イチ 現実世界

 僕は字を読むことが好きだ。哲学書、論文、教科書、小説、果ては絵本まで。物語の内容や、作者が伝えたいことなんかはあまり重要視していない。活字中毒患者の僕にとって思考を停止して字を読むのは何だか僕自身でも気色悪いと感じてしまう。

 それでも片時も離せない本を僕は登校途中のバスの中で読もうとバッグから取り出して開く。確か今日は様々な思考実験を記したそれらしいが、実はもうある程度読んでしまっている。

 一七〇ページある本を開くと、丁度題目の『スワンプマン』が載っているのを見て僕は早速本を閉じようか迷った。もうこの話は耳にタコ、いや瞼が皮脂で覆われそうなくらい知っている。

 雷に打たれた男が沼に落ちて死ぬ。そしてその直後沼に雷が落ち、男が生まれる。外見や性格だけでなく、遺伝子情報までも死んだ男と全く同一の沼男は、自分が沼から生まれた男という事を知らないまま家に帰り、風呂に入り、寝る。そして死んだ男と同じく会社へ行き日常を送る。果たしてその沼男と落雷に遭った男は同一人物と言えるのかどうか。

 非常に面白い話だが、残念ながらこれにはこの思考実験を生み出した当人によって解答が出されている。勿論、その答えが十割の信用性と説得力があるとは限らないし、反論する者だっている。だが、答えが初めから用意されている思考実験など、議論する意味が本当にあるのだろうか。

「はぁ……」

 まただ、僕は思わず溜め息を漏らした。僕は性格が悪いらしい。問いかけや言葉の意味を捻じ曲げて理解しようとする。曲解してしまうこの煩わしい性格がどうにも僕自身好きになれない。もう本を読むのはやめて、大人しく外の景色を見ていよう。僕がそうしようとしていると、バスは高校からやや離れた停留所で停まる。

「よっ、カズヤ」

 僕が窓際に座っていると、隣からマコトが声を掛けてきた。小学校の頃からの腐れ縁のマコトは、唯一と言っても良いくらいには僕の親友だ。

「おはよう、マコト」

 僕の隣に座る彼には素直に挨拶をすると、「おう」と白い歯を臆面もなく剥き出して笑った。朝から見るその清々しい返事に、何故だかこちらの気分も心地良くなってくるのはまるで魔法でも使われたかの様だ。

 平均的な身長の僕に対してマコトは少々背丈が伸びていて、制服の上からでは分からないものの鍛えている為か身体は引き締まっている。

 運動神経の良さ故に、彼は特定の部活動には所属しておらず、欠員だったり大事な試合での助っ人だったりで駆り出される詰まるところ便利要員として毎日様々な部活に参加している。

「今日は朝練とかなかったんだな」

 だからこそ不思議に感じた。大会に出る、と言っても流石に素人のマコトは予約の入った部活の朝練には必ず一週間前から入っている。——いや、本来は一週間どころでは足りないのだが、それであっさりと優勝したりするのだからマコトは類稀なる天賦の才の持ち主なのだろう。

 ともかく、帰宅部でありながらも多忙な彼とこうやって朝に会うのは何だか久しく思える。首を傾げていると、それがさとマコトは前置いた。

「参加するはずだった部活の部員が全員風邪で大会は棄権したらしいんだよ。それで暇になったって訳」

「成る程なぁ。で、その部活っていうのは?」

「茶道部」

 何だそれ。コイツ、運動部だけに絞ってるんじゃなかったのか。というか、茶道部の大会って何なんだ? 茶筅の回転数とかでも競うのだろうか。よく分からないが、取り敢えず成る程、そういう理由があったのか。

「ま、正座とか苦手だし正直ラッキーとは思ってたけどな!」

「根本的にその申し出断っておけよ……」

「お、カズヤまた読書に耽ってんだな」

 僕のツッコミにマコトは華麗に避けると、閉じることを忘れ去られた手元の本に注目した。

「お前この間の朝よく分からん絵本読んでたってのに、今度はお堅そうなやつなんだな。んー? 『色取り取りな思考実験たち』ぃ?」

 僕から本を半ば強引に取ったマコトが棒読みで表紙に書かれたタイトルを読み上げた。あまり大きな声で出して欲しいタイトルではないけれど、こんな田舎の朝っぱらに本数の少ないバスに乗っているのは運転手を除いて僕とマコトだけだ。

「実際には出来ない様な実験を頭の中でやって、その結果がどうなるのかって議論する話だよ」

「ふーん、色々あるだなぁ。お前は凄いよ、こんなに読書ばっかしてて頭痛くなんないのか?」

「いや、ならないよ」

 僕の読書なんて読書とはそんなに言えない。物語の内容や主旨を理解していても、それに対しての意見や感想など持つ為に読んでいる訳ではないのだから。

 ともかく、と僕はマコトから本を奪い返すとバッグに仕舞う。

「あ、そういえばさカズヤ。ヒヨリからメール来てないか?」

「ヒヨリから?」

 話題を変えたマコトがしかめっ面でその名を口にしたのは初めてではない。むしろ彼女の名前を呼ぶ度に不機嫌そうにしている気がする。別にヒヨリの事が嫌いな訳ではないのは知っているが、大抵彼女から僕やマコトに連絡をするのは面倒な事が多い。そしてそれは大抵大人に怒られる。

 ヒヨリは高校二年生でありながら剣道部の主将を務めている。彼女の家も有名な剣道の稽古場を経営しており、その実力は折り紙付きだ。段位は三段だと言っていたが、どうやらこれは高校二年生までの年齢で取得出来る最高位らしい。

 祖父に仕込まれたが故か、どこか男勝りな部分が多い。山への探検だったり、廃線を辿り歩いたり、そういう事をヒヨリが率先して始める。そして僕とマコトはその後ろで強引に連れて来られる。

 彼女は見た目だけで言えば美しく、可憐で、セミロングの黒髪が太陽に照らされると眩く輝く。外見は深窓の令嬢なのだが、粗雑な性格はやはり食い違っていて違和感があるが、それがヒヨリの長所とも言える。

 そんなヒヨリからのメールに、僕は正直頭痛が発症し掛けそうになりながらもポケットからスマートフォンを取り出した。画面を見ると、『ヒヨリ』と書かれた文字にいよいよ頬の筋肉が引きつる。封筒のアイコンをタッチして空白の件名のその中身に目を向けると、そこにはこう記されていた。

『コンヤ ガッコウニテ マタレヨ』

「何だこれ」

 いや、本当に何なのだろう。今夜、学校にて待たれよ。何故メールで電報風に送ってきたんだ? ヒヨリは携帯会社とメールの料金を一文字単位で支払う契約でもしているのだろうか。

「どうするよカズヤ。行ったら面倒くさそうだし、行かなくても面倒くさそうだぞ、これ」

「確かに……」

 約束を破りでもしたら、家から真剣を持ち出して実践練習と称してきかねない。

「大人しく学校にいるか」

「まじかよ。まあ、いざとなったら逃げるか!」

「はは……」

 割と笑えない。もしかしたら本当に逃げ出さないといけない要望をしてくる可能性があるからだ。僕とマコトは揃ってはぁ、と溜め息を吐いた。

 けれど正直、僕自身はそこまで嫌ではなかった。マコトとヒヨリと、そして僕。この三人が一緒になるのは何週間ぶりだろう。僅かな期待感が僕の胸で踊っているのを感じながら、その日の朝を迎えた。

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