第13話 8月9日(後編) そのキスはたぶん間違いで……

 


 俺は持っていたコンビニ袋を投げ捨ててサキちゃんの体抱き寄せた。

 珍しく薄着のキャミソールを着ていたのはいいのだが、酷い汗で体を震わせている。


 額に貼り付いた髪を掻き分けて手の甲を当てる。


「熱い……何やってんだよサキちゃん」


「さむい……」


 手にエアコンのリモコンを握っている。


 もしかして、家中の冷房を消して回ったのか!? 死ぬ気かよ!?


 俺はサキちゃんをベッドに運んで、家中の窓を開け、エアコンと扇風機の電源を入れた。

 洗面所からありったけのタオルを取って、水桶に氷と水を注ぐ。


 ちくしょう! 早くしろよ! 溜まるのおせぇ! あっ、そうだ! 水分も摂らせないと……


「サキちゃん、これ飲んでくれ」


 無理やりサキちゃんの体を起こして、コンビニで買っていたスポーツドリンクを飲ませようとするが、


「……いや、だ」


「頼むよ、ちょっとでいいんだ」


 たぶん自分が何をされているかも分かっていない。目を閉じたまま、荒い呼吸を繰り返しているだけだ。


 このままでは埒が明かない。

 少し強引かもしれないけどやるしかない。


 俺はサキちゃんの両頬を掴み、「飲んでくれ!」と言いながら僅かに開いた口から大さじ一杯に満たないほどのスポーツドリンクを流し入れた。


 ゴクッと喉が鳴ると、サキちゃんは力を失ったようにぐったりと体を預けてきた。


 その後は脇の下や首筋、太ももにキツく絞った濡れタオルを巻き付けて、部屋が冷えるの待つばかり。




 暫く様子を見ていると、呼吸のリズムが落ち着いてきた。


 はぁ、と深いため息が出る。


 一時はどうなる事かと思った。

 俺の寿命が持っていかれたよ、全く。


 落ち着いてサキちゃんを見ると、腕に注射パッドが貼られている。


 病院で点滴でも受けていたんだろけど、昨日聞いていた病弱さをこんな形で知るとは思わなかった。


 することも無いし、部屋をぐるっと見渡してみる。


 ベッドとローテーブル、大きなキャリーバッグがあるだけの質素な部屋だ。


 夏だけの滞在だからサキちゃんの性格がモロに部屋に出る訳じゃないのは分かっているけど、それにしても色が少ない。


 強いて言えばテーブル上に並べられた化粧品と、大口が開かれたキャリーバッグから伺えるパーカーやパンツ……って、パンツ!?


 いかん、目が勝手に引き寄せられていく。


「黒ッ!?」


 今更口を押さえているけど、絶対意味無い。


 でも黒だせ、黒。アダルトな下着履いてんのな。その趣向は嫌いじゃない、むしろ大好きだ。

 こんなラッキーが訪れるなんて、神様はきっといい人だなぁ。

 もう少し、ラッキーを続けさせて下さいよ、っと。


「みやた、せんぱい?」


「えっ?」


「何してるの?」


 掠れた声で名前が呼ばれた。


 その時、どうして俺は手に持っていたパンツを離さなかったんだろう。

 しかし、俺は反射的に振り切ってしまう。


「なんで、あたしの部屋に……って、それあたし下着!」


「違っ! これには深いわけがあるんだ!」


 起き上がったサキちゃんは熱がぶり返したんじゃないかってくらい顔を真っ赤にして、タオルを投げつけてきた。


 水を含んだタオルはもはや野球ボールのように固く、見事に俺の顔面にヒットした。


「誤解なんですぅ」


 意識を失う寸前まで、弁解を辞めなかった気合いだけは評価して欲しい。


 ────ハッ!


「ここはどこ!? 私は誰!?」


 小学生の頃、顔面にドッジボールを投げつけられたトラウマで飛び起きると、薄手のカーディガンを羽織ったサキちゃんが薄目でこちらを見ていた。


 なんでそんな怒って……


「あっ! パンツ!」


「……」


 また、口を押さえるが当然意味は無い。


 サキちゃんも一層眉をひそめて睨んできてる。こりゃ雷が落ちるな。


「宮田センパイ」


「なんでございましょう」


 正座をして俯くと、サキちゃんの脚が見えた。


 あぁ、分かった。しばかれるパターンね。

 何となくイメージできるもん。

 目の前で仁王立ちして、まるでゴミを見るような目で見下ろしてるサキちゃんの姿が。


「さあ、一思いに!」


 覚悟を決めて、叫ぶ。


 が、いつまで経っても痛みはやってこない。


 代わり頬に冷たい感触があった。


 俺はこの感触を知っている。

 細い指先で、夏だというのに雪のように冷たくて心地よい。


 手のひらが顔の輪郭をなでた時、すくい上げられるように首が持ち上がる。


「ありがとう、宮田センパイ」


 とんび座りして俺と同じ目線にいたサキちゃんは、溶けてしまいそうな笑顔で涙を流していた。


「なんで泣いてるの?」


「嬉しいから」


「パンツ取られたのが?」


「そんなわけないじゃん。バカ」


 人差し指で涙をすくい上げながら、嗚咽を繰り返すサキちゃん。


 その嗚咽は溜まりに溜まった苦しみを吐き出すような声で、涙は濁った泥水を洗い流すかのように。


 胸の中に飛び込んできた小さな体を、俺は壊れないように抱きしめた。




「昨日、楓さんから聞いた。あたしの事、宮田センパイに話しちゃった、って。だから宮田センパイが来てくれて、ホントに嬉しかった。あたしの汚い中身とか全部知った上で助けてくれた事とか、今もこうやって抱きしめてくれる事が」


 このカーディガン、たぶん佐山さんのだな。全然サイズあってないし、と無関係な情報を頭に入れる。


 このままサキちゃんの声を聞いてると、自分の中の変な気持ちが抑えられないような気がするのだ。


「センパイはさ、あたしのこと好き?」


 腰に腕が回され、逃げられないようにロックされてしまう。オマケに覗き込むように見上げてくる瞳。


 答えは決まってる。


 決まってるハズなのに……どうして詩織さんが頭をよぎるんだ。


 サキちゃんを抱いていた腕は離れ、意図せず体が引き離したがっている。


「サキちゃん、1回離れよう。また体調崩しちゃうよ」


「無理だよ、だってもう抑えられないんだもん」


「な、なにいっ────んんっ!?」


 唇に当たる柔らかな感触。


 サキちゃんの顔が目の前にあって、何が起こってるんだ、なんて考えてる分だけ、キスの時間は長引いていた。


 気づいた時には身動きが取れなくなっていて、首に回された腕を掴んでみたけど力は抜けていく一方だ。


 サキちゃんにエネルギー吸われちゃってんのかな? 確かに今栄養足りてなさそうだもんな。もうどうにでもなればいい。


 そのキスは永遠のように続き、サキちゃんが満足するまで身じろぎひとつ許されなかった。


 ちゅぱ、という音を立てて開放された時には既に意識は朦朧としていて、溢れた唾液が糸を引く。


 いつの間にか両手で顔を固定され、2度目のキスが始まる。


 サキちゃんはもう俺が知っている女の子ではなくなっていた。


 あの子は無愛想で、強情で、生意気で、ワガママで、蠱惑的で、素直で、恥ずかしがり屋で健気な女の子だ。


 俺は決意を固めて、今度こそサキちゃんの肩を掴んだ。

 そして力を込めて引き離す。


「サキちゃん! しっかりしろ!」


 交わった唇が離れて、蕩けたような顔をしていたサキちゃんの表情が徐々にハッキリと形を整えていく。


「あたし何やって……もしかしてキスしてた!? ありえない! まじキモイ!!」


 カーディガンの袖でゴシゴシと唇を拭っている。


 そこまでされると真面目に傷ついちゃいますよ。

 僕、メンタル弱いって言ってませんでしたっけ?


「ただいまー! サキちゃん? 宮田くんも居るのー?」


 俺とサキちゃんは顔を見合わせると慌てて散らかった部屋を片した。すぐに佐山さんが部屋に顔を見せると、とびきりの愛想笑いで迎えた。


「お、おかえりなさい、佐山さん」


「あら宮田くん。まだ居てくれたの? サキちゃんも調子どう?」


「お、おかげさまですっかり良くなりましたぁ……」


 布団から鼻と目を出すサキちゃん。


 上手いこと口を隠して苦笑いしてるのをバレないようにしてるんだろうけど、目が全然笑ってないぞ。逆に怪しいわ。


「佐山さんも戻ってきたことだし、俺はそろそろ」


「えっ? 帰るの? 夕ご飯食べていけばいいのに」


「いや、そこまでお世話になる訳には」


「何言ってるの? お世話してくれたのは宮田くんの方でしょ?」


 佐山さんが指さした先には、桶に溜まった水や、使ったタオル、空になったスポーツドリンクがあった。


 ま、確かに今日めちゃくちゃ頑張ったのは事実だな。マジで善行積んだわ。

 これで天国行き確定……ん? 天国? 何か大切なことを忘れているような気が。


 ────あ!? 詩織さん! 確か詩織さんにサキちゃんを喫茶店へ連れて来いって言われてたんだ! サキちゃんは行けないけど、俺だけでも行って顛末を話さないと!


「すいません、やっぱり今日はこれで帰ります」


「あら、そう? 残念ね」


「また機会があれば。サキちゃんも、またね。次はコーヒーでも奢ってくれよ?」


 すると、サキちゃんは目をまるまると見開いて驚いた顔をしていた(鼻から上しか見えなかったけどたぶん驚いていたと思う)。


 まさか、歳下にたかるしょうもない男だと思われた!? やばい、口が余計に動いた、と次の言葉を紡ごうとすると、


「うん、またね」


 目を細めたサキちゃんは優しく微笑んだ。

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