第一話 月下の貴婦人 4
屋内庭園のテーブルの上には先ほどまで使っていた手袋とハサミを置いて、薄荷水はふたをしっかりと閉めてから元の水瓶に沈めておく。
そうしてからさらに邸を奥に進むと元は使用人の部屋だったらしい、でも二人には十分な居住空間へとつながる。
部屋の中央は長机にどっかりと占拠されており、確かに機能的ではあるが味気ないと言えば味気ない。
「このお皿、出しちゃいますね」
「ありがとう。一緒にはさむのは干しぶどうでいい?」
「はい」
リスが皿やコップを並べている間にフィアネは食事を並べていく。
昼なので食事自体は簡単だ。
フィアネ特製のブロメに、今日合わせるのは干しぶどうらしい。
この地方の主食といえばブロメだ。
この地方に限らない。
他にもベッタ、ガレ等々各地で様々な呼び方があるが、麦を主な農作物とし生活を営んでいる人々はきっと何かしらの形のブロメ――つまりは麦を挽いて粉にし、水や塩と混ぜたのちに高温で焼き上げたもの――を主食としていることだろう。
その中にあって、この地方で栽培されている麦は一般的にエント麦と呼ばれる種類である。
当然、近年の品種改良によって収量はもちろん、質も高いものになってきているが、この麦は特徴として水を吸いにくく、粉にしてそれを混ぜて焼き上げた時に若干パサつきやすいという点があげられる。
そしてこの地方の人々はこの麦を使って、外側は堅く、内側は柔らかいブロメを焼き上げるのだ。
そしてこのブロメの内側をいかに柔らかく、そして何よりもしっとりと仕上げることができるかが作り手の腕の見せ所となってくる。
特にトレーテルでは秋の収穫祭の時にその年のエント麦を使ったブロメの品評会が毎年開催されては大きく盛り上がる。
そのためトレーテルの作り手――たいていはその家の女である――はいかに柔らかくしっとりしたブロメを作り上げるかを日々試行錯誤するのだ。
それに対してフィアネの焼き上げるブロメはまるきり違う。
リスの目の前に出されたのはこの町でポピュラーな楕円のような山型ではなく、厚みはあるがペタッとしている。
なにより外側がトレーテルでよくみるものがこんがりとしているのに対し、生地の色が残っているようにもとらえられる。
実際リスも初めは生焼けなんじゃないかと思ったぐらいだ。
中身もリスが小さいころから慣れ親しんでいたものが空気をよく含んでいて、ふわっとしたものがいいとされていたのに対して、こちらのフィアネが作るのは生地が中までしっかり詰まっていて、どちらかというと固めだ。
どうやらこれが彼女の故郷のブロメ――正確にはベッタと呼ばれているものらしい。
リスも初めて食べた時は食べなれているものと違い、よく噛む必要があった。
またこれはエント麦のせいだろう、微妙に口の中の水分が奪われていく感じがなんとも違和感がぬぐえないと感じていたものだった。
ただフィアネとの付き合いが長くなってくるにしたがってこの平たいパンがリスの中で普通になってくると、むしろこっちの方が好きかもしれないと思うようになってきてすらいる。
もちろんそれはリスのあずかり知らぬところでフィアネの方でも全体的にパサつかないようにする方法を確立していったからにも他ならないのだが。
ちなみに同じ粉を使ってなぜここまで出来上がりが変わってくるのかというと生地を寝かせる時間、生地に含ませる水の量、そして焼き方のすべてに違いがあるらしい。
特に生地を焼く前、寝かせる時間について、この地方で普段食べられている形態のものはせいぜい一時間程度だが、フィアネの場合この四倍は寝かせている。
確かに大きい違いではあるが逆にこれでどうしてあんなに出来上がりが変わってくるのか、リスも気にならないわけではないが、きっとその辺りのメカニズムはそのうち科学をたしなむ者たちが解明してくれるだろう。この手の好事家とは意外といるものなのだ。
いつもそうやって焼き上げている特製のブロメに、中に食材が挟めるようにナイフで切れ込みが入れられている。
リスとフィアネはそこに干しぶどうを各自の思い思いに入れる。
ピクルスやら山桃のペースとやらレパートリーはいくつかあるが、今日のお昼はぶどうブロメといったところだ。
コップには瓶から水を注いでいく。
こちらは薄荷を漬け込んであるものだが、先ほどまで花に使っていたものとは全く違い飲水用だ。
単に、一度煮沸したとはいえまだ少し残ることのある生水独特のにおいを消すために入れられている。
ちなみに花に使っていたものは辛すぎるので飲んではいけないものである、らしい。
「今日もひとかけのブロメを食べられることに感謝を。すべての仲間に、大地に、精霊に感謝を」
食事を始める前の口上も忘れない。
ここトレーテルでの昔からの文化だ。
科学の発展とともに精霊のいたずらが否定されていっても、食べられることに対してはまだ感謝は忘れられてはいなかった。
なにせ当然食べ物は種をまき、日々世話をし、収穫し、そして調理する者がいなければ食べることなんてできないのだから。
そしてそれは決してひとりでは完結しない。
麦を育む大地にしても土をなしに麦を作ることはいまだ誰も成功していない。
それだから土の上に種をまくしかないのだが、それも天気の気まぐれだ。
干ばつや、逆に雨天続きだと実るものも実らない。
そして天を操るすべなど夢のまた夢の話だと言われている。
この邸の屋内庭園は小規模だからこそ成り立っているのであって、麦畑のようなものは作りようがない。
「そういえば先生」
「ん?どうしたの?」
「今朝から気になっていたんですけどドアの前の欄干あるじゃないですか。そこにかかってるプランターの花って私知らない気もするんですけど、あれってなんですか?」
ささやかな昼食の半分ほどがリスのお腹に収まったころ、リスはとうとうずっと気になっていたことを切り出した。
問われた側のフィアネはというと初めきょとんとした顔で、続いて何か思案……きっとこれはちょっとした悪だくみといったところだろうか、そんな表情を見せてからそのひとは
「あれ?覚えてない?」
なんてのたまうのだった。
リスの目の前にいる彼女の先生はひとをからかって遊ぶような嘘はつかない人だ。
ということはそれこそリスがすっかり忘れてしまっている何かがあるのだろう。
そろそろ花を咲かせそうだ、ということはきっと種をまいたのは去年の秋ごろだろうか。
あの程度の大きさなら花を咲かせるまで余計に年をまたぐようなものではないだろう。
となればと、そのころの出来事を必死に思い出してみる。
町やこの邸の花壇に植えるための花、その種をまいたときなにか変わり種でもあっただろうか。
それかフィアネが「面白そうな花の種を手に入れたんだ」なんて嬉しそうに話してなかっただろうか。
「えぇー。忘れちゃってるの?悲しいなぁ」
頭を抱えて必死に思い出そうとしているリスの様子が面白いらしく、フィアネはというと、覚えてくれていないらしいことを大げさに悲しみつつ、それでいてくつくつとした笑いが隠せない様子である。
そしていつの間にかあとひとかけらになっていたブロメを口の中に放り込み、きちんとコップの中身と一緒に飲み込んでから
「まぁ思い出そうと頑張ってくれているみたいだし……答え合わせはもうちょっとあとにしよっか」
とんでもないことをおっしゃってから自分の使った食器を片付けに行くのだった。
リスは心の中で「やっぱりこのひと、こういう意地悪もするひとだった」なんて訂正を入れておきながら、自分の残りのブロメをすぐにお腹に収め、憎むに憎めないそのひとの、どうにも隠しきれていないその忍び笑いを追いかけるのだった。
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