第一話 月下の貴婦人 3
花を咲かせる、それ自体は確かに難しくはないのかもしれないが、それを見た目に美しいように維持・管理するとなれば話が違ってくる。
相手は言葉を持たない、動くこともできない植物だ。
こちらから適切に管理してあげないと、当然ながらきれいなままではいてくれない。
この邸の前面に広がるささやかな花畑も、相応の手間といくつかの技術によって維持されているのだ。
「じゃあいつものように、左側お願いね」
そういってフィアネから手袋とハサミ、そして例の液体の入った瓶が手渡される。
この日は空の機嫌がよく晴れてくれたのだが、春はどうしても雨が多い季節である。
天気が雨と一言で言っても、雲の厚い日もあればそう厚くない日もあるので、雨降りの日でも案外明るいこともあったりするのだが、雨によって泥が跳ねてしまうのは地植えの植物としてどうにも防げない事態である。
そして目の前に植わっているクロッカスやビオラのような背の低い植物は、特に雨粒による跳ね返りで葉に土がつきやすいのだ。
そうやって跳ね返ってしまった土をそのままにしておくと単に見栄がよくなくなるだけではなくて、葉が使い物にならなくなったり、最悪そこが起点となって病気が広がり、植わっている花自体がダメになってしまう可能性すらある。
「あー、予想はしてましたけどやっぱりこれは大変ですね……」
きっと初めてこの庭を見る者だったら絶妙な配列で並んでいる、鮮やかで豊かな花にばかり目が行って、おそらく細かいことなど気が付かないだろう。
だがフィアネはもちろん、リスも彼女に師事してからもう数度目の春である。
可憐な花々の根元に目を向けると、前日までの天候がどのようであったか一目でわかってしまう。
「あはは……。まあ仕方ないね。いつものことでもあるから。それに特におとといの雨はすごかったからね」
「土砂降りでしたね」
今日は3日も降り続いた雨のあとだ。
特に前々日は、普段しとしと降り続くだけの雨とは違い、たたきつける雨音から降り方のその激しさがわかるくらいだった。
それだからかよく見ると、ところどころ葉に泥が飛び散っているのはもちろん、最下層の葉なんか土に埋まってしまっているようなものもある。
今から行う作業は大きくふたつだ。
ひとつめは葉に跳ね返った土がついていたなら軽く払う。
また土に埋もれてしまっている葉があれば、こちらについては可哀そうだが枝の根元から切り落とす。
病気のもとになるかもしれないからである。
もうひとつは花がら摘みだ。
要するに咲き終わってしぼみだした花をこちらも根元から切ってしまうのだ。
リスも初めはなんだかもったいないように思っていたが、これをすることによってその後の花を長くきれいに保つことができるというのは、今では理解しているのでこれも丁寧に行う。
他につきすぎたつぼみを適度に取り除いてこちらも残りのつぼみがきれいに咲けるように調整をしたら、仕上げに例の透明な液体の入った瓶を取り出す。
入っているのはフィアネ特製の薄荷水だ。
葉やしぼんでしまった花を切り取ったその断端をそのままに放置していると、いつ降るかわからない雨に降られたときには、その切断面がその花の弱点となってしまう。
つまり病気のもとを取り除いたつもりが却って病気にしてしまう恐れがあるのである。
そこでこの薄荷水を土がかぶってしまった葉や、特に切断面には念入りにかけるのだ。
ちなみに作り方は意外と簡単でリスもよく手伝わせてもらう。
鍋の中に水と蒸留酒を3:1で入れ、そこに薄荷を十房ほどいれて火にかける。
あとはぐつぐつ煮ていくだけだ。
こうして出来上がったものを冷まして瓶に入れてしまえば完成となる。
そしてこれはなんと植物の病気を予防してくれる。“魔女”の知識の一つだ。
そう、これこそが彼女が“花の魔女”と呼ばれ、トレーテルの人々から尊敬と親しみを持たれている所以の一つである。
その知識と経験で多彩な草花を育て、今のトレーテルの景観を作っている功績は大きい。
そしてそういった知識――例えば先ほどの薄荷水をはじめとしたもの――は彼女の花壇だけにとどまらず、町の人々の日々の営みである農業にもしっかり応用ができた。
これが町にもたらした恩恵はそう少なくはない。
折しもときは科学が進歩していった時代。
後の世ではいわゆる「科学革命」と称されることとなる変化の時代だ。
人々の往来が増え、今まで点在していた知識や経験が交差したことによって、それまでの習慣や方法に対して誰しもが感じていた漠然とした疑問を推進剤として様々な試行や錯誤が行われつつあった。
それによっていままで「精霊の仕業」などとして片付けられていたいくつもの事象が単純な論理に置き換えられていき、また今まで「慣例とは違うから」「やったことがなかったから」という理由で行われることのなかった、初めての実験たちがまさに行われている時代だった。
「月はなぜ満ち欠けをするのだろうか?」そういった疑問からは天文学が生まれ、「あるものに何か別のものを混ぜてみたらどうなるだろう?」という疑問からは化学が生まれた。
そしてそのうねりは確かに各地に波及していって、リスたちの時代のトレーテルもまさにその波のさなかにあったと言えよう。
化学からは様々な有用なものが生まれた。
その一つが肥料である。
ひと昔前に入ってきたそれは今までとは見違えるほどの麦を町にもたらし、町を豊かに変えていった。
そんな下地があったからこそフィアネの隠し持っていた知識と技術は大きな歓迎とともにこの町に受け入れられたのである。
おまけに彼女の容姿、人柄にリス含め多くのひとがほれ込み、次第に“花の魔女”という二つ名が浸透していったのだ。
ちなみに余談だが、この“花の魔女”という呼び名はリスが初めに呼んだものだったりする。
いくら非科学的な理論が否定されていった時代とはいえまだ“魔女”という呼び名は一部には蔑称として残っていたものであったのだが、あろうことかフィアネはそれを受け入れたのだ。
当然、以降は彼女を“花の魔女”と呼んでもそこに暗い感情は込められることなど一切なく、容姿、人柄、知識と、尊敬を込めて――特にこれは子供からが多いが――称されているのだ。
邸の前の庭はフィアネが工夫をして花を配置しているので奥行きがあるように見えるのだが、その実見た目ほど広くはない。
それでもリスとフィアネは丁寧に花がらを摘み、埋もれた葉を取り除いてから薄荷水をかけていくと小一時間ほどはかかる。
取り除いた葉や花は優しく土に返すのも忘れない。
これも“魔女”の知識の一つだ。
時折、町とは離れて暮らしているフィアネにリスが自分や町、親しい住人についての近況を話しつつ手を動かしていると、太陽が高く昇ったあたりでようやく作業が終了する。
「そっちはだいたい終わった感じかな?」
「はい。先生の方も終わりました?」
だいたい自分の出来に満足したらしいフィアネがこちらの進捗を聞いてきたので、リスはずっと曲げてた背中をぐぐぐっと伸ばしてから笑顔で答えた。
「うん。ばっちり。これですっきりしたね。ありがとう」
当然、フィアネの方の作業も終わっており、こちらは疲れなんか一切ないような笑顔で返ってくる。
さりげない一言にやりがいを感じる。
「さて、もういい時間だし先にお昼にしてしまおうと思うけどいいかな?」
「もちろんです」
さっきから表にこそ出てはこないが、実はリスはさっきからお腹の虫がなっていてしょうがなかったのだ。
「じゃあそれで決まり。今日のメインイベントはそのあとね」
そう言って先に雪解け水で手をきれいに洗い流してから邸の中に入っていく、その背中にリスも続くのだった。
まだまだ今日は始まったばかりだ。
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