猫になった僕は、泣き虫の君に告白をする。

水上えな

たった一つの後悔が僕に奇跡をもたらした

「今までありがとうな、まい


「いやだっ……やめてそんなの……」


「舞がいてくれたからここまで生きられた」


 生まれつき病弱で入退院を繰り返していた僕。

 気を遣って、なのか僕に症状を伝えられることはなかったけど、医者が親に「厳しいかもしれません」と言うのを何度も聞いていた。


 そんな僕が20歳まで生きられたのは不幸中の幸いだったかもしれない。


 何もかも彼女、宮本舞みやもとまいのおかげだ。


優斗ゆうと? 返事して!」


 僕の視界はだんだんと狭まっていって、彼女の声も聞こえなくなる。


 でも僕は最後に大切な一言を言い忘れてしまった。


「す……」


 たった2文字のその言葉。

 それが言えたなら僕は悔いなく、成仏できたのだろう。


「ご臨終です」


 医者はそう言った。


 ……間に合わなかったんだ。感謝よりも伝えたかったあの言葉を彼女に聞かせられなかった……。


「優斗……? なんで寝てるの? 起きてよ……ねえ!」


「宮本さん、残念ですが彼はもう……」


「嘘でしょ……」


 その瞬間からプツリと糸が切れてしまったかのように、彼女は泣き出した。

 病室に響き渡る悲愴に満ちたその声は天に上ろうとしている僕の耳にまで届いた。


 せめてあの一言だけ告げられたら、僕は思い残すことなく彼女と別れられたのにな。


──さようなら、舞──




◇◇◇◇◇




 ……あれから僕はどうなった?


 空、雨、路地、車、人、傘……。

 人は死んだあと、天に上るものだと思っていたけど、ここはどう見たって地球だ。

 おまけに周りを見渡すと日本語と思わしき言葉がたくさんあった。


 あれ? ここは……。


 そこは僕と彼女が同棲していたアパートのすぐ近くだった。じゃあ僕は……。


 もしかしたら僕が死んだのは夢なんじゃないか。まだ彼女といれるんじゃないか。そんな淡い期待を抱いたけど──


「にゃー」


 僕から出た言葉に一瞬、耳を疑った。

 よく見れば目線が低すぎるし、体には……僕らしからぬ可愛い動物の毛と肉球があった。


 僕は猫になった……のか?


 まさに青天の霹靂と言うべき出来事だけど、それ以上に驚くことがあった。


「優斗……」


 それは親の声より聞いた大切な人の声。

 僕は聞こえてくる方角へ、慣れない四足歩行で走った。すると──


 舞……。


 彼女は部屋の前にうずくまっていた。

 近づいて顔を覗いてみると、魂が抜けたように唇は開きっぱなしで、頬は泣き疲れかまだらに赤くなっていた。


 彼女がこうなっているということは──ここは僕、斎藤優斗さいとうゆうとが死んだ世界なのか。


 彼女は病室にいたときと同じ服装……。ということはつまり、斎藤優斗が死んだその日に僕は猫になったんだ。


「猫、さん……」


「にゃー?」


 僕はどうしたの? と一声鳴いてみる。


「この部屋に入るとね、優斗のことを思い出しちゃうの」


「にゃー……」


「私は1人ぼっちになっちゃったんだ。君もそう?」


「にゃん」


「じゃあ私たち仲間だね」


「にゃー」


「お名前は?」


 僕はブルブルっと身震いしてみる。


「そっか、まだないんだ」


 舞は優しく僕を撫でた。


「じゃあ君の名前は優斗。一緒に寂しさを紛らわそう?」


 正直、猫になってまで彼女に名前を呼ばれるとは思わなかった。

 僕が本当にただの猫だったら、この名前は少し荷が重すぎただろうね。


「ゴロゴロ言ってる。私といると元気になるところとか、優斗みたい」


 そうさ、だって僕が優斗なんだから。


「じゃあ帰ろう? 優斗と一緒ならこの部屋に戻れる気がするし」


 彼女は苦しげに口角を吊り上げて微笑んだ。


 昔は何事も笑い飛ばして僕を励ましていた舞。そんな彼女を知っているから今の姿は痛ましくてとても見ていられない。


 でも彼女がこうなったのは僕のせいなんだ。もし僕と出会っていなければ、今頃、彼女は順風満帆な大学生活を送れていた。


 僕は罪深い人間だよ。


「おいで」


「にゃー」


 彼女は僕を抱きかかえて部屋に入った。



◇◇◇◇◇



「綺麗な茶色の毛だね。優斗の髪とそっくり」


 雨でずぶ濡れの僕を風呂で洗う彼女。同棲期間は1年だったけど、こうして毎日のようにお風呂へ一緒に入ったよね。


「少し温かい風が出るけど、じっとしててね」


 丁寧に肉球まで洗ってもらった僕は次に濡れた毛をドライヤーで乾かしてもらった。


「このドライヤー、付き合って1年目の記念日に優斗がプレゼントしてくれたんだ」


 僕たちが中学3年の時だね。

 もっと良い物を買ってあげればよかったなって今になって思うよ。


「はい、綺麗になりました」


「にゃー!」


「どういたしまして」


「……にゃー」


「もしかしてお腹すいた?」


「にゃん」


「うーん、家にこれしかないけど食べられる?」


 彼女がそう言って出してくれたのはチーズ。水もくれた。


「すごい勢いで食べてる。可愛いなー。優斗もそうやって私の料理を幸せそうに食べてくれたよね。幸せそうに……」


「にゃ?」


「ごめんっ……」


 彼女は口を押さえてまた涙をこぼしていた。

 僕を思い出して泣いてくれるのは嬉しいけど、これじゃこの先が心配だ。


 僕は食事を中断して、ベッドに乗る。


「にゃーお、にゃーお」


 やったことはもちろんないけど、招き猫のように上手く手の関節を動かしてこちらへ来るように合図した。


「うん……」


 彼女は飛び入るようにベッドに乗って僕をきつく抱き締める。彼女の淡い香水の匂いが僕を優しく包み込んだ。



「優斗と初めて会った日、愛猫が死んで泣いてた時もこうして優斗に慰めてもらったね」


 そうだったね。今思えば、あれが僕らの始まりだった。


「あれから優斗が好きになって、付き合って……。優斗が病気だと知ってからは私、泣かないように頑張ったんだよ?」


 そうだったの? なんで?


「本当に泣きたいのは優斗の方だから、私は泣いちゃいけないって決めたの」


 彼女は鼻をすすって、


「泣きたい時はわざと笑った。そうすれば優斗といつまでも一緒にいれるって信じてた。なのに優斗はっ……!」


 彼女は嘆く。

 6年間支え合った私たちの生活は一体なんだったのか、そう言っているようだった。

 でも。


「ごろにゃーお」


「優斗……」


 僕たちの歩んできた道は間違いなんかじゃないさ。

 結局僕は死んでしまって、彼女は結果が全てだって言うかもしれない。

 でも時には結果よりもその過程を評価してあげるのも大事だと思うんだ。


 ……それからどのくらい経ったか、彼女はそのまま寝てしまった。




◇◇◇◇◇




「にゃー」


「うーん、優斗……」


 彼女はまだ夢の中にいたが、頬をポンポンと叩くと、


「……優斗は早起きだね」


 少しだるそうに起き上がった。


「にゃーにゃー」


 今日は普通の平日だ。

 大学はどうしたのか、と僕は彼女と玄関を何度も見て鳴く。


「外に出たいの?」


 僕は首を横に振る。大学のレポート用紙に手を触れた。


「学校に行けって?」


「にゃん」


「ごめん、今日は休む。昨日あんなことがあってまだ心がぐちゃぐちゃなの」


「にゃー……」


「なんか本当に優斗と話してるみたい」


 ふふ、と僕へ笑顔を見せる彼女。泣きすぎで目は腫れているし、髪は僕が見たことないくらいボサボサだった。


「もう12時か。せめてレポートはやらないとだけどこんな気持ちじゃ……」


 彼女はノートパソコンを開きはするものの、虚空を眺めてため息をついていた。


「にゃ」


 だから僕は彼女の前に立って、ノートパソコンを指さした。


「もしかしてやれって言ってるの……?」


「にゃん」


「そっか。優斗は期限に厳しい人だったもんね」


「にゃー」


「わかった。優斗がそう言うならやる」


 そうして彼女は電源を入れた。

 パスワードに僕の生年月日を入れて開き、レポートの画面に移る。


 僕は横目に眺めているだけだったけど、それから彼女は黙々と作業していた。


「彼氏がいなくなった次の日に何食わぬ顔でレポートを書く女なんて普通いないよね」


「にゃー?」


「愛が足りなかったのかな。もっと真剣に彼を愛していれば、死なずに済んだのかな……」


 レポートの途中で彼女は気が抜けたように椅子の背もたれへ寄りかかる。

 僕はその言葉を聞いて、手を動かし始めた。


『それはちがう』


「えっ……⁉︎」


 僕は小さいこの猫の手を借りて一生懸命キーボードを打つ。


『ぼくはまいのおかげでずっとしあわせだった』


「優斗⁉︎ 優斗なの⁉︎」


『そう、ぼくはゆうと』


 その言葉を打ち終える頃には、彼女は僕を息が止まるほどギュッと抱きしめていた。


「生きてるっ……! 優斗は生きてるっ……!」


 僕も彼女と再会した時は体を震わせるほど感動した。泣きたいくらいに喜んだ。でも涙は出なくて、やっぱり僕はただの野良猫としてしか彼女といれないものだと思っていた。


 姿こそ違うけれど、こうして斎藤優斗、宮本舞として会話ができて僕も嬉しかったよ。


『まい、ぼくがいいのこしたことばをきいて』


「うん」


 僕はにゃーご、と喉を鳴らしながら書く。


『好きだよ』


 僕が最後に言いたかった言葉。多分、これを伝えられなかった後悔から僕は猫に生まれ変わったんだ。


「私も好き、大好き! だから……これからずっと……」



『でもそれはできない』


「えっ……なんで……⁉︎」


『ぼくはねこだ。じゅみょうがきてまいよりはやくしぬ』


「その時は私もっ!」


『もうまいのかなしいかおはみたくない』


「優斗……」


『まいはぼくのぶんまでしあわせになってほしい』


「だから一緒にいようって……」


『まいはべつのひととしあわせになって』


「無理だよ! 私、優斗を忘れて他の人となんて……」


『わすれることはないよ。こころのかたすみにおいてくれればそれでいいんだ』


「にゃーん」


 甘えた声で鳴いてみる。

 彼女は唇を噛み締めて僕の頭に瞳から溢れ出たしずくを1滴、2滴と落としていた。


 これが正しいんだ。これで彼女が前を向いてくれるようになったら僕は今度こそ、安心して天へ羽ばたける。



「優斗、今日はいっぱいお話ししよう?」


 それから僕たちは、出会った日から僕が病死するまで、起きた出来事を確認し合うかのようにひとつひとつ思い出話をした。


 結局大学は行かなかったけど、今日だけは許してあげよう。

──これが最後の日だから──




◇◇◇◇◇



「もしもし舞ちゃん? その……大丈夫かい?」


「おはようかけるくん。……うん、なんとか。それより聞いて! 優斗が戻ってきたの!」


「え?」


「優斗が猫になってね! ってあれ、優斗? どこ行ったの⁉︎」


「まだ大丈夫じゃないみたいだね」


「でもほんとに優斗が!」


「夢でも見たんだ、きっと」


「でもあれは夢なんかじゃ……」


「安心して。今日、そっちでサークルの皆が『舞ちゃんを慰める会』をやるから」


 あの後、僕は彼女が寝た隙を見て窓から部屋を出た。


 僕がいなくなってまた泣き出すんじゃないかと思ったけど、どうやら余計な心配だったみたい。


 最後に気持ちを伝えられたし、彼女の元気な声も聞けた。

 これでもう思い残すことはない。


──今度こそさようなら、舞──



 僕は喉を鳴らしながらまだ見ぬ土地へと走り出した。



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猫になった僕は、泣き虫の君に告白をする。 水上えな @mizukamiena

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