ナナ エレオノーラは語る

 エレオノーラ・ルメリオ・イヴァン・オストロウモフは妖精族の長として育てられた一番下の妹だった。剣を、魔法を母と二〇数人の姉に教えてもらいながら。森の中は決して広くはないが、それでもエレオノーラにとっては楽しい遊び場でもあった。

 だから森の中に留めておくべきだった。母と姉達から散々言われていた。「森の外へ行ってはいけない。外は恐ろしい人間が居て、私達の姿を見れば捕らえようとする」と。

 けれどそれでもエレオノーラは知りたかった。外の世界がどうなっていたのかを。森の中だけしか知らないエレオノーラの世界が、明るくて美しい世界が広がっているのではないかと、当時の彼女はそう考えていた。

 ある日の晩の事だった。誰も彼も寝静まった夜中に、エレオノーラは一人サークル状の住まいから抜け出した。走って走って、そして森の外へ出る事が出来た時、とても嬉しかった。

 これがエレオノーラの知らなかった世界。明るくて美しい世界。

『おいおい、妖精族が自分から出て来たぜぇ?』

『はは、こりゃ良い。待ってた甲斐があったもんだなぁ』

 けれどそんな事は全く無かった。暗い夜空に焚き火を囲んだ人相の悪い男達がエレオノーラを見て笑う。邪悪に声を上げながら。

 逃げなくては、エレオノーラはそう直感して人間から背を向けて森に入ろうとしたが、それは叶わなかった。

『おい、待てってば!』

『痛い! 放して!』

 男がエレオノーラの長い金色の髪を無造作に掴んだ。グイ、と引っ張られたエレオノーラの身体が自然に持ち上がった。

 痛みに悶える彼女を、男達は取り囲む。腕を、脚を、腹を、胸を、顔を触られる。まるで値踏みでもされているかの様に。

『ひひ、こりゃ良いや。上玉だぁ。高く売れるぜぇ』

『いや、放して! 放してよ!』

『おい、動くんじゃねぇ!』

 ゴッ、と腹部に痛みが走る。男の一人が拳をめり込ませる。とても痛くて、エレオノーラは肺にある息を強制的に吐き出されて思わず咳き込んだ。

 怖くて痛い。だからエレオノーラは泣き喚いた。身をよじって何とかしようとするが、とても力では敵わない。

『この羽、別にしちまった方が良いじゃねぇか?』

 男が言った。まだエレオノーラの背中に羽が生えている。透明で綺麗な羽だ。母と姉達が「あなたの羽が一番綺麗よ」と言ってくれた、大切な羽だ。

『やめて! やめてよ!』

 必死に訴えるが、男は笑いながらエレオノーラを地面に叩き付けた。手足を封じられ、口に土が入る。それでも抵抗するエレオノーラの背中に激痛が走る。

 羽を強引に掴まれて引っ張られる。ブチブチと音を立てて羽が毟り取られていく。嫌だ。嫌だ。

 エレオノーラは涙を流す。痛いからではない。

『やめ……て』

 男達は嘲笑った。完全にエレオノーラの背中から取られた羽を握り締めて笑った。卑劣で下劣に大声を上げて笑う。

『ルート・イルマ・インヌレイズ』

 ズァッと光輝いた。光線の様な物が男達を襲う。そして覆われた光線に戸惑った男達の上半身が熱線に耐えられず溶けて消える。残った下半身が自我を忘れてバタバタと倒れた。

 後に残ったのは痛みで蹲るエレオノーラのみだった。

『エレオノーラ!』

 優しく柔らかい声が聞こえる。母の声だ。そう思った直後、エレオノーラは安堵する。それはとても心地良くて。

 身体を持ち上げて、目の前でこちらを心配そうに覗き込む母の顔を見てエレオノーラはボロボロと涙を溢す。

『駄目って言ったでしょう!』

『ごめん、なさい……ごめんなさい』

 母も泣き出しそうになりながら、力なくそう怒るとエレオノーラを抱き締める。暖かくて気持ち良い。

『私の羽が……母さんから貰った羽が……! ごめんなさい、ごめんなさい……!!』

『エレオノーラ……』

 エレオノーラは泣いた。母の胸の中で泣いた。止めどなく溢れる涙が、母の服を濡らす。嗚咽を漏らしながら、そして自分のしてしまった事を悔いながら、エレオノーラはひたすらに謝り続ける。

 母は黙ってエレオノーラの頭を撫でる。それが凄く心地良くて、エレオノーラは身を預けながら泣きじゃくった。何分も、何時間も。




『嫌だ、行かないで母さん! 姉さん!』

 エレオノーラが羽を失ってから数年後、エレオノーラはまた泣いた。彼女は自分自身で思うよりも感情的だ。だからまた同じ様に泣いて母達を止めようとした。

 いつもとは違う母と姉達のただならぬ雰囲気が、とても怖かった。母はエレオノーラの目線に合わせると、優しく言った。

『エレオノーラ、良い? あなたはこの妖精族の長になって、この森と、やがて生まれるあなたの子供達を守らなくちゃいけない。だから私達はそんなあなたを守る為の戦いに行かなくちゃいけないの』

『嫌だ! 嫌だよ! ここに居てよ、母さん、姉さん!』

 母と姉達は、他の種族の魔物らと結束して人間と戦うと言っていた。けれどエレオノーラには何一つとして納得が行かなかった。だって今止めなければ、もう二度と会えない気がしてならなかったから。

『エレオノーラ。あなたももう母親になるのよ。だからこうやって我儘出来るのは、これで最後』

 母はその細くて長い指でそっとエレオノーラの涙を拭き取った。とても優しくて綺麗で儚くて。彼女は唇を噛んで母を見る。

『あなたはこの森を守って、それで私達が帰ってきた時にあなたが守り抜いた子供達と会わせて。ね?』

『っ、うん……』

 いつまでも子供ではいられない。これ以上母を困らせたくはなかった。だからエレオノーラは頷いた。渋々と、強かに頷いた。

『それじゃあ、エレオノーラ。良い子でね』

 母が腰を上げると、背を向けて歩き出した。姉達はこちらに手を振りながら、母の後を追う。やがて皆がエレオノーラから背中を見せると、激しい孤独感が彼女を襲った。

 行かないで欲しい。追い掛けてまた駄々を捏ねれば、母達は言うことを聞いてくれるかもしれない。だけれど、それだと母を困らせてしまう。安心してこの森を任せた母にまた心配されてしまう。

 エレオノーラは伸ばしかけた手を握ると、目をゴシゴシと擦る。への字に曲がった口と、腫れた目で彼女は母と姉達の背中を見る。

 守ろう、この森を、そして私が生んだ子供達を。またあの笑顔が見たいんだから、きっと守り抜いて安心させるんだ、と。エレオノーラは決心した。

 それから何十年、百何年と時間が経った。子供達はスクスクと育ち、次期族長のニナも魔法の実力を上げている。

 けれどまだ、母と姉達が帰ってこない。

 それがまだ、心残りだ。

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