!」
「ふふふっ」
実はリスは数年前、この作業を初めて手伝ったときに、ランタンであぶったペーパーナイフが本当に熱くなっているのか確かめるのに直接触ってやけどを負ってしまった前科があるのだ。
アルコールの炎がどうしても強そうには見えなかったから、というのが本人の弁ではあるが、フィアネはこれ以降毎回のようにこの話を持ち出してきて、リスはそのたびに羞恥に見舞われることになるのだ。
木で作られた持ち手を持ってナイフをあぶりつつ、どこを切るかを思案する。
「花は一株に三つまでですよね……」
「そう。茎はなるべくまっすぐになるようにね」
花の魔女のラグノーが人気なのはそのかたちの良さからだ。
初めはこの花とトレーテルの感謝祭を気に入ったフィアネの道楽だったらしいが、もうすでに金銭が絡むようになっていたので手は抜けない。
リスも公平に分け前をもらってしまっているのだから慎重になるというものだ。
「あと二週間ですもんね」
「そうだね。膨らんできたつぼみはまだ早いから全部とっちゃうかな」
つぼみが出てくるとそろそろ本格的に選別にかかることになる。
リスは作業の方針を確認しつつ、それでも前年よりは丁寧に、かつすばやくめどを立てる。
ここ、と決めたところにハサミを入れた後、あらかじめ熱してあったペーパーナイフを切断面にあて、ほんの小さく「ジュッ」という音を鳴らす。
これを用意してある150余りの鉢に対してすべて行うのである。
熱で焼いてしまうのは、切ったところから病気が入らないようにするため、それとまた同じところから脇芽が伸びてこないようにするためである。
病気の予防、という点では午前薄荷水を使ったのと目的は同じだが、外の不安定な場所でランタンを使うのはあまり現実的ではないのでその時は使わなかったのだ。
万が一燃料をこぼしてそれが花に何か影響を与えたとなると本末転倒である。
そうやって二人はしばらく黙々と作業を進めていたが、それが用意してあった鉢のうち半分程度まで進んだ段階で、不意にフィアネの方からこう切り出した。
「そういえばさっきの、思い出した?」
さっきの、とはきっと昼食の時のなぞかけのことだろう。
邸のドア前の花。
リスには見覚えがないが、この先生が言うには何か心当たりがあるはずなのだが、いまだに思い出せないでいる。
「えー……、わからないです……」
それに対しフィアネはむぅ、と可愛く唸ってから言う。
「自分の誕生日のことなのに?」
「え⁉私の…?」
てっきりリスは去年の秋ごろだと思って考えていたが、なんとそれよりも前、ちょうど一年前のこの日より少し先、自分の誕生日のことだったらしい。
フィアネがせっかく喜んでもらおうとあんなに頑張ったのになぁ、とかなんとかまた仰々しく言っているのを無視して思い出す。
去年何を贈られたか。
そしてそれから……。
「あっ!」
「やっと思い出してくれたみたいね」
フィアネはリスがようやく思い出した様子にご満悦のようだった。
そう。
確かにこれは去年約束していたことだった。
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