ニジュウ ハクア
僕は夢を見た。それは過去の記憶だ。マコトとまだ知り合って、それ程年月が経っていない頃の記憶の夢。
その時、僕はすごく悲しいと思っていた。何故かは、今ではもう思い出せないけれど、ともかく僕は悲しかったのだ。
だからかもしれない。だからマコトに哲学的ゾンビの事を聞いたのかとしれない。哲学的ゾンビとは、思考パターン、人格、見た目だけでなく、細胞レベルまでが人間と同じでありながら、自意識は人間を模しているという存在だ。
嬉しい、悲しい、寂しい、楽しい……喜怒哀楽の全ての感情を、哲学的ゾンビは他の人間と寸分違わずにまるでそう感じているかの様に振る舞っているのだ。他人からは笑っている様に見えていても、哲学的ゾンビはそう見せているだけに過ぎない。
とても下らない思考実験の一つだ。現実味がないといえば、それはあまりにも主観的過ぎる感想だが、非現実的ではある事に変わりはない。
けれど僕は愚かにも聞いてしまったのだ。マコトに。
『哲学的ゾンビは人間なのか』
マコトの答えは、決まり切っていた。何故ならマコトは正しいからだ。間違いを間違いだと主張出来るのが彼だ。
意識を装う哲学的ゾンビを、マコトはどう思うのか。それは僕にとっては明確なまでに知り切った質問だった。
「カズヤさん、起きてください! カズヤさん!」
「ん……何だよ」
廃村にある一番マシな家屋で眠っていた僕は、ニナに揺すられてようやく目を覚ました。何だか頭が重い気がするけれど、取り敢えず僕はニナに言われた通り身体を起こすことにした。
ふう、と息を吐き出してなおも肩を揺するニナの方を見た。
「……えーと」
言葉に詰まった。何故なら、ニナの隣に見知らぬ少女が立っていたからだ。その少女は空みたいに澄んだ水色の髪の毛で、その分け目から覗かせた青い瞳でこちらを見つめている。背丈はニナとほぼ同じだ。全身を包帯で包んだその少女は、一見するとただの人間にしか思えないのだが、髪の毛を押しのけて額に生えているソレがあまりにも異質だった。
角。紛れもない角だ。左の額に三本、大中小それぞれ大きさの違う角が生え揃っている。
僕は口をパクパクさせたままニナの方を向いた。
「ニナが起きたら既に居たのですよ」
いや、別にそこに説明は求めていない。
「じゃなくて、この子は何者?」
「ハクアはハクアだよ!」
ニナの代わりに少女が元気よく自己紹介をした。ハクアと名乗った謎の少女は笑いながら立ち上がると、僕とニナの周囲を走り回る。
「多分なのですけど、この子鬼族だと思うのですよ」
「鬼族? 鬼族ってあの鬼族?」
我ながら馬鹿らしい質問だとは思うのだが、それでも聞かざるをえない。だって僕の想像していた鬼族とは全く違うのだから。
「てっきり、巨体でもっと怖そうなのと思っていたから」
「ニナもそう聞いていたのですよ」
僕の言葉にニナも眉を潜めて腕を組んだ。相変わらずハクアは走り回っている。
「ニナは会った事がないのか?」
「はい。お母様は会った事があるそうなのですが……それでも、お母様から聞いていた鬼族の特徴とは全く違うのですよ」
どうやらニナも戸惑っているようだ。彼女の首飾りがとても綺麗に光りながら、揺れている。さて、困った。
「……痛い、痛い痛い痛い!」
「あはは!」
当人は意にも介さず僕の髪を掴んでまるで操縦する様にして左右に引っ張る。とても無邪気で元気が良いのは結構な事だ。
「あーほら、ハクアちゃん、駄目なのですよ」
見兼ねたニナがハクアを呼び止める。そして彼女の腕を掴んで引き寄せると、自身の前に座らせた。こうして見ると仲の良い姉妹にしか思えない。
「えーと、君はどうしてここに居るの?」
「ママに会いに来たの!」
ハクアはとても元気良く返答した。ニナに抱きかかえられた彼女が青い髪を撫でられながら笑った。腐った木の匂いが鼻をくすぐる。
「地上に出るのはパパから駄目って言われてるから、皆眠っている時に出できたの!」
ママに会いに来た。そしてわざわざ「地上」という単語を使ったからこそ、今の僕に連想させたのは『大地の裂け目』という言葉だ。鬼族の住処から出できたのだとすれば、やはりこのハクアは鬼族であることに間違いはなさそうだ。
「君が来たのは、『大地の裂け目』って所?」
「うん、そうだよ」
「じゃあ、やっぱりハクアちゃんは鬼族なのですか!」
ハクアの肯定にニナは驚いた。この子が鬼族だというのは事実の様だ。
「パパが心配してるんじゃないのか?」
「うーん。でもママに会いたいの。パパはママが地上に居るって言ってたから」
どうしたものだろうか。ママと言うからには、この子の母親ではあるのだろうが、地上に居るというのはどういう意味なのだろうか。しかもハクアの口振りから察するに、ママなる人物には会ったことがなさそうだ。
一時的に地上へ出ている可能性も考えたが、取り敢えず僕はそれを否定した。
「取り敢えず、『大地の裂け目』まで案内してくれるかな。それから君のパパに会って、ママに会えるよう話してみるよ」
「ほんとに! 良いよ!」
嘘ではないが、何だかこの子を利用しているみたいで少し心が傷む気がするが、今は『大地の裂け目』に行く事が先決だ。それに、ハクアのパパが今血眼になって娘を探しているかもしれない。
安全に送り届けるという意味でも、今はこの子を保護していた方が良い。
「オリガはそういえばどこに?」
「外で見張りをしているのですよ」
見当たらないオリガの所在を確認した僕はまだ目覚めたての身体を持ち上げると、外へ出ようとした。先ほどまでの話を彼女にも説明しよう。
だが僕が外へ出る前に、オリガが中へ入ってきた。とても急いでいるようで、額には汗をかいている。あまり見ない彼女の姿に首を傾げていると、オリガが口を開いた。
「人間の集団が近くに!」
「魔物達を見失いました!」
部屋の影から隠れるようにして周囲を観察していると、低い男の声が聞こえた。少し顔を出してみると、男は近くにいたもう一人の男の元へ走り寄っていた。顔に入れ墨を彫ったその男は転がっていた岩に座り、一丁の拳銃を手の中で転がりまわしている。
「……探せ。まだ近くにいるはずだ。良いか、取り逃がすんじゃねえぞ」
「はい!」
その言葉に奮起したのか、複数の部下らしき男達が一斉に散らばった。なるほど、どうやら後を付けられていたみたいだ。
「どうする」
背後に居たオリガが少し焦った風にそう言った。いつも沈着冷静な彼女がこうやって焦燥しているのは少し珍しいが、まあ人間を目前にしてしているのだから仕方のない事かもしれない。
「相手は丸腰だ。交戦を――」
「いや、ここから離れよう」
「何故っ……何故だ」
声を荒げようとして、すぐさま言い直したオリガの不満そうな顔でこちらを覗き込んでいる。まあ、彼女の胸中が全くわからないという訳でもない。走り寄れば母親の敵とも言える人間が居るのだから、オリガとしても戦いたいはずだ。
「この近くに多分、『大地の裂け目』があるかもしれない。ここで戦い始めたら、鬼族が警戒して僕らを歓迎しなくなるかも」
「それは知っている。だが」
オリガが一度深呼吸をして、ニナと手を繋いだまま真っ直ぐな瞳で僕らを見ているハクアに視線を向けた。先ほどこの子が鬼族である事を端的に説明したが、納得いかないとでも言いたげにオリガが溜め息を吐いた。
「だが、信じられん。私が母上から聞いていた鬼族とはあまりにもかけ離れすぎている」
「それはニナも言っていた」
やはりオリガにとってもこのハクアという少女が本物の鬼族だとは信用しきっていない様だ。まあ、僕も正直信じられはしない。けれど、こんなに小さな女の子が初めて会った僕らに嘘を吐く程狡猾だとは思えない。
「とにかく、戦うのは最終的な手段だよ。もしも追い詰められた時、どうしてもしようがないと感じた時の手段」
パッと見て、あの男達の人数は十三人程度だった。狭い路地が多かったりすれば、囲まれてしまう危険性も考慮するべきだが、こんなに広い場所であればその心配はあまり必要なさそうだ。幸い、瓦礫の山だったり家屋が並んでいるおかげで隠れるのは難しくはない。
「身を隠しながら『大地の裂け目』に近付けば良い」
「それで本当に逃げ切れるとでも思っているのか?」
まあ、正直上手くいくとは考えていない。けれど、戦うという事は少なくとも死者が出る可能性があるという事だ。まだ僕には、人間と戦う覚悟がない。何回も死んだりはしたが、それは僕自身の力を知る為でもあり、別に戦いをしたからではない。
もしもニナやオリガ、ハクアの誰かが捕らえられた時、僕は果たしてあの屈強そうな男達を倒せるのだろうか。いや、殺せるのだろうか。
「……戦いはなるたけ避けたい。頼むよ、オリガ」
僕は切実に願った。右のポケットにはエレオノーラから貰った水魔法の紙が数枚入っている。これがあれば、死んだとしても次の僕が生まれる。際限なくコンティニューし続ければ、男達をいつかは殺せるかもしれない。最強の必勝法は挑み続ける事なのだとすれば、僕のこの力はまさしく打って付けとも言える。
だが確信がない。今の僕には、何が何でも鬼族の住処へ行こうとしている。けれど、その次の僕が本当にそう思って行動するのか、確信が得られないのだ。もしかしたら性格が一変して、ニナ達に危害を加えるかもしれない。皆を犠牲にしてまで、逃げようなんてズルいやり方を行使するかもしれない。今の僕と次の僕が、同じ思考をしているのか、同じ行動をするのか、記憶が受け継がれるのか、まだ確証がない。
僕は僕を信用できていない。だから、死ぬなんて事は、今は出来るなら避けたい。
「……わかった」
大きな溜め息と共にオリガがそう言った。良かった、と僕も「ありがとう」と短く礼を口にすると、男達が居た場所とは反対側へ向かう。人一人分が通り抜けられそうな穴が壁にあるのを見つけて、その場所を指差すと三人に顔を向けて言う。
「ここから出よう」
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