第25話 8月23日(中編) それだけは絶対ダメだったのに
夏の長居している太陽ですら沈みかけている中、美容院のドアを開けた。
看板が『CLOSE』になっていたせいか、店内の照明は落とされていて、紅黒く染められている。
待合席で佐山さんが俯いている。目の前に立つと、彼女は俺を見上げた。
「せっかくの美人が台無しですよ」
佐山さんは目に大粒の涙を浮かべていた。
溢れ出した涙が落ちた先に、1枚の紙があった。
佐山さんは、震えた手で涙の滲んだ紙を俺に手渡す。
俺は思わず、ははっ、と乾いた笑いを漏らした。
何か特別なリアクションをしたかった。
けれど、困惑を抑えきれなくてそうなってしまった。
その紙。
いや、いつか見た同じデザインの領収書にはこう記載されていた。
『羽山紗希殿
記憶売却につき、¥38000
記憶の停留所』
あぁ、綺麗な字。俺もぜひ1度、顔を拝みたいものだ。きっと性格も、神が敬うくらい完成された人なんだろうな。
……ん? もう1枚ある?
『記憶の停留所にてお待ちしております。』
なるほど、金を取りに来いってか。
訂正だ。性根が腐ってる。
わざわざ佐山さんの所にまで来たって事は、紗希ちゃんがここにいるってのも分かってるんだろ?
だったら、金置いてけばいいだけの話じゃないか。
なんで取りに行かなきゃならんのだ。紗希ちゃんは記憶の停留所の場所すら忘れちまってんだぞ。
俺は気持ちを落ち着ける為に大きく息を吸った。あんまり変わらない。
「とりあえずこれは預かっといていいですか? 紗希ちゃんにはバレないようにしますから」
佐山さんは嗚咽を繰り返しながら頷いた。
この人の泣き姿を見るなんて思いもしなかった。普段活発な分、余計に悲壮感があった。
俺は佐山さんの隣に腰を下ろした。
今は俺しかいない。だから、彼女を宥めるもの俺しか出来ないんだ。
そう自分に言い聞かせて、震えて丸まった佐山さんの背中をさすった。
「ただい……ま?」
家に帰ると、玄関で仁王立ちした紗希ちゃんがいた。
頬をプクッと膨らませて、顔を赤くしている。
「あたし『ついて行く』って言ったよねぇ? もしかして、宮田センパイって日本語通じない人ぉ? だったら仕方ないんですけど、ちょっとさすがに酷くないですかぁ!」
怒ってます。
語尾の上がり方が完璧に怒ってる人のそれです。
俺は機嫌取りに手元の袋を見せた。
「でもほら、晩ご飯の具材とか、アイスも買ってきたよ?」
アイスという響きに、紗希ちゃんの耳がピクっと反応する。
急に態度が変わった。
「ま、まぁ? アイス買ってきたなら許してあげないことも無いけど」
腕を組んで、顔を背けているけどチラチラとアイスの種類を確かめようとしてるのバレバレだ。
気を働かせて買ってきて良かったぁ。
アイスがなかったら今頃、もっと言いこまれてただろうな。
「宮田センパイ、お風呂入りなよ。その間にあたしがご飯作ってあげる」
「あっ、じゃあお願いし──」
待て!
当たり前みたいに紗希ちゃんに料理を任せようとしたけど、これって2回目だよな。
それに今日退院したばかりだし、無理をさせる訳には……。
「あっ!」
ひったくりみたいに袋を奪われた。
「どれどれ? 鶏肉、にんじん、じゃがいも、玉ねぎ……カレー?」
「それくらいしか作れないし……」
「じゃあ、尚更あたしが作ってあげるよ! 遠慮せずに、ほらほら!」
「ああっ! ちょっと!」
手を引かれて部屋に上げられたと思ったら、服を脱がせようとしてきた。
とっとと風呂に行ってろってか。
「わかった! わかったから! 紗希ちゃんに料理は任せるから、服ぐらい自分で脱がせてくれ!」
「もう、最初から素直になりなよ〜」
なんでそっちが偉そうなんだ……
脱衣場に押し込まれると、「ごゆっくり〜」と万遍の笑みを見せながら仕切り戸が閉められる。
浴室に入ると湯が張られていた。
紗希ちゃんが入れてくれたのだろう。
クソあちい夏だけど、せっかくの厚意を無駄にするのも忍びない。
肩まで浸かって大量の汗を流した。
俺が長風呂し過ぎたのか、紗希ちゃんの料理の手際が完璧過ぎるのか、はたまたその両方か。
既に煮込むだけになったカレー鍋が1人、台所に取り残されていた。
ふつふつと気泡が弾けていい香りだ。
紗希ちゃんは座椅子に三角座りをして、テレビを見ていた。
よく見ると渡したTシャツのサイズが合ってない為か、肩がほとんど露になってしまっていた。
今は下着も付けてない訳で。
角度によっては胸が見えてしまいそうで目のやり場が……。
俺に気づいた紗希ちゃんがにっこり笑う。
「お湯入れてくれたんだね。ありがと」
紗希ちゃんは、ううん、と首を振る。
頭をタオルで拭きながら、あっ、と気づいた。
解かれた紗希ちゃんの髪が僅かに湿っている。
「ごめん。うち、ドライヤー無かったでしょ?」
「いいよ。扇風機で何とかなったし。それより、ご飯にしよ?」
よいしょ、と立ち上がった紗希ちゃんは澱みなく食事の支度を始める。
もう俺ん家に馴染みすぎでしょ。
「ねえ、宮田センパイ。これ飲んでいい?」
冷蔵庫の前でしゃがんだ紗希ちゃんは、奥から1本のチューハイを出して顔の横で見せた。
そんな度数の低い酒買ってたっけな?
不思議に思った俺は受け取って、缶を一周させた。度数3パーセントのさくらんぼ味。
ま、気づかないうちに買ったんだろう。
どうせ俺は飲まないし、いいかな……っておい! ダメだよ! 未成年だぞ! それに、バーベキューの時に盗み飲んで盛大にむせてただろ。
「ダメ! お茶があるからそっちにしなさい」
「ちぇー、カレー作ってあげたのに」
不服そうな顔をして、「1回でいいから飲んでみたかったなぁ」と言いながら酒を冷蔵庫にもどしていく。
それを見た俺は、いけないと分かってながら自分の中の本心に耐えきれなくなった。
「……1本だけって約束するならいいよ」
「ホント!? やったぁ! ありがと!」
もう一度だけ、サキちゃんを見たいと思ってしまったんだ。
テーブルに夕食が並べられる。
向かい合って手を合わせた。
「いただきます」
紗希ちゃんは、大役を任されたみたいに恐る恐るチューハイの缶を手に取った。
プシュ、とプルタブが飲み口を押し込む。
おぉ! と目を輝かせている。
そこまでなら、炭酸ジュースと変わらんでしょうが。どこに感心しとんだ。
「い……頂いてもよろしいでしょうか?」
「そんなにかしこまらなくても……。20歳になった時の前借りってことにしとけばいい」
「そ、それでは……いただきます」
紗希ちゃんは様子見程度に口に含んだ。
ゴクッと喉を通り過ぎていく。
「どう?」
「うーん……これは」
難しい顔をして考え始めた。
美味しい、とハッキリ言える味ではなかったようだ。
二口目。
今度はさっきとは違って、ゴクゴクと遠慮なく飲んだ。
「はっ! これは、さくらんぼにアルコールが混じった味だ!」
「それりゃそうでしょ」
閃いた! みたいな顔をするもんだから、しっくりくる言葉を見つけたのかと思った。そのまんまじゃないか。
「でも、やっぱりあんまりおしいくないなぁ。さくらんぼの味が濁ってるみたい」
「じゃあ、4年後までお預けだね」
「あぁっ! ちょっと待ってよ! これは、あたしが全部飲むし!」
取り上げようとしたチューハイを死守する紗希ちゃん。
それからも、ちびちびと口をつけては悩ましい顔をしていた。
「ふーっ、美味しかった! ありがとね、紗希ちゃん。片付けは俺がするから、休んでて」
「うん」
食器を運んで、いざカレー汚れとの戦いだ。
スポンジに洗剤を泡立てる。
料理はたまにしかしないけど、洗い物は結構好きな方だ。
特にフライパンの油汚れなんて大好物。
落ちた時のキュッキッュって音を聞くイメージをするだけで、気分が乗ってくる。
水道の勢いで音がかき消されるだろうと踏んで、鼻歌なんか歌ってみる。
洗い終えた皿が水切り台に並ぶ姿なんて、さながら宝石店のダイヤ達……というのはさすがに冗談。
皿洗いの出来に満足してリビングに戻ると、紗希ちゃんはベッドの上で寝息を立てていた。
ただでさえ小柄な体を丸めて、ベッドの隅っこでちょこんとスペースを取るぬいぐるみみたいだ。
タオルケットをかけて、電気を消した。
座椅子に腰を下ろして、ふぅ、と息を吐く。
ようやく一息つけた。
今日はあっちへこっちへ移動が激しい日だったな。
紗希ちゃんも退院できて気が緩んだんだろう。
後ろで聞こえる寝息が穏やかだ。
俺の心情は穏やかではないんですけどね……
そういやあの領収書、紗希ちゃんに見つからないように隠しておかないと。
なるべく物音を立てないようにして、今日着ていたジャケットのポケットに手を突っ込んだ。
……ん? 紙の感触が無い?
廊下に出て、明かりの下で隈無く探す。
しかし、布が破れるんじゃないかってくらいポケットの中を掻き回しても、ひっくり返しても見当たない。
やばい……やばいって! 美容院から帰ってくる途中で落としたのか? だとしたらスーパーにも寄ったし、大体、もう帰って何時間経ってると思ってんだよ!
嘘だろ嘘だろ嘘だろ!? ズボンのポケットの中にも無い!
こんなヘマ許されないぞ……。とにかく、外に探しに行かないと。
「宮田センパイ?」
急いで振り返ると、ぼんやりとした目で紗希ちゃんが立っていた。
靴を履こうとしていた手を止めて、紗希ちゃんの近くに寄った。
「ごめん、起こしちゃった? ちょっと今から出てくるから、紗希ちゃんは中でゆっくりしてて」
「どこか行くの?」
「い……いや、ちょっと夜風に当たってこようかなって思っただけだよ? 紗希ちゃんも行く?」
なぜ、お散歩のお供にご招待してんだァ! ついてこられちゃダメでしょうがぁ!
俺は即座に軌道修正を謀る。
「でも紗希ちゃんそんな格好だから、夜道は危ないよ? 退院して間もないし、今日はゆっくり休みな?」
「うん、そうする」
いよぉし! 回避成功! 早く探しに行かなくちゃ!
「でも」
ん? でも?
紗希ちゃんは後ろに回していた手をゆっくり胸の前に持ってきた。
紗希ちゃんが手に持っていたソレを見て、血の気が引いていく感覚とはこういう状態を言うのだな、と理解した。
体がゾワッと震えて、何も考えられなくなった。
「もし何か探し物なら、これなんじゃない?」
俺が佐山さんから預かったはずの領収書を、紗希ちゃんが持っていた。
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