小5 秋
「中村が、ひなちゃんのこと好きなんだって」
男子が居ないときの女子は、かなり元気。
恋愛の話ですごく盛り上がっている。
今日の保健の時間は、2時間続けての男女別の授業だ。
ちひろも別の教室だし、休み時間の間、ぼくはひとりでクラスをぼんやりと眺めていた。
「ないない。クラスの男子とか、ガキだし。りんはどうなの? 好きな人いるの?」
クラスで一番目立つひなこさんが、顔をしかめながら、それでも隠しきれていない嬉しそうな声でクラスの女子たちと話すのが、隅っこにいるぼくにも聞こえてくる。
ひなこさんは背も高いし、それに、手足だってすらりとして大人っぽい。時々うっすらワイヤーのブラをしているのがシャツから透けて見える
男子からそれをからかわれるの込みでファッションにしているところさえあると思う。
きっとさっき習ったばかりの初潮だって、もう来ているのかもしれない。
「あたしは…………」
声が低くなったかと思うと、きゃーっって誰かの甲高い声がクラスに満ちていく。
ちひろは、女子になりたいって言ってた。どんな女子を、目指してるんだろう。
ぼくはどんな女子になれば良いのかさっぱりわからない。
ひなこさんたちみたいな女子なのかな。いつも一人で本を読んでる聖ヶ丘さんとかだって当然女子だし。
どっちにもなれないから、ちひろが居ないとぼくはひとりだ。
ちょっと寂しい。
隣の席の聖ヶ丘さんを横目を見る。目を尖らせて、眉間にすごくシワが寄っている。すごく真剣に本を読んでいるみたいだった。
更衣室でぼくと一緒に着替えをはじめた前後から、彼女は一人で居ることが増えたみたいだ。
理由は、よく知らないけど。
…って。
聖ヶ丘さんが小刻みに震えていた。
顔だって、なんだか青い。
「ねえ、大丈夫?」
声をかけた。
「……だいじょばない」
死にそうな声だった。
「保健室いく?」
「……!」
無言で彼女はと椅子をけとばすように立ち上がると、走って廊下へ飛び出した。
みんなも一瞬呆気にとられて、クラスの空気が止まる。
「聖ヶ丘さんって、ちょっと変わってるよね」
誰かが言って、
「ね。変だよね。いつもひとりだし」
「ぼっちヶ丘だしー」
他の女子がくすくすと笑い始める。
ぼくも、時々変だって言われることがあるせいかもしれない。
なんだかこの場にすごくいるのが嫌になって、同時に聖ヶ丘さんのことがすごくきになった。
大丈夫かな。チャイムがなりそうだけど、後を追うことにして、クラスから出た。
聖ヶ丘さんは、すぐに見つかった。女子トイレの入り口にある手洗い場に突っ込んでいて、今にも吐きそうな格好だ。
「聖ヶ丘さん」
「……」
しばらく、返事はなくて、聖ヶ丘さんは目をぎゅっととじて、手洗い場に突っ張った両手をぷるぷるさせている。口からなにかが出ている様子はないけど、かなり苦しそうに見えた。
「……先生呼ぶ?」
ぼくが尋ねたと同時チャイムがなった。それからしばらくたって、ようやく聖ヶ丘さんは顔を上げた。
「よばなくていい。落ち着いたから」
「そっか。大丈夫?」
「百草くんは授業いかなくていいの?」
「なんか、うん。良いよ」
あっけなく答えられたのは、聖ヶ丘さんの表情がすごく悲しそうだったからだ。
「そう。ならわたしもいいや。百草くんちょっと来て」
聖ヶ丘さんがぼくの手を掴み、一番奥のトイレの個室にふたりで入った。
トイレの蓋をしめて座った聖ヶ丘さんは、ふうと長く息を吐いて、ぼくを見上げて言う。
「隣、座ったら?」
そうは言っても、トイレの蓋の上だし、すごく狭い。くっつかないと座れないから、ちょっと迷った。
ぼくはちひろと一緒に女子になろうとしているけど、今女子にくっついていいか、わからなかったのだ。
「えっと」
「いいから」
手を引っ張られて、結局聖ヶ丘さんと太ももと太ももとをくっつけて座ることになった。
聖ヶ丘さんの体の暖かさが、不思議と心地よかった。少しわくわくもしていた。
だってはじめて授業をさぼったんだ。
聖ヶ丘さんもすっかり落ち着いた様子で、鼻歌なんかも歌っていた。
「百草くん」
「うん」
「おっぱい触ってごめんね」
「なんで今?」
「だって、あの時怒ってたから」
「あれは、びっくりしたから……」
「怒ってない?」
「怒ってないよ」
「よかった」
聖ヶ丘さんが少し笑って、ふとももでぼくの脚をちょっと押した。
聖ヶ丘さんってやわらかい表情もするんだ。はじめてみた。いつも怒った猫みたいな顔をしているイメージだった。
「…もう平気なの? すごく、気持ち悪そうだったけど」
「平気。さっきの授業聞いてたら、すごく気分悪くなって。今はもう、大丈夫」
「さっきの授業、たしかにちょっと嫌だったかも。だって、お股から血が出るって!」
女性の先生が語った初潮と精通と子供が出来る過程の話。
自分も、来るのかな。嫌だな。すごく、怖い。
「百草くんはまだなんだ。わたしはもう来てるよ」
何気なく言って、聖ヶ丘さんはお腹の下あたりをなでながら、苦笑いで言った。「全然慣れないけどね」
「ぼくはこないかも。だって去年まで男だったんだよ」
「知らないけど。女なら、来るんじゃない」
「やだなあ」
「ね。やだよね。女だったら、男の人と恋愛してお腹の中に赤ちゃん作らないといけないって、すごくやだ。他人がわたしの中に入ってるって考えたら、すごく気分が悪くなったんだよ」
「赤ちゃん? 入ってくるって、なに?」
「さっき受精のこと習ったじゃん。わたしは本で赤ちゃんの作り方もしってるよ。百草くんは知らないの?」
「しらない」
頭の奥がぐるぐるした。女になるって、どういうこと?
赤ちゃんを作らないといけないの? ぼくが?
「百草くんは好きな人いるの?」
「よくわかんない。まだぜんぜん、わかんなくて」
嘘とかじゃなくて、本当にわからないんだ。
「同じだね。わたしも、恋愛の漫画とか小説とかドラマとか好きだけど自分のことになるとすごく気持ち悪くなって、わかんないんだよね。って言ったら、はぶられちゃった。百草くんはわたしのこと平気なんだね」
「…別に、変だとは思わない。だってぼくもわかんないから」
「困ったよね。どうしたらわかるのかなあ」
「さあ」
「ためしにわたしとしてみる?」
「なにを?」
ぼくが首をかしげると、聖ヶ丘さんはきれいな顔で大人みたいに口の端を曲げた。
「『なにをするの?』って。百草くん、」
聖ヶ丘さんがくすくす笑い始める。
なんで笑われるのか、さっぱりわからない。
「な、なに?」
ぼくが言うと、彼女はついに吹き出してしまった。
「本当に、なんにも知らないんだね」
あははってやけに楽しそうに笑われて、すごく恥ずかしくなった。
ぼくはなにか、大事なことを知らないみたいだ。
それは女の子だけの秘密のようで、ちひろと女になろうとしているぼくが知らないのは、すごくまずいことのように思えたのだ。
「笑うなし!」
思わず立ち上がって、トイレの扉に背中をくっつけて、聖ヶ丘さんを見下ろした。
彼女が涙の目元をふきながら、ぼくを見上げてた。
「恋愛ごっこしようよ」
「……なにそれ?」
「わたし、みんながどうやって恋愛してるのか知りたい。百草くんは知りたくない?」
「うん、知りたい。だって」
「だって?」
はっとして、慌てて口を抑えた。
女の子がどうやって恋愛するか、ちひろは知りたがるだろう。でもそれはぼくたちだけの大事な秘密だったのだ。
黙っていると、聖ヶ丘さんの大きな目がぼくを飲み込むように見つめていた。
「……ぼくが、女の子になりたいから、ちゃんと知っておきたい」
「ふーん。そうなんだ? ちょっと意外」
相変わらずじいっと頭の奥まで覗くような目つきだ。
なぜだか、心臓がどきどきした。嘘をついたせいなのかな。
じゃあ、と言って聖ヶ丘さんは立ち上がって、
「百草くん」
お腹とお腹がくっついて、脚と脚が絡んだ。
驚いてのけぞった勢いで、トイレの扉がガタガタと大きな音をたてる。
「なにしてるの?」
「恋愛ごっこ」
平然と言い放つ彼女が、ぐいぐいとぼくの体に体を押し付けてくる。
顔が近くなる。吐息がかかる。
唇と唇が触れ合った。ちひろの時とは違って、それは一瞬だった。
「れ、恋愛って。こういうのじゃないと思う」
だって、漫画とかアニメとかで見るそれは、もっと楽しそうだった。
目の前の聖ヶ丘さんはちょっとだけ困ったような顔をしているのだ。
「恋愛だよ。どんな本を読んだって、ドラマを見たって最後は結局こうなってた。最初からこうしたって同じだと思う」
「でも……」
それならなんで、ちひろはぼくにキスをしたんだろう。
わからないことがどんどん増えていく。
「もっと先もあるよ」
聖ヶ丘さんが体を離した。背中がじっとりと熱くなっていた。
すごく、緊張してたみたいだった。
「まだあるの!?」
「うん。でも今日はやめとく。百草くんすごい顔してるし」
「え?」
思わず、頬に触れた。すごい顔って、どんな顔だろう。
「わたしも余裕ない。じゃあね、百草くん。また遊んでね」
そう言って微笑む聖ヶ丘さんやっぱり普段と変わらないように見えた。
ぼくを置いてさっさとトイレを出ていく後ろ姿はすごく堂々としていて、授業中だっていうのに迷いがない。ぼくは結局、チャイムがなるまでトイレの中にいた。女子トイレには入っちゃだめだから、誰かに見られていないかすごく不安だった。
……。
チャイムがなると同時、こっそり教室へ向かって廊下を歩き始める。
別教室で授業を受けていたちひろとクラスメイトの男子が、階段を登ってくる声が聞こえて、すごくほっとした。
ちょっと待っていようかな。
「ちひろも大変だよな。その格好」
「んー? 別に。みつきのこと心配だしな」
「いつまで続けんの? もう、百草はちゃんと学校にきてんじゃん」
皆は、ちひろが女の子になりたいことを知らない。
ぼくとちひろの秘密であることが、今は嬉しかった。
でも、このままでいいのかなとも、思う。
「さあなあ。――あ」
踊り場に来たちひろが、階段を見下ろしていたぼくに気づいて、ひょいと手を上げた。
「みつきー。何だ、待ってたんだ。まさかオレがいなくて寂しかったとか?」
冗談っぽく言って、ちひろが「わはは」って男っぽく口を大きく開けて大声で笑う。
「うん。寂しかった」
「おっ、おう…そっか」
「どうかした?」
「い、いや。一緒に帰ろうぜ」
ちひろが一瞬目を伏せて、隣の中河原くんの頭ををなぜだか軽く叩いた。
「いてえ!? なんだよちひろ!?」
「…あ、わりい、つい」
「変なやつ。って、見た目女しかいねーなここ。なんかいづれえ」
中河原くんが「おえー」とか言って、でもそれは冗談だってわかってるから、ぼくも笑い返した。
ちょっとだけ胸が痛かった。
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