第6話 8月5日(後編) 金を払って名前を知った

「今行きます」


 ただその一言で、俺の体は震え上がるような喜びに悶えた。


「あれ? さっきの男の人じゃなくなってる」


「すみません。父は倉庫に行ってしまって。代わりに私が注文をお受けしますよ」


 サキさんの疑問に彼女は微笑みながら返した。


 どうしてだろう。言葉が出なくなってしまった。ただ、彼女に見とれているだけで底知れぬ幸福感に満たされる。それは酔っていると言ってもいいほど濃く深く。


「おーい、どうしたの? 頼まないの?」


「あっ、ごめんごめん。えーと、何だったけ?」


「チーズケーキ頼むんでしょ?」


 そうだった。すっかり忘れていた。つい数秒前の話も頭から飛んでしまう鳥頭なのか俺は。

 いかん、いかんと首を降って彼女に向き直った。


「えっと、じゃあお願いします」


「かしこまりました」


 彼女は浅く頭を下げてカウンターに戻っていった。


 うわぁ、絶対変なやつだと思われた。顔見たまま喋らなくなるってどんだけキモイんだよ……。俺が彼女の立場だったら手に持ってた注文表投げつけてるわ。


 それでも視線は勝手に彼女に吸い込まれる。ショートカットから覗く横顔が綺麗で、透け感のある真っ白なブラウスが、彼女の清純さをいっそう際立たせていた。


「あーゆーのが好みなんだ」


 心臓が嫌な跳ね方をした。

 ずっと隠してきた自分の裏側を覗かれたような体温の下がり方だ。


 サキさんはつまらなそうな顔をする。

 声色も平坦で、機嫌が悪い時によく見る感じの雰囲気だ。


 でも、彼女が俺の好みの女性と言えるのだろうか?


 俺の憧れは佐山さんのような、余裕のある包容力と底なしの明るさだ。

 彼女は特質して佐山さんと同じ部分があるとは思えない。それなら、まだサキさんの方が近いとすら思う。


「ちょっと違うかな。彼女はテレビや映画で見るような壁1枚隔てた人に見える」


「へぇー、だからガン見してるんだ。キモ」


「ちょっと酷くないですか!? サキさんだって、目の前にイケメンいたらそっちに目移りしちゃうでしょうが!」


「──!? あたしは」


 サキさんの声は白い肌に遮られた。


「お待たせしました」とチーズケーキがテーブルの上に置かれ、彼女はにこやかに微笑んで伝票を伏せて行った。


 なんてタイミングが悪い……サキさんがなんて言ったのかうまく聞き取れなかった。


 もし。もしだけど、合っているとしたら「わたしは絶対目移りなんてしない」って言ってた気がする。


 確かに、メニュー表の端から端まで頼むような女の子だ。あれもいいな、これもいいな、と悩んでいるくらいだったら全部手に入れる方を選びそうだな。


「1口貰うから!」


「それ全然1口じゃないよ!」


 ムスッと頬を膨らませ、俺のチーズケーキを半分以上奪っていった。


 小娘めぇ……一瞬でも抱いた俺の純情を返してくれ。不憫でならない。


「じゃあ私行ってくるね」


「あまり遅くならないようにな、詩織しおり


 いつまにか戻ってきていた店長に出かける挨拶をした彼女は、昨日と同じように膨らんだトートバッグを背負ってドアの鐘を揺らした。


「ごゆっくり」と俺たちに一言だけ残して。



 お金を払い終えた俺の財布は、寂しさに涙を流していた(涙を流していたのは俺だった)。

 しかし、サキさんに奢ると言ったのは俺だ。むしろ付き合ってくれたんだから感謝しないとな。


「今日は付き合ってくれてありがとう。楽しかったよ」


「うん、あたしも。ごちそうさまでした」


 サキさんはお腹いっぱいになる。俺は『詩織』という名前まで知ることが出来る。

 正しくWIN-WINの関係ではないか。


 完全にストーカーみたいになってるけど、客と看板娘くらいの位置で留まってるよな? 大丈夫、大丈夫。問題無し! と自分を正当化してみる。


「じゃあここで」


「うん。またね」


 昨日と同じように肩の前で小さく手を振るサキさん。


 やっぱり、佐山さんの真似してる? こうしてみると小動物みたいで愛でたくなるな……って、口に出しちゃったらサキさんブチ切れるんだろうな。

『はぁ!? キモすぎ! 二度と近づくな!』こんな感じで、手加減なし。


 触らぬ神に祟りなし……さあ、もう帰ろう。


 随分くっちゃべったのか、オレンジ色の夕日が裏通りにも入り込んできてる。


 歩き出した途端、「ねえ!」とサキさんの呼ぶ声がした。俺とサキさんしかいない裏通りだ。俺は首だけ振り返った。


「どした?」


「えっとね、あー、あのね……」


 サキさんらしからぬ歯切れの悪さ。

 パーカーのポケットに手を突っ込んで、腰をクネクネさせている。


 どうも様子がおかしい。

 体ごと振り返って、正面から向き合った。すると、今度は目まで泳がせて時たま上目遣いで俺を見る。


 うん? と首を傾げると観念したように息を吐いた。


「また、誘ってくれる?」


 一瞬、人違いかと思った。

 俺の後ろに別の誰か、それも超イケメンが居て、その男に向かって言っているんだと思った。


 しかし、後ろを見ても誰もいない。


 もしかして、幽霊でも見えてる?

 夏だし、心霊現象とかよくテレビでもやってるもんな。でも一応、念の為に俺かどうか確認しておこう。


 自分を指さして、


「俺に言ってる?」


 サキさんは大きく2度と頷く。

『2度』これがすごく大事だ。念押しするように、不確定さを取り払う為の2回目。


「ダメ……かな?」


「いや、ダメじゃない! でも、なんというか……意外だったから」


「そっか。でも、嘘じゃないよ。また誘ってね、宮田さん」


 苗字だけど、初めてまともに名前を呼んでくれた。それだけで、彼女がどれだけの勇気を振り絞ってくれたのかが分かる。

 夕日のせいかもしれないけど、あんなに冷え性で困ってたはずの白い顔が僅かに紅潮しているから。


「ああ、わかった。約束な、サキちゃん」


 別れ際にした指切りげんまん。

 触れたサキちゃんの肌はやっぱり冷たくて、むしろ俺の方がいつもの何杯も熱くなっているんじゃないかって錯覚させられた。



 その夜、またよく分からないメールが届いた。


『はやくしないと、間に合わなくなっちゃうよ?』


 気味の悪いメールだ。


 夏だからって驚かそうとしてくれてるのか? 悪徳業者のくせにいい心構えだな。別のベクトルにその親切心を活かしてくれよ。


 俺は無関心にスマホの電源を落とし、眠りについた。

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