第一話

第一話 月下の貴婦人 1

 気が付けば、あれだけあった残雪がもうなくなっていた。


 もちろん視線をずっと右にずらしていくと、いつもと変わらないなだらかな山間には、まだまだ白い塊が身を寄せ合っており、朝の柔らかい光を受けて時折キラキラと光っているのが遠目からでも見える。


 それでもリスが今歩いているあたりは、ついこの間まではまだ溶け切らない雪が、道のわきに追いやられつつも、懸命に最後の抵抗を続けていたはずだった。


 日に日に暖かくなってきたのに加え、昨日までの雨がみんなまとめて流しきってしまったのだろうか。


「ああ、やっぱり」


 となればと、今さっきまで視界に入れていた山間から、さらに下へと目を向けてみると、リスの思っていた通り、道から少しそれているだけで春を代表する野花たちが咲いていた。


 ところどころ白やらピンクなども混じるが、総じて黄色が多いのがこの季節だ。


 前回この道を通ったのが九日前。しばらく空いたとはいえ劇的な変化である。

「んー……。別にいらないかな」


 折角なので少し手折って小さな花束にしようかと一瞬思ったが、やはりやめた。


 もしがこの変化を知らないのならば、とも思ったがそれはいらないお世話だ。


 それよりかは目的地に向かうことを優先する。

 


 リスが今歩いているのは彼女の住むトレーテルの町のはずれ、かつては「おそろしの森」と呼ばれ、畏怖されていた時代もあったという森を抜けた少し先だ。


 もはや森を恐れるものがいた時代など昔の話。


 実際にこの森を通ることがある者もリスのほかにもいるにはいるのだが、街道ほどしっかりと整備されているわけではないし、隣の町への連絡路とも違うので、わざわざこの道を使おうとする人は少ない。


 というよりそもそもその必要のある人もまた少ない。


 それではなぜ、このリスという少女はこの道を使っているのかというと、この先に住むちょっと変わった住人を訪ねるからだ。

 

 少女、といったがその実、この春でリスはもう十七になる。


 とびぬけて美人というわけではないが愛嬌があり人好きのする顔立ちだ。


 そしてこの地域の人間に特有である、色素の薄い目はどこかうずうずしているようで、もし一度何か彼女の興味を引くようなものがあればきっとそれをしばらく離すことがないだろう、その好奇心の強さを物語っている。


 やはりこの地域には珍しくない、赤みがかった髪はそれなりに手入れしてあるので、決してひとにぼさっとした印象は与えない。


 それを後ろに一つ結びにしているから歩くたびに健康そうな背中の後ろで不規則に揺れている。


 本人はきっと落ち着いた振る舞いを心掛けているのだろうが、それがどうにも落ち着ききらない様子で、どうにも憎めない魅力があるのは事実である。



 しばらく歩いて見えてきたのは、このあたりでは珍しい、木造の邸だ。


 地の木目と色に風情を感じる。


 もともとは昔引退したどこぞのお貴族様がこの地を気に入って、余生を過ごすためにとわざわざ作ったものらしい。


 そうやって作られたはいいが、そのもともとの主人がいなくなるといつの間にかあっさりと住人はいなくなり、それからはずっと放置されていたものだった。


 それはそうだろう。いくらモノがいいからといっても町の中心からそれなりの距離があるのだから不便極まりない。


 それを今の住人は何を思ったのか、そうやって住むものもいないまま佇むのみであったこの邸宅に住まうようになった、というわけだ。


 もともと貴族の邸であったというには少し小さいように感じる。


 ただ見る者が見ればこの地方の冬に多い雪の重みに十分耐えられるようにしっかりとしたつくりをしているのがわかるだろう。


 そしてなにより玄関へ至る前、訪問者を歓迎している花々とその配置が――もっとも今はまだつぼみのままのものもあるのだが――今の住民の趣味の良さを表していた。



 まずは手前から黄や橙といった色のクロッカスの小集団たちが訪問者を歓迎する。


 続いてその後ろにはそれより少しばかりか背の高いビオラが、こちらもまた比べて少し大きめの群れを作りつつ、黄と紫で各々が小奇麗にまとまっている。


 さらに邸に近い方には遅咲きのチューリップにルピナスといった、背の高い花が、暖色系のつぼみを膨らませ、仲良く一緒に咲く時を大人しく、そして行儀よく待っている。


 昨日の名残の雨粒を葉やつぼみに散りばめて、陽の光を浴びては光の粒をきらきらと光らせているのがなんともこの季節らしい。


 それらの花々の集団の間にはこれからに季節の花のためか、隙間が空けられているのだが、それぞれのカタマリの大きさの間隔が絶妙であるため、事情を知らない人からすればどうも美しく見せるためあえてこうしたのではないかと思わずにはいられないだろう。



 花壇を抜け、低木の垣に挟まれた緩やかな段差を四段ほど登るともうこの邸の入り口だ。


 おおもとの住人のことを配慮してのことだろう、重厚感はないが品と時間を感じる扉をノックするとコツコツと小気味よく乾いた音が帰ってくる。


「先生。私です。リスです」


 声をかけてみることも忘れない。


 すぐに返事は帰ってはこないがこれは織り込み済みだ。


 時間的にはとっくのとうに起きてはいるはずだが、採光のために取り入れられたという大きめの窓からは“先生”の姿を確認することができなかったから。


 上の階にいるのかそれとも奥にいるのか。


 どちらにしても中で動きがあるまで少し時間があるはずである。



 それまで、先ほどから少し気になっていた方に目を向けてみる。


 今の空間に至るために段差を上る際、健康そうな緑の植え込みの後ろ、リスの胸の高さまである素朴な造りをした欄干に、先日はなかったプランターが等間隔に配置されていたのが見えていた。


 植わっているものはおそらくリスの知らないものだろう。


 背はそう高くない。


 それこそ目の前に広がるクロッカスやビオラと同じくらいのサイズだ。


 葉はハート形を縦に伸ばしたかのようなものがそれぞれの株に5~6枚ほどついている。


 目の前いっぱいに植わっている花をはじめ、こうしたプランターの花についても、ここの主人によく手伝わせてもらっているのでいつもならそれが何かリスにもわかっているはずである。


 それがわからないということは大方“先生”が茶目っ気でもきかせた、といったところだろうか。


 白いつぼみには初々しさが感じられる。



 なかなか応答がないのでもう一度声をかけようかと振り返ったところで、その人がこちらに近づいてくるのが窓越しに見えてきた。


 内鍵がカチャンと外され、「キィ……」という子気味よい音とともに内開きの扉を開けて、そのひとはひょっこりと顔を出してきた。

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