第三幕
窓に迫っていた大きな木の枝はいつの間にか切り落とされていた。
巨大な雲が黒幕のように空を覆い尽くしている。
雲の綻びから思い出したように顔を出す陽が濡れた地面を溶かす。
雪は、まだ止んでいない。
開かれた扉から、先生の声が聞こえる。
「トーマ君〜。飲み物は何にする〜?」
「ココアがいいです〜」
「はい〜」
暫くして、給湯室から先生が二つのマグカップを持って現れた。
片方のカップを僕の目の前においた。
「はい、ココアね」
「ありがとうございます」
先生のカップにはコーヒーが入っているようだ。
白い靄が黒い湖面から立ち上がって、香ばしい匂いが部屋を染めていく、
不思議と輝いて見えた。
――そういえば、飲んだことがなかったな
「コーヒーにすれば良かったかな」
「もう飲めるのかい?」
「もう高校生だよ?それぐらい飲めるって」
「トーマ君のいう高校生は私の知っているのと違うからなぁ」
「味蕾の数は変わらないでしょ?」
「ハハハッ、そういうところだよ」
先生は白紙の紙を机において、ペンを紙の上に置いた。
「それじゃあ、始めようか」
「はい」
ココアに口を付けた。
思っていたよりも熱くて、口の中を火傷した。
――退屈な時間だ
「君の名前は?」
「宍戸斗真」
「今日の日付は?」
「2012年12月16日、日曜日」
「今は何時?」
先生が腕時計を見るのが分かる。
僕は先生の目を見つめた。
「先生の時計では何時になっていますか?」
先生の顔が綻んだ。
――正解は退屈だ
「11時だね」
「お昼はどうしようかなぁ」
「近くに美味しい定食屋ができたんだ。あとで行こう」
「いいですね」
先生はロールシャッハの絵を取り出した。
いつもと同じ絵だ。
今日もボクを見ている。
――お遊戯も退屈だ
「これは何に見える?」
「鈴を持った2人組の妖精」
「これは?」
「手を取り合う2人の男」
「これは?」
「踊る2人の女」
「これは?」
「這うウミガメ」
「これは?」
「髪飾り」
「これは?」
「スピンのついた本」
「これは?」
「音符」
「これは?」
「こちらを向いた男の人」
「これは?」
「今日はトンカツで」
「ふふ、これは?」
「花束」
「少し待ってね」
「はい」
やっとペンを取ってキャップを外した。
ココアはもう温くなっていた。
――嘘をつくのも退屈だ
少しの間、僕はペンが紙の上を走るのを眺めた。
「さて、近況を聞こうかn
「退屈です」
「……即答だね」
「高校も中学とほとんど変わりませんよ。手足が伸びきって、声がでかくなっただけです」
「……ははは、言うねぇ」
まだ、先生はボクを観ている。
――嘘つきの顔を見ている
「今は何を勉強しているんだっけ?」
「群集心理ですよ」
「おや、いつの間に心理学に手をつけていたんだい?」
「はて、いつだったかな?」
――「心理」についてはずっと前から知っていましたよ
「どうだい?心理学は」
「面白いですよ。僕が以前から考えていたことが論理を持って証明されているのは、本当に面白いです」
あれはなんとも言えない感情だった。
頭のうちに巣食っていたムクドリ達が片端から鷹に喰い散らされる様な、
冬の間に張った氷の湖が隕鉄によって粉砕される様な、
今までの人生で拾ってきた色んな物を全てゴミ箱に捨てる様な、
とても清々しい、いい気持ちだった。
――誰かと意見が一致することは、あれが初めてだった
「そうか、君はその知識を何に使うんだい?」
先生は、初めて僕を診た。
僕も、先生を診るのは初めてだ。
「……僕のために、僕のエゴのために使いますよ」
窓の軋む音がする。
「エゴ……か、それは正しいことなのかい」
「正しさなんて、誰かが決めたただの規範でしょう?」
「君は自分の規範を持っていると?」
「僕の規範なんて他人には関係ないでしょう?興味すらないのだから」
「そうだろうね。だから多くの人が社会の規範に従う」
「……それが正しいと、そう言いたいんですか?」
「そうとは言わない、だが逸脱しすぎることは罪となる」
「逸脱ね……」
外は吹雪になっているようだ。
「僕はいつだって異端だった。人とは違いすぎた。そして、あまりにも目立ち過ぎた。僕は、存在自体が社会の枠組みから逸脱していますよ」
ガタガタと震える。
「逸脱が罪となるならば、何故、僕は罪に問われない?何故、僕を社会へと戻そうとする?何故、僕の正しさを是正しようとする?」
張り付いた雪が重くなり次第に落ち着いていく。
「僕は生まれながらに捻れているんだ。真っ直ぐにしようとしても、どこかで歪む。歪な線はどこまでゆこうが歪なままだ」
窓の軋む声がする。
「そもそも、この世界そのものが真っ直ぐにはならないのだからそれも当たり前だとは思いませんか?」
「……確かに、世界は真っ直ぐにはなっていないかもしれない。しかし、まっすぐな道を目指すことは何も間違っていない」
――違うよ
「それに世界が曲がっているからと言って、君が違う方向へ曲がる必要はないだろう?」
――僕が言いたいのはそういうことじゃない
「世界に沿って進むのが社会に所属するものの生存方法なんだよ」
――そんな薄っぺらな教えが欲しいわけじゃない
「真っ直ぐな線でも、曲がった線でも行き着く先は同じになる。少し遠回りになってしまうだけだよ」
――そんなくすんだ綺麗事が欲しいわけじゃない
「焦る必要はないんだよ。君ならきっとうまくいくさ」
――先生は僕のことを何一つ見ていなかった
窓に亀裂が走っていた。
先生の瞳にはテラテラとした粘着質な光が灯っていた。
その目には、僕は映っていなかった。
窓に映る僕の顔は泣いていて、酷く違和感を覚えた。
歯の震えが、頭蓋の砕ける音に聞こえた。
涙腺から染み出した体液が、溶けた眼球のように感じた。
知らない感情が、心臓を切り裂いたように思えた。
抱いていた夢が、全てガラクタだったような気がした。
ガラスに張り付いた罅が、花に見えた。
――もう、限界だ
――世界を曲げよう
命に意味はない
生まれたことに理由なんてない
生きていることに価値なんてない
在ることに意味なんてないんだ
でも、
為すことには思想がある
成すことには軌跡が残る
踏み締めた道には確かな意思が宿る
誰かの星になるかもしれない
誰かの情熱に火をつけるかもしれない
誰かの脳裏に根を張るかもしれない
そのことに、意味はある
だから、
僕には意味はない
僕のこれまでの人生にも意味はない
僕のこれからの人生にも意味はない
僕は誰の脳裏にも残らない
僕の花は、咲く前から枯れ果てていた
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