Chap.13-5

 その雑居ビルを見上げて、口がポカンと開いてしまった。

 寺井さんは、カンタに心当たりがあると言った。バーバー寺井から、路地を一本違えた雑居ビル。そこで働く男に特徴が似ていると。やはり足の悪いことが決め手となった。

「どうしたの一平くん?」

「や……前にもここ、来たことがあったから」

 出会いアプリで知り合った男に連れられて来たあのハッテン場のあるビルだった。

「このビルに用があるなんて、三階のハッテン場に行くくらいしかないと思うがねえ」

「ちょっと一平くん、何やってんの! ズルイ」

 ユウキは何を責めているのか。我ながら混み入り過ぎていて上手く説明する自信がない。ハッテン場に行こうとしたのも事実なワケで。

 ユウキのじとーとした視線から逃れるようにしてビルに足を踏み入れた。無機質なコンクリート打ちっ放しの階段を、男に言われるまま上ったことを生々しく思い返す。途端に動作がぎこちなくなって、階段を踏み外しかけた。

 途中、二十歳くらいの若者とすれ違った。狭い階段で譲り合うようにして道を空ける。一瞬、チャビと見間違えたが、ピンピンと細い髪の先が跳ねて、丸い鼻と眼鏡越しの瞳が知的な印象の若者だった。ただ体型のジャンルはチャビと一緒。大きな身体でぱんぱんに詰まったエコバックを抱え、何かやましいことでもあるのか、すれ違う時にふいと目を逸らされた。ハッテン場のある三階は既に過ぎていたので、僕らが目指す先から下りて来たのだと思う。

 雑居ビルの六階。その店『ファットボーイ』の入り口には、ハーレーダビットソンの同名のバイクを象った店の看板が掲げられていた。

「この店、看板がとてもカッコイイでしょ」

 寺井さんが教えてくれる。この店のオーナーの趣味らしい。バイク好きな店主と寺井さんは顔見知りのようだった。

「少しここで待っててくれるかな」

 寺井さんは店の扉を開けて、ひとり中に消えて行く。あまり防音対策がしっかりしていないのか、すぐに中から声が聞こえた。

「すみません、今日はオーナーがいなくて……」

 と店員らしき声が聞こえる。扉を通してくぐもった寺井さんの声も聞こえる。少し揉めている様子だった。

 しばらくして、

「待たせたね。とりあえず中に入ってもいいそうだ」

 と扉を開けた寺井さんの後ろに、冴えない痩せ型の男が立っていた。店内は黒い簡易ボードで仕切られていて、入り口から奥は見通せない作りになっている。三階のハッテン場と似たような雰囲気だった。

 店員らしき男は僕らの顔を見て、すぐおどおどと視線を泳がせた。男がいそいそと扉を閉める。

「さて、君たちが探しているのは、この人だろう?」

 寺井さんが言った。


 ◇


 その男カンタは、出張ホスト店『ファットボーイ』の従業員だった。

 ファットボーイは太めの若い子を専門に扱う店で、階段ですれ違ったのはこれから客のところへ出勤する若者だったのだろう。

 カンタはここで、客からの電話番兼、店で待機をするホスト達の世話役をしていた。ソフトドリンクを用意したり、雑誌を買って来て上げたり、店の掃除をしたりする。ホスト達の出勤状況など、店のサイトを更新するのも彼の仕事だ。ここではタカシと呼ばれているようだった。

 この店はチャビが働いていた店でもあった。カンタは入店したチャビをひと目で気に入ってしまった。一目惚れだったのだろう。だが、顔がバレているので、自分の店の子を隠れて買うわけにもいかない。募る思いがストーカー行為に発展していった。チャビが店を辞めた時には、裏切られたとさえ思ったのだ。自分の手の届かないところへ行ってしまうと。通院するチャビの様子から、病気のことも推測ができた。仕事柄、ホスト達に定期的なHIV検査を勧めていたからだった。

 カンタは直接話している限りは、無害な男だった。年齢不詳だがおそらく四十前後、十年くらい日の光を浴びていないような真っ白な肌と、こけた頬をした根の暗い男だった。そもそも面と向かって何かを主張したり、行動をすることができないから、ストーカー行為に走ってしまったのかもしれない。

 カンタは終始おどおどとして「オーナーには絶対言わないでください」と繰り返し寺井さんに懇願した。店の子をストーキングしていたなんて、バレたら首になってしまう。首になったら他に働く場所はないのですと。僕らに土下座をし、もう二度とチャビには近寄らないこと、SNSに投稿した誹謗中傷は今晩中に全て削除することを約束した。アカウントごと削除せず、投稿を消すようにさせたのは、後で確認ができるようにとのユウキの提案だった。この先、事態の収拾をさせるにも当事者アカウントは残っていた方が良いだろう。だが、宛名のない脅迫状のことは身に覚えがないと言った。カミソリが仕込まれ、僕らの部屋へ直接投函された嫌がらせの手紙のことだ。

「本当に? まさか、また誤魔化そうとはしていないね?」

 寺井さんの言い方はとても優しかった。が、その目を見て僕まで身震いをした。ヘビに睨まれたようにカンタは一生懸命首を振った。嘘をついているようには思えなかった。やはりチャビへの誹謗中傷に誘われたネットを徘徊する暇人の仕業だったのだろうか……脅迫状の謎を残したまま、カンタの件にはいちおの終止符が打たれた。

「人生で道に一回くらい躓くことは誰にだってあるだろう。だが運悪く、二回、三回と躓いてもう起き上がるのが面倒になってしまう者がたまにいる。この町にはそういう者達が集まって来やすい。ただね、そういう者を見て、運が悪かったとか、努力が足りないとか、そんなことをもっともらしく言う者にはなりたくないね。人の生き方や幸せに、他人が優劣を決めつけるなんて、バカらしいことだ」

 カンタへの気持ちを整理しようとする僕に、寺井さんはそんなことを言った。僕をハッテン場に誘った男や、学生時代にストーカー同然のことをしていた自分のことを漠然と思った。どんな人生が良かったのかなんて、そんなの一生わからない。そうタカさんも言っていた。出張ホスト店の雑用係をして、ラブホテル街を歩いて家路へつく。その男の生活を僕らがあわれんだり、責めたりしても仕方がなかった。そんな生き方もある。ただそれだけのことだった。

 後で知った話だが、寺井さんは新宿六丁目にいくつかの不動産を所有していた。僕らのマンションの部屋もそうであったように、寺井さんが出張ホスト店のオーナーと顔見知りだったのも、あの雑居ビルが寺井さんの所有物だからだった。もしかしたら、この二丁目界隈には、同じように寺井さんのビルがいくつもあって、だからみんな寺井さんには頭が上がらないのかもしれない。


 冬の日差しが白々と照り返る病室で、僕はことの経緯をチャビに説明した。大部屋に六つ並んだ一番窓側がチャビのベッドだった。窓の外にはナンテンの木があって、赤い実を実らせている。僕らが病室にやって来た時、チャビはそのナンテンの木を通して東京の冬空を見ていた。その眼差しはいつかチャビと皇帝ペンギンの話をしているときに見せた表情を思い返させた。

「そっか。カンタくんは、タカシさんだったのかあ。タカシさんのこと、よく覚えてる。優しくてとても良くしてくれたんだ。タカシさんはどうなったの?」

「約束通り、投稿は全部削除してくれたし、特に僕らはそれ以上何もしていない。チャビが納得してくれるなら、これでオシマイ。今まで通り何も変わらないよ」

「よかった、タカシさんはいい人だから」

 とチャビは言った。

「ひとつだけ確認」

 僕の横に立つユウキが口を挟む。

「他人の財布からお金を盗んだことあるの?」

 それはSNSで拡散されていた誹謗中傷のひとつだった。出張ホストが客のサイフから金を抜き取る。それはいかにもありそうな話だった。

 チャビはキョトンとした顔のまま「ないよ」と言った。

「本当に?」

「うん、そんなことしたことない」

 思いついたこともない、といった感じだった。

 ユウキは軽くため息をつくと、ポカリとチャビの頭を小突いた。強く叩かれると思ったのかチャビはぎゅっと目をつぶった。

「心配させてさ、反省してよね」

「ごめんなさい」

 チャビはベッドで上体を起こしたまま、弱々しく頭を下げた。寂しいだろうとお見舞いに買って来たペンギンのぬいぐるみを胸元でぎゅっとさせて。

 カンタの件が片付いて、お見舞いに行こうと言い出したのはユウキだった。チャビにストーカーのことを安心させて上げたかったし、何より、チャビと気まずいままなのは、僕もユウキも嫌だった。

 チャビにオーバードーズさせてしまったのは、自分のせいなのだという思いは消えなかった。チャビは僕に病気のことを相談をしようとしてくれていた。だけど、僕は自分のことで精一杯だった。家に帰りたくないと言ってるチャビに謝らないといけないと思った。チャビは精神的に落ち着いたが、検査数値がまだ安定していなかった。退院はいつになるかわからない。今のうちに一回行っておくのがいいだろう、とタカさんも言ってくれた。

「チャビ、ごめん……」

 僕が言うと「いっぺいくん、何を謝っているの?」と不思議そうな顔をした。

「ボク、自分の病気のこともちゃんとわかっていなくて。お店に入るときにいろいろ言われたんだ。ちゃんと注意しなさいって。でも学校の先生みたいに命令されるのが嫌だったから、全然聞いてなくて。病院の先生が『HIVは死ぬ病気ではありません。ちゃんと気をつけていれば、人にうつることもありません』て言ったから、そんなものなのかなあ、ボクが気をつけてれば大丈夫なんだよね……て。でもホストのバイトも辞めて、だんだん自分の病気のことがちゃんとわかって来たら怖くなったの。そのうち死んじゃうのはしょうがないけど、ボクの病気は誰かと一緒に暮らしちゃいけないものだと思ったから」

 小さく丸い鼻をグシュとさせた。チャビはだから家に帰りたくないと言っていたのか……。

「ちょっと待った。死んじゃうのはしょうがないってどういうこと?」

 ユウキが言う。

「死ぬのが一番ダメでしょ? チャビはそういうところがダメなんだ。そういうところがぼくは嫌いなの。自覚してる?」

 ユウキが腕を組んでプンプンとした。チャビが困った顔をする。

「反省してるなら、早く良くなって……帰って来てよね」

 ユウキはそっぽを向いたままだったけど、チャビの表情が、少しだけ穏やかになった。

「帰って来たら退院祝いをしよう。美味しいもの、いっぱいタカさんに作ってもらってさ」

 僕が言うとチャビはキラキラした目でウンウンと肯いた。カーテンで仕切られた隣りのベッドの患者がコホンと咳払いをする。ちょっと声が大きくなってしまったかと反省。

「チャビは元気になったら、何がしたい?」

 考えるチャビ。

「あのさ、みんなで約束したの、覚えている?」

「約束?」

 ご馳走でも食べに行く約束をしただろうか。チャビは窓の外に目を向けた。胸元の皇帝ペンギンのぬいぐるみも、チャビの動きに合わせて自然と空に顔を向ける。

「そう。タカさんの故郷に見に行こうって。沖縄の話をいっぱいしてくれたときに」

 思い出した。その約束をしたのは、そんな前のことでもないのに、ずいぶんと昔の出来事のように感じた。横を見ると、ユウキも思い出したのか「ああ」と声を漏らした。

「もちろん、覚えてるよ。忘れるわけない」

「うん、ボクね、みんなと一緒に虹を見にいきたい」


第13話 完

第14話「花、雪、月と缶チューハイ」へ続く

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虹を見にいこう 第13話「新宿ウォーカー」 なか @nakaba995

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