第26話 8月23日(後編) コクハク

 


「どうして」


 自分から出た声とは思えないほど、同様と焦りが身を伝う。


「ごめんね、盗み取るつもりはなかったの。けど、見なかった事にも出来なくて……。センパイの上着をハンガーにかけようとしたら、見つけちゃった」


 不用心だった。

 それだけは絶対に見つけられてはいけなかった。


 誘発的に記憶を失ったのではなく、自らの意思で記憶を消したとなれば、彼女の中で俺に対する一定の不信感が生まれてしまうからだ。


 ……はっ。俺はこんな時にも自分の立場の心配をしているのか……。


 そんな俺の心配を感じ取ったのか、紗希ちゃんはもの柔らかに慰撫した。


「大丈夫だよ。センパイを嫌いなんてなってないから」


 紗希ちゃんは背中を向けて「こっちに来て」と俺を暗がりの部屋に誘う。


 心臓が痛い。自分のものじゃないみたいにドクンドクンと脈打って、頭の中で何重にも反響している。


 何故か俺はベッドに寝させられた。

 そして、紗希ちゃんと隣で向かい合っている。


 狭くは無いが、とにかく近い。

 ちょっとでも動いたら体が触れてしまいそう。


 俺は体を捩って後ろに逃げようとした。

 しかし、紗希ちゃんはどうしても俺を逃がしてくれない。


 腰に手を回されて、体がぎゅーっと密着する。


 胸の辺りに紗希ちゃんの頭が押し付けられた。


「紗希ちゃん?」


「このままでいさせて」


 胸に顔を填めたまま一向に動こうとしない。吐息のせいで、服がじんわりと熱くなる。


「センパイはおんなじように抱きしめてくれないの?」


「いや、それは……」


 できるわけがない。

 たった今、隠していた秘密がバレた所なんだぞ。


 それより、どうして紗希ちゃんはそんな俺にこうも寄りかかってくるんだ? 俺が怖くないのか?


 俺は苦々しく訊く。


「俺の事、怖くないの? 記憶を手放したくなるほどに思っていたような奴なんだよ? さっきだって隠し事をしてたし、何度も君に辛い思いをさせてしまった」


「怖くなんてないよ。だって」


 腹部に感じる重さ。

 視界がギュインと回って仰向けにされる。

 紗希ちゃんが俺の腹部に跨っていた。


「あたしも嘘ついてたもん」


 とても悲しそうな顔をしている。


 豆球の僅かな明かりでは細部までは確認できなかったけど、瞳に涙を抱えているようにも見えた。


「嘘?」と聞き返すと紗希ちゃんは苦しそうな表情を目一杯ほぐした。


 俺にはその顔が諦観しているように映った。


「あたし、ちゃんと?」


 紗希ちゃんは首からぶらさがったネックレスをすくい上げて、宝物を持つように包み込んだ。


「センパイといると、いっつも変な気持ちになる。顔も声も名前も知ったばかりなのに、あなたのこと全部欲しい、って醜い欲が溢れでちゃう。でも、センパイが好きなのは、サキの方であたしじゃない。だから、センパイが好きなサキってこんな感じなのかな、って演じてみた」


 紗希ちゃんは、腕を交差させて服を捲り始めた。


「ねぇセンパイ。サキとはどこまでヤった? あたしなら何でもしてあげるよ? サキの代わりにセンパイが悦んでくれること何でも叶えてあげる。だから」


 俺は紗希ちゃんの細い腕を遠慮なしに掴んだ。


 俺はその時、どんな表情をしていたのだろう。

 少なくとも、喜びなんてちっとも感じていなかった。


「なんで? なんでそんな顔するの? あたしを見てよ! サキはもうどこにもいない! なのに、センパイはどうしてあたしを見てくれないの!?」


 堰を切ったように溢れ出した紗希ちゃんの涙が服に染みを作る。


 俺は思った。もしかたら紗希ちゃんは祭りの日、帰ってからこんな顔で泣いていたのかもしれない。


 ちゃんと答えを出しておくべきだった。


 サキちゃんも詩織さんも好きなどという中途半端な答えを用意するぐらいなら、どちらも諦めるべきだった。


 選ばないという事は、現状維持ではない。

 どちらも捨てるという事なのだ。


「ごめんね、紗希ちゃん」


「なんで、センパイが謝るの?」


 打ちかかった髪をくぐり抜けて、紗希ちゃんの頬に手を添える。涙の跡が冷たい。


「俺、サキちゃんに告白された。けど、最低な言い訳で逃げたんだ。もう一人、気にかけている人がいてどっちも同じくらい好きだ、って曖昧な答え方をしちゃった。これがきっと良くなかったんだ。勇気をだして想いを伝えてくれたサキちゃんに最も不誠実な振る舞いで、ある意味フラれるより最低なやり方だったと思う。……今更気づいてももう手遅れなんだけどね」


 頬に触れていた手がするり、と抜け落ちる。


「もう俺には、君の想いを受け取る資格はないんだよ」


 腹の上に跨った紗希ちゃんをおろす為に体を起こそうとした。


 が、そんな俺を紗希ちゃんは力づくでベッドに押し返す。


「そんなの知らない! 昔のサキの事なんて聞いてない! だってあたしは紗希だもん!」


 ハッとした。


 俺はもしかして、また同じ過ちを繰り返そうとしているのか? 紗希ちゃんに正面から向き合わず、自分が居心地いいのいい場所に逃げ出そうとしているのか?


 もう、そんなの許されないはずだ。


 俺に重なるように倒れ込んだ紗希ちゃん。どんどん胸元が湿っているのが分かる。


 話し始める前に、今度は彼女が逃げ出さないようにキツくいだき締める。


 そして、声が染み込むように語りかける。


「羽山紗希ちゃん。君といる後2日間、俺を君の彼氏にしてくれませんか?」


 紗希ちゃんの頭を優しく撫でながら続ける。


「俺は君が好きだ。この世で一番、羽山紗希の事が好き。だから、俺と付き合って下さい」


「……2日間が終わっちゃったら?」


「俺は自分勝手なので、また君を好きになります。でもその時は、俺が二度と立てないようになるくらいまで罵声を浴びせて盛大にフッてやって下さい。宮田宗治という男は、そうでもしないと他人の気持ちが分からないんです」


 泣き腫らした目が俺を見る。何とも感情が拮抗した顔だ。涙は絶えず溢れているのに目を細めて、えへへ、と笑っている。


「いいよ、付き合ってあげる」


 俺は紗希ちゃんを抱えたまま起き上がった。


「えっ、なに!? ちょっとま……っん!」


 困惑する紗希ちゃんの唇を奪った。かっぴらいた目が、次第に落ちていく。


 今日の紗希ちゃんは、さくらんぼのアルコールが入ってる。少しアダルトな味がしたのでした。




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