小6 初夏
6年生になっても、クラス替えはないから、ひなこさんはクラスの女王のままだし、聖ヶ丘さんはひとりぼっちで過ごしている。
変わったことと言えば、ひなこさんと隣のクラスの高江くんが付き合いはじめた、という噂が流れたことぐらいだ。あんなに同じ学年の男子のことをださいって嫌ってたのに、本当はそうじゃなかったみたいだ。やっぱり女子のことはよくわからない。
けど、一度帰り道で見かけたふたりはとても幸せそうに見えて、クラスでのひなこさんもすごく優しくなったから、それは良かったなあって、思う。
「みんな! 放課後俺の家でゲームしようぜ!」
ちひろも変わらない。ますます一緒に髪が伸びたけど、相変わらず明るくて、クラスの男子の中心。皆をこうやって遊びに誘っては、
「みつきも来るよな?」
ぼくの方を見て、にっこりした。
いつもこうやって皆に混ぜようとしてくれる。ちひろが居なければきっとひとりだったんだろう。
ちひろが居るから、クラスの男子たちはぼくとも口を利いてくれるのだ。
「俺、いかない」
一瞬、世界が止まったようにクラスが静かになった。
中河原くんが吐き出した言葉が、棘のように鋭くて、皆の足を刺してしまったかのようだった。
「なんだよ、中河原どうしたー? 腹でも痛いの?給食くいまくってたもんな」
ちひろが笑いかけるけど、中河原くんは笑わなかった。
「だって、百草は女じゃん。女と遊ぶとか、変だよ」
「何いってんだよ、みつきはもともと男だし。ゲームだってすっげーうめえし。即死コンボとか出来るんだよ、こいつ」
前だったら、ここで中河原くんは「すげーよな」とか言って、冗談めかして終わっていた。でも、やっぱりみんな、少しずつ変わって行っているんだろう。
「か、片倉だって、その格好、変だよ。おかまじゃん。おまえたちと遊ぶと、他のクラスから笑われるんだ」
「……そっか」
ちひろは変わらなかった。相変わらず、学校では女子の格好をしている。髪が伸びたせいで、遠目からは本当に女の子に見えるのだ。
「だ、だから、お、俺、もう遊ばないから」
中河原くんが、ぎゅっと握った両手をぶるぶるさせていて、声も泣きそうにかすれていた。
ぼくは、すごく申し訳ない気がした。ちひろにも、中河原くんにも、とても悪いことをしている気がした。
「……わりぃ。悪かったよ、中河原。今日は、やめとくよ」
「べ、別に。みんな、グラウンドでサッカーしようぜ」
中河原くんがふいと顔をそらして、後ろで気まずそうにしていたみんなを振り返る。
クラスに時間が再び流れ始めたように、がやがやと声が戻ってくる。
仕方ないよな、ってつぶやいてちひろとぼくだけが、なんだか取り残されたみたいだった。
「ねえ、何が悪いの?」
戻るべきところへ戻ろうとしている空気を引き裂いたのは、聖ヶ丘さんだった。
いつのまにやら、皆の元へ戻ろうとする中河原くんの手を引っ張って、無表情に見上げている。
「な、なんだよ」
「女子と遊んだら何が悪いの? 男子が女子の格好したら何が悪いの?」
「う、うるせえな、女子には関係ない」
「だって百草くんと片倉くんが可哀想じゃない」
「女子と一緒には遊べない。片倉が女の格好やめたら、いいけど」
「だからそれがなんでだって訊いてんの。おバカなの?」
「ば、バカじゃねーし! お前、口悪すぎだろ。そんなんだからぼっちなんだよ!」
「そうよ。わたしは暗いし、本ばっかり読んでるから友達いないけど。それがどうしたの? 別に寂しくなんてないもの」
「お前な……」
中河原くんのほうがよっぽど体は大きい。それなのに、聖ヶ丘さんに手も足もでない彼のことが、すごく可愛そうだった。聖ヶ丘さんは、普通に怖い。
「それに関係ないわけじゃないから。だって百草くんとわたしは――」
「聖ヶ丘さん! 一緒に遊ばない?! ちひろも行こう!」
咄嗟に聖ヶ丘さんの手を引っ張った。
恋愛ごっこのことを皆に聞かれたくなかった。ややこしいことになるに決まってるのだ。
この日が、はじめて3人で遊んだ日で、生理が来たのも同じ日だった。
思い返せば、この日からいろんな事が変わっていったのだと、今にして思う。
……。
「聖ヶ丘はゲームとかやんの?」
ちひろが、前をすたすたと歩く聖ヶ丘さんに声をかける。
のりで3人で帰ることになってしまって、多摩川沿いの堤防をのんびりと歩いていた。
聖ヶ丘さんとちひろとぼく。なんだか奇妙な取り合わせだ。
二人の知り合いで、間を取り持つのはぼくしかいない。ぼくがしっかりしなきゃ。
話題を作らなきゃ。
「やるよ。対戦ゲームとか好き」
彼女が振り返って、有名なゲームの名前を言う。意外と素直な笑みで拍子抜けした。
クラスじゃずっと無表情に本とにらめっこしているのに。
「まじか! 俺もみつきもめっちゃはまっててさ。な、みつき」
「あ、うん。しるえさんとか、使う」
「わたしはホンキー。ネットでも対戦してるんだよ」
「うへえ。結構ガチだったり? いいじゃん、聖ヶ丘」
「一人で遊ぶ事が多いから、色々するの」
鼻を鳴らして自嘲する彼女に対して、ちひろはニコニコしたままだ。
ちひろのこういうところってすごいと思う。
あ。結局ぼくはなにも話題作れてない。
なんか言わなきゃ。
まごまごしている間にも、ちひろはどんどん会話を進めていく。
「じゃあ、今度からは俺らと遊べばよくね。みつきもそう思うだろ」
「え、あ、うん。ねえ、ちひろ――大丈夫?」
返事をするのだけで精一杯だ。
でも訊いておきたいことが、あった。
「なにが? あー! 早くゲームやりてー! 走ろうぜ!」
無理して元気をだしているように見えたのだ。
ぼくが言い終わる前に、急にちひろが駆け出して、慌ててぼくも後を追った。ちひろの足が早くて、全然追いつけなかった。
「ちょっと! 待ってよ!」
後ろから聖ヶ丘さんもぜえぜえ言いながら走っているのに、ちひろは走り続けたままだ。
やっぱり、ちひろは今日は変だ。途中で疲れて、ぼくと聖ヶ丘さんは二人で歩いた。
結局家まで、ずっと、追いつけなかった。ちひろが本当はサッカーが好きなことぐらい、ぼくは知ってるよ。
……。
「俺ぼっこぼこなんですけど!? お前ら強すぎだろ!」
ちひろがコントローラーを床に置いて、体をカーペットの上にごろりと投げ出した。
「片倉くんが弱すぎるんだよ」
ふふん、と得意気に答えるのは聖ヶ丘さんだ。
「うーるーせー! チートだチート! 俺のシマじゃあれハメだから!」
怒った顔をしつつも、ちひろの目の奥は笑ってる。
なんだかんだ、心配することもなくふたりとも仲良くなってしまった。
ちひろはぼくと違って、誰とでも仲良くなれて本当にすごい。
って、感心してる場合じゃないよ。
訊かなきゃ。ちひろ、無理してない?って。
「はいはい。もうゲーム飽きちゃった」
「聖ヶ丘、お前本当に自由だよなあ」
「ねえ、片倉くん。家じゃ女の格好しないの?」
聖ヶ丘さんがソファーに登って、お行儀よく脚を揃えた。
長いスカートがすごく似合ってて、見た目だけならお嬢様みたいだった。
まじりっ気のない、純粋なおんなのこ。
「あー」ちひろが頭を掻いた。そしてにっこりとして、返事をする。「あれは学校用。俺、男だし」
「ふうん。お化粧してあげる。したいでしょ」
「おまっ、本当に人の話きかないよな!?」
「似合いそうだもん。わたし、持ってきてるよ。してあげる」
「……だから、俺は違うって」
そこから先の言葉はか細くて、よく聞き取れなかった。
ほんのり顔を赤くして、照れくさそうにするちひろのそんな顔をはじめて見た。
そうして、彼女が持ってきていたリップとヘアピンだけの、簡単なメイクを終えた後手鏡を除きながらちひろはぽつりと呟いた。
「似合わねえよなあ、俺」
「そう? 似合ってるけど。すごく可愛い」
聖ヶ丘さんの飾り気のない言葉を、ちひろはへへ、と軽く笑い飛ばした。
「そっか。ありがとな、聖ヶ丘」
「本気で言ってるんだけど」
「ああ、うん。わかってるよ。お前、案外いいやつだな」
「なに、急に。褒めても手加減しませんからね」
「本当におもしれーやつ。もっと早く友達になっときたかったな」
ちひろは、そう言ってゲームのコントローラーを握り直した。
その横顔がとても寂しそうで、お腹の下がきゅっと痛くなる。
なにか言わなきゃ。中河原くんたちだってわかってくれるよ。友達に戻ってくれるよ。
そんな薄っぺらい言葉ばっかりが、頭の中を走っている。
何をわかってくれるの? ちひろが本当は女の子になりたいってこと?
すぐ隣に座っているのに、ちひろがすごく遠く感じた。
「なあ、みつき」ちひろがぼくをみずに言葉を続ける。「俺、女子の格好やめるよ。悪い」
「別に、悪くない。ぼくは、大丈夫だけど。でも、」
でも、ちひろは大丈夫なの? それでいいの?
聖ヶ丘さんが居て、そう尋ねることはできなかった。手を伸ばして、肩に触れようとした。
その手を、画面を見たまま、ちひろが両手で握った。少し湿っていてとても熱い。それがちひろの感情だったのかもしれないなんて、思う。
「でさ。俺と付き合ってよ。恋人になってって意味だからな。俺、ちゃんと男やるから。お前は、どんどん女子っぽくなっていくし、なんていうか……お前のこと、好きだし」
少し早口で、一気に言い切って、ちひろは相変わらず画面を睨んだまま。
僕の答えも、決まっている。それはきっとお互いにとってわかりきったことだ。
「うん。ちひろが、良いなら」
「そっか、ありがとう」
ちひろが言うなら、それで良い。少しでもちひろの役に立ちたいし、好きって言ってもらえるのは嬉しかった。
それなのに、さっきからお腹の下がずっと痛い。
「ごめん、ちひろ、ちょっとトイレ」
我慢できなくなって、トイレに行った。
下着を下ろした時、なんだか生暖かで、ぬるぬるした感触が太ももに垂れたことに気づいて、はっとなる。
下着についた茶色いそれを見た時、一瞬、どこか怪我でもしたのかと思ったけれど、すぐに授業で習った生理だとわかった。
頭の奥が急に熱くなった。ぐるぐるといろんな事が頭の中をまわって、パニックになった。
おかしい。最初におりものが来るって習ったのに。お母さんだってそう言ってた。
自分に来るなんて、本当のところでは、思っていなかったのかも知れない。
それに色だって指をけがした時とはぜんぜん違う。
トイレに座って、トイレットペーパーを押し当てて、何度も拭いた。
目の奥が痛くなって、じんわりと涙が溢れてきた。
トイレの換気扇だけがやけに大きく聞こえて、狭いこの空間にとてもひとりぼっちだった。
ぼくはちひろと違う生き物になってしまったのだ。
それが、ただひたすらに悲しかった。
……。
はーあ。
深くため息をついて、汚れた下着を水で濡らしたトイレットペーパーで擦っている。
とにかく、ちひとには気づかれたくなかった。
だってこれは、ぼくが女になってしまった証拠だ。
それをちひろに見られるのは、すごく悪いことのような気がした。
落ちない落ちない。
なんどもこすって、またじんわり涙が滲んでくる。
ノックの音がなった。
「百草くん。いる?」
聖ヶ丘さんの声だ。慌てて腕で涙を拭って、咳払いをした。
「はいってます」
変なことを言ってる自覚はあった。
でも泣いていることを隠したくて、深く考えて口にする余裕もないんだ。
「遅いから、心配した」
「ちょっと、お腹痛くて」
しばらくしんとして、返事があった。
「ひとりで処理できる? もしかして、はじめてじゃないかなって思ったんだけど」
「だ、大丈夫」
情けないぐらい声が震えてしまった。
「ドア開けてくれるかな」
「……うん」
染み込んでくるような、穏やかな声に何も考えず従ってしまった。
ガキを開けると、聖ヶ丘さんがそっと入ってきて、ドアを閉め直した。
がちゃりと音がしてから、せめてパンツぐらいなんとかしとけばいいって気づいた。
もう遅いけど。
「汚しちゃったんだ」
便座に座ったまま、間抜けにペーパーとパンツを握ったままのぼくをみて、聖ヶ丘さんが言う。
急にすごく恥ずかしくなってきた。
「こすっても、全然落ちなくて」
「っていうか。こすっちゃだめだよ。ナプキンの付け方わかる?」
「……わかんない」
彼女がポーチから出したそれを見たことはあった。
お母さんがいつか教えるねって言ったっきりで、いつかがこんなにあっさり来るなんて思わなかった。
「下着貸して」
「うん」
パンツをまじまじ見られて、なんだかもう、頭の奥がぐつぐつ煮立つように恥ずかしくて、目を覆ってしまいたかった。
このまま全身が沸騰してぐずぐずに溶けてしまえたらどんなによかっただろう。
「ショーツは諦めたほうが良いかも。とりあえず、応急処置だけしてこれつけて、家に帰ったら着替えて」
彼女はてきぱきとペーパーを湿らせて汚れをぽんぽんと叩いて、それからナプキンを広げた。ぼくに説明しながら、それをパンツにつけていく。
されるがまま、なされるがまま。
いろいろなところをきれいにしてから、しっかり下着を穿いて、その上からズボンを着た。
促されて立ち上がった時には、さっきの出来事なんてなにもなかったかのように、彼女は澄ました顔をしている。
その頃にはぼくも恥ずかしさにも、血の赤黒さにもちょっと慣れてしまっていて、聖ヶ丘さんにお礼さえも言ってのける。
なんだか、すごく薄情で、ちょっとだけ大人になった気もした。
「聖ヶ丘さん、ありがとう。すごく、感謝してる」
「いいよ。わたしもはじめてはすごく怖かったもん」
「聖ヶ丘さんでもそんなことあるんだ」
「あるよ。わたしをなんだと思ってるの」
はっ、と鼻で笑い飛ばすその顔のせいだよ。そんなこと口が裂けても言えないけど。
それでも笑みが口調の隅々から漏れていて、本当はすごく優しい人なのかもしれないなんて、勝手なことを考えている。
「なんか…いつも強いから。すごいなって、思ってて」
「ふーん。むしろ、そんなにすぐ冷静になれる百草くんのほうが、ちょっと変だけどね」
「だって、今はまだちゃんとした女の子になってないから、ちょっと変なのかも」
「なにそれ」聖ヶ丘さんの眉が釣り上がる。「そう言えば、片倉くんと付き合うの? 好きなの?」
「好きだよ」
気恥ずかしさもなく、あっけなく口から出た。
ぼくはちひろが好き。それだけは間違いのないことのはずだった。幼稚園の頃から、ずっと親友で居てくれた彼のことが好きじゃないわけがない。
「その好きってどんな好きなの?」
「好きは、好きだよ。ちひろが居るから、色んな人とお話もできるし、いつも、すごく助けてくれるから。これからもずっと一緒に居るんだと思う」
「ふうん。なんか、百草くん、空っぽだね」
聖ヶ丘さんのさっきまでの笑みは一瞬でかき消えて、感情を顕にしてタカみたいな目をしてる。
掴まれた手首が、すごく痛かった。
「い、痛いよ、聖ヶ丘さん」
「うるさい」
手を握られたまま、顔を寄せられる。聖ヶ丘さんの吐息がかかって、がちって歯と歯のぶつかる音がする。血の味が口の中に広がった。
すぐに彼女は顔を離して、呆然とするぼくをバカにしたような口調で見下ろした。
「どう? 恋人でもない相手にキスされたけど。怒った?」
「な……なんで」
ただ口をぱくぱくさせるだけで、ぼくは何も答えられなかった。
「百草くんって本当、怒らないよね。もう少し、自分で考えたら?」
そう言って、心底つまらなそうな顔をした。
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