第7話 8月6日 夢?現実?
俺が高校生の時、学校で出された課題はだいたいこの辺りには終わらせていた。これでも昔は真面目な方だったのだ。
その反動が今来ているのだから、果たしてそれが良かったのか、悪かったのか……判断はつけられない。
ただあの時は、とにかく息苦しかった記憶しかない。クラスからの同調圧力、思春期特有の無駄に高いプライド、常に崖っぷちに立たされているかのような緊迫感。
教室の端っこでせっせと勉強に打ち込み、それなりにいい大学に進学出来たけど、結局あの3年間は帰ってこない。
もう少しだけはっちゃけられていたなら、別の人生もあったのかな、なんて考えたりもする。
高校生のサキちゃんに出会ったせいで、記憶の奥深くに閉じ込めていた闇が溢れてきてしまった。
「お水のおかわり入れましょうか?」
「あ、お願いしま……って、えぇ!?」
何故か目の前に詩織さんがピッチャーを持って立っていた。
詩織さんが目の前にいる!? なんでだ!? あっ、わかったぞ! コレ夢だろ!
夢は主の願望が作るって聞いたことがあるし、もろに当てはまっている。疑いようがないね。
「どうしたんですか? 鳩が豆鉄砲を食ったような顔して」
「夢ならよく出来た夢だな……って」
「夢? 変なこと言うんですね。お水かけてあげましょうか?」
いきなり物騒だな……俺の中の詩織さんってこういうキャラなのか? もっとお淑やかだと思ってた。案外、自分の理想と実際求める人物像には多少のズレが生じるのかもしれない。
「どうします?1発いっときますか?」
「遠慮しておきます……」
ピッチャーを構えてやる気満々じゃないか。このまま夢が醒めてしまうなんて嫌だ。最後の最後まで足掻き切ってやる。
「あら、残念。じゃあ、これで許してあげます」
「冷たっ!」
詩織さんは、ピッチャーに浮かぶ汗のような水滴をすくうと、デコピンをするように指を弾いた。目にはほとんど見えない細い水滴が顔にかかる。
冷たい。……ん? 冷たい? 夢の中でも冷たいとか暑いとかって伝わるものなのか?
「まさか、これって……」
「ま、そんな日もあります」
現実!? いつの間に喫茶店に来たんだよ!? 怖いよ! ここを我が家の家のように訪れている自分が怖い! これがホラーだよ! この夏一番の怪奇現象だよ!!
「あの、俺っていつからここにいます? なんか、記憶飛んじゃってて」
「さあ。私も今、父に呼ばれて来たので。それにもう出かけないと」
そういえば、詩織さんってすぐどこかに出かけちゃうよな。やっぱり、彼氏とかと遊びに行ってんのかな? さりげなーく聞いてみる? 物は試しだ、やってみよう。
「あ、あの詩織さんって」
「えっ?」
なんで驚いた顔するの? まだ何も言ってないよ……もしかして顔に出てました? 君のことが気になるなぁ、フフフ……って醜いオーラ出ちゃってました?
硬直した詩織さんはやがて変質者でも見るような目を俺に向けた。
「どうして、私の名前知ってるんですか?」
……あ。
思考が固まる。
そりゃそうだよな。自分から名乗ってもないのに、相手が知ってるなんて気持ち悪くて仕方ないよな。大失態だ、最悪すぎる。こうなっては嘘をついても正直に言っても答えは同じだ。
『キモイ』
なぜか、サキちゃんの声で再生されるけど。
どっちに振れても変わらないのなら、せめて正直に言っておこう。
「すいません。昨日、詩織さんのお父さんが名前を呼んでたのが聞こえて」
「なんだ。そうだったんですか」
アレ? 案外すんなり誤解解けた?
詩織さんは表情を緩めて、「悪い方に考えてしまいました」と言って肩の力を抜いた。
でも、ちゃんと悪意がなかったって伝えとかないとな。
「ほんとすいません。盗み聞きするつもりはなかったんです」
「いえ、ナンパとかストーカーの類かと思いました。そういう人たまにいるので」
そ、そうなんですねぇ、と笑顔で答えられたらどれだけ楽だっただろうか。
俺も見方によってはストーカーに当てはまるんじゃないか? という不安と焦りの方が何倍も大きい。
誤魔化しの引きつった笑顔を浮かべて、
「俺がそんなチャラい系のキャラに見えます?」
「見えますよ」
予想外の返答に言葉が詰まる。
えっ? やっぱり俺の心の内読まれてる? 誤魔化し方が見え見え過ぎたかな?
「真面目そうな人ほど、裏は悲惨だったりするもんです」
素晴らしい分析力だ。俺もそのタイプだから。表向きはそこそこ真面目で達観した風を装っているけど、思考は幼いし、すぐに熱くなる。
要するに大人気ないってやつだ。
「当たってますか?」
「裏は酷いけど、別にチャラチャラはしてないです」
「そうなんですか? 意外です」
「意外? どうして?」
「だって、昨日一緒に来てた女の子、彼女でしょ? 性格が弾けてないとあんな子と仲良くなれないじゃないですか」
昨日……サキちゃんのことか。とんだ勘違いをされたもんだな。それに、『性格が弾けてないと』って、俺の容姿が遠回しにディスられてませんかね? ちょっと傷つくんですけど。
「あの子は彼女じゃないですよ」
「じゃあ彼女の1歩手前……もしくは、長年付き添った悪友」
「残念、どっちもハズレ。まだ会って数日しか経ってないですから」
詩織さんは眉を下げて困惑したような表情を浮かべた。
もしかして、はたから見たら俺とサキちゃんの関係性は男女の関係に見ているのか? そう思ったら急に意識しちゃうんだよなあ。サキちゃんにその気ないんて無いんだろうけど。
せっかく、詩織さんとこうやって長く会話を続けてられるんだ。もっと別の話題を探さなきゃ。
店内を見渡して話の種になりそうなものを探してみるけど、なーんにもない。
またパーソナルエリアに踏み込んでしまうのは危ないかもしれないけど、詩織さんのあれやこれを聞くチャンスだ。
「詩織さんは今夏休みとかですか?」
「そうですよ。大学生の夏休みっていいですよね。時間だけはずっと多く与えられるから……」
詩織さんは言葉を切って、うーんと唸った。
何か不服なことでもあったのだろうか。
あるとしたら、1対1で向かい合ってる俺に原因があるんでしょうけどね。お願いだから、好感度下げるイベントだけはもうやめて。精神すり減るから。
「私、あなたの名前を聞いてなかった」
「ああ、俺は」
「ちょっと待って! 私が当ててあげますよ」
なんだそんなことか。心配して損した、なんて安堵していると、突然の名前当てゲームが始まった。これはこれで楽しそうだ。
「山田さん」
「違う」
「佐藤さん」
「それも違います」
「じゃあ、本田さん」
「ぶー」
詩織さんは空になったコップに水を注いで、カウンターに戻っていく。
その間にも、「工藤、山崎、吉田、鈴木、高橋、田中……」とありふれた苗字を羅列し、俺が全部に首を振るという状態が続いた。
「なんでよく聞く名前ばっかり言うんですか?」
「まずは外堀を埋めていくのが定石ですよ」
「なるほど。意外と計算高いんですね」
顎に手を当てて、小悪魔のように「ふふっ」と微笑まれた。その笑顔も計算の内だと言うのなら、相当なやり手だ。「こんな顔見せるのあなたにだけなんですからね!」なんて言われているようだ。男の心を上手く擽るやり方じゃないか。
「さっきも言ったじゃないですか。真面目そうな人ほど、案外裏は激しかったりするんです」
なんでそんな含みを持たせた言い方をするんだこの子は。もしかして童貞検定されてる? いや、こんなこと考えてる時点で答え合わせなんですけどね。
「井上、江本、加藤、近藤。当たってますか?」
首を横に振ると詩織さんは「もうギブアップです」と言って観念した。
「宮田です。宮田宗治」
「あー、頑張れば当たってました。てか、次言おうと思ってました」
「絶対ウソだ」
意外、と言っちゃなんだけどユーモアもある女の子なんだな。最初見た時は、堅物そうなイメージだっただけになんだか新鮮だ。
「じゃあ、年齢当ててあげますよ。21歳でしょ?」
「えっ、当たり。凄い」
「ほらー。名前だって当てられるって言ったのに宮田さん、信じないから」
自慢げな顔をしている。たまたま当たったんだけど、さも神からのお達しで当てました感を出すあたりがまた可愛らしい。魅力的すぎて、さぞおモテになられるんでしょう。
「じゃあ、人生の先輩になるんですね」
「ブゥーッ!」
「大丈夫ですか!?」
口に含んでいた水は豪快に吹くわ、コップを倒してズボンが濡れるわでてんやわんやだ。
え? 歳下? 最近なんかおかしくない?俺だけ時間止まってんのかな、ってくらい周りの成長が著しいんですけど。
詩織さんは更に追い討ちをかけるように「やっとお酒を飲める歳になりました」と付け足した。つまり、詩織さんは今20歳。言われてみればまだ若干の幼さも残っている気がするけど……やっぱり、言われなきゃ気づかないや。
「機会があったら、一緒に飲みましょうね。私結構強いんですよ?」
「は、はい」
ズボンのシミをタオルで押し込むように吸い出してくれる傍らでそんな誘い文句言われたら、誰だって間抜けな返事になるだろ。これは俺だけじゃないはずだ。
「じゃあ、私そろそろ行くところがあるので」
「ああ、気をつけて」
立ち上がって離れていく詩織さんを追従する扇風機の如く追いかけて、「またね。宮田セ・ン・パ・イ」の言葉で完全に故障した。
扉を開けて出ていく瞬間に今日1番の笑顔を見せられたんだ。もう、悶え叫んだって許されるだろ。
戻ってきた店長は、テーブルに突っ伏していた俺を見るなり不穏な顔になった。
「何かありましたか?」
無言を貫いていたけど、結局耐えかねて口を開いてしまった。今この思いを誰かに伝えたい──
「素敵な娘さんですね」
────なるべく控えめに。
自宅に帰ってスマホを見てみると、カレンダーが8月6日を指していた。
夢のような1日が終わった。大学生になって3回目の夏休み。過去2回分の虚無加減を思い知らさせる。
この夏休みだけは、絶対無駄にしないと心に誓う宮田宗治であった。
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