紫煙

有金御縁

第1話

 会社の駐車場脇に設置されている透明なパーティションで囲った喫煙所の中でスーツ姿の女性紫美穂むらさきみほがイラついたようにパンプスの指先でトントンと地面を叩きながらタバコを吸っては鋭い目つきをさらに細め苦い顔を浮かべていた。そのやりとりは若干25歳になったばかりの女性がやるには少し老け込んでると言われても仕方がない。


「はあ~・・・」


 ため息と共に煙を吐ききっていくその煙はため息まじりなのか、なにか憂いの混じる広がり方をした。

 それを見て今度はため息だけを吐く紫。

 タバコを右手の人差し指と中指を伸ばして挟んだまま、掌で肩ほどに伸びた黒い髪の毛をガジガジとイラついたように掻いた。

 タバコを中ほどまで吸ったあと喫煙所の真ん中に設置されているスタンド灰皿に、タバコをぐりぐりと押し付け火を消し、その消した吸い殻を苦々しく見つめた。


「チッ」


 紫は吸い殻に向かって舌打ちをして喫煙所から逃げるように出る。


「あ、あの・・・」


 喫煙所から出ると後ろから声を掛けられた。

 逃げるように出たため近くに人がいると思ってなかった紫は立ち止まって声がしたほうを睨みつけるように見ると、そこには少し白髪も交じり始め見た感じ40代と思われる男がいた。

 男はスーツ姿だがYシャツは少しよれていて、背は紫よりも高くはあるが若干猫背で緊張しているのか首後ろに片手を当て愛想笑いを浮かべており、その姿はどう見ても優男そのものである。


「なんですか?」


 相手がナヨナヨした感じに見え今の自分をさらに苛立たせるだけだと思ったのも紫は若干険のある口調で返した。

 それでも男は愛想笑いを崩さない。


「あ、いえ、その、いきなりですみません・・・。わたくし御社と1ヶ月前から取引をさせて頂いている会社の者でして」


 男はスーツのポッケから取り出した名刺入れから取り出した名刺を両手で差し出した。


「岡山啓介と申します」

「はあ・・・」


 紫は不審がりながらも一応社交辞令として名刺を片手で貰い受けた。


「あの、それでなにか?」


 取引先の人であったとして自分は一介の事務職員で直接取引の商談をする相手ではない。なのになぜ声をかけてきたのか疑問に思うところあった。


「あ、えとですね、そのいきなりこんなことも失礼かもしれないんですが。その、なんでいつも喫煙所から出てきたときに嫌そうな顔してるのかなって思いまして・・・」


 岡山という男も必要以上に取引先の人に仕事以外のことで話かけるのはあまり良くないとは分かっているのであろう。若干しどろもどろになりながら言った。

 その言葉に目を紫は見開いた。


「・・・見てたんですか?」


 自分のプライバシーを見られた気分になってムカムカが湧いてくる。

 かなり不機嫌になっていることを察した岡山は両手を横に振って弁明する。


「いやあの決して覗いていたとかじゃなくて! わたしが御社との会議に来させて頂いたときにちょうどアナタが喫煙所から出てくるところが見えまして・・・。その、ここのところわたしは毎日のように同じ時間に御社に来させて頂いておりますので」


 おたおたする岡山を見てなんか自分がつっかかてるような感じに思えて紫はつまらなさそうに鼻を鳴らした。


「ああ。私のタバコ休憩の時間もいつも同じだからそういうことか」


 納得したように言うと岡山はホッとした表情を浮かべた。


「そ、そうなんです。いつもわたしが来たときに喫煙所から出てくるのが見えまして」


「几帳面な人ですね」


 紫が皮肉まじりに言うと、岡山はまた愛想笑いをした。


「あはは。それはお互い様ですよ」


 軽く笑う岡山に紫は内心別に褒めてねえと毒づきながらわざとらしく腕時計を見た。


「っと。すみませんけど、時間なんでそろそろ行かないと」

「あ、わたしもでした」


 岡山もハッとして自分の腕時計を確認して言った。


「それじゃこれで・・・って、あれ?」


 紫はもう別れたつもりが自分の横に並んで歩く岡山を見て一瞬ワケが分からなくなったが、すぐに言われたことを思い出した。


「あ、そっか。こっちに用があって来たんですもんね」

「あはは。そうですよ」


 二人で並び歩きながら会社の入口に向かう。

 お互いにだんまりだったが、途中紫がふと疑問に思った。


「そういえばなんであんな隅っこに車停めてるんですか? 来客用なら入口近くに停めるとこありますけど」

「いや~、なんか停めづらいといいますか。恐れ多いといいますかね~。隅のほうが結構空いてたものでついそっちに停めちゃうんですよ」

「はあ。そんなもんですかね?」


 首の後ろに片手を当て恐縮したように応えているため紫は車の運転が下手なのか、という言葉を飲み込んでそんなアタリを心の中でつける。


「あはは・・・」


 岡山も紫に信じてもらえてない感じを察して弱々しい愛想笑いをするだけだった。


「そ、そういえば。さっき聞き忘れてたんですけど、どうして喫煙所から出てきたときに嫌そうにしてたんですか?」


 せっかく話始めたんだしここでまただんまりになるのもと思い岡山がふと先ほどの話を振ったが、その話題になった途端、紫の顔が固まった。



「・・・なんでそんなこと聞くんですか?」

「え、あ、いや、気を悪くされたならすみません。けど、喫煙してる人ってタバコを吸ってイライラした気持ちを抑えたりするんですよね? それなら吸い終わったあとはスッキリした表情をされてるのが普通だと思って」


 急に冷えた口調になり、まずいと思った岡山はまたしどろもどろになりながら弁明する。

 そんなことをしているうちに二人は会社の入口に着いていた。


「会議は応接室でやってるんですか?」

「へ? え、あ、はい」


 急な話題転換に岡山は戸惑いつつ、思わずそうですと応えた。


「じゃ、ここでお別れですね」

「あ、はい・・・」


 紫は会社に入ったとたんに途端に右のほうに歩いていって自分の部署に向かってしまった。それはまるでお前にはもう用はないとはっきりさせるように。

 応接室は左側にあるためそこで別れるのが普通なのであるが、話途中で急な別れ方をされた岡山は紫の歩いて行ったほうを茫然と眺めながらその場に立ち尽くしてしまった。



 ◇◇◇◇◇



 次の日も同じ時間に喫煙所に向かい吸っては苦い表情を浮かべて吸い殻に舌打ちをかまして外に出た。


「あ、先日はどうも~」


 その声に紫はそういえばそうだと思い出した。こんな奴いたなと若干呆れ気味になる。声のしたほうを見ると岡山が片手を挙げながら挨拶していた。紫は返事をするのも億劫になり、会社に向かいだした。

 後ろから付いてくる気配がしたため振り向かずに前を向いたまま口を開いた。


「几帳面な人ですね」


「あはは。お互い様ですよ」


 皮肉に愛想笑いを浮かべながら言っている顔が容易に浮かび少しイラつく紫。


「あの、また嫌そうにしてましたね」


 その言葉が背中にかかり思わず足を止める紫。その心の中ではなぜまたその話をするんだと怒りがふつふつと湧いていた。


「・・・アンタは、いや、岡山さんはタバコ吸ってます?」


 思わずアンタ呼ばわりしてしまいそうなところをなんとかこらえて敬称呼びで、しかしかなり棘のある言い方をした。


「いえ。今までに1本も吸ったことないです」

「え? ホントに? 1本も?」


 正直これには驚き拍子抜けしたような声を出してしまった紫。思わず振り返って相手がウソをついてないのか表情を伺ってしまうが岡山は昨日と先ほどと変わらずの愛想笑い。


「期待に添えなくてすみません」

「へえ~。稀有な人もいたもんだ」

「最近は吸わない人もかなり増えてきているんですよ」

「でも1本もっていうのは珍しいんじゃないんですか? 友人が吸ってるとこ見たりするとか、吸ってる人に勧められてたりするとか、映画の喫煙シーンに憧れてとか。1回くらい手を出してみたくなりそうなもんですけど」

「あはは。確かにそういうこともあったことはありましたけど、結局吸ってないですね」

「ふ~ん。正直意外ですね」

「え、なぜです?」


 紫にそう言われたのが意外だったのか岡山も驚き表情を浮かべた。


「岡山さんみたいな人ってなんていうか裏では吸ってそうな感じもしましたから」

「そ、そう見えますかね」


 自分のことがそう見られていたことが初めてだったのか戸惑う岡山。


「なんていうか仕事のストレスのはけ口にとか、車を奥に停めるのだって、仕事前の一服を車の中でしてるとこを誰にも見られたくとかも考えられますから」


 運転下手という考えも多少はあったが、そっちもありえんじゃないかと思い始めていたが岡山は否定するように顔の前で手を振った。


「いえホントに1本も吸ったことないです」

「ホントに?」


 紫はまだ信じ切れていなかった。それは自分が喫煙者であることも影響していた。


「ホントです」

「じゃあ1本も吸ったことがないかどうか確かめるためにこれ吸ってみます?」

 

 当然のようにスーツの内ポケットからタバコの箱を取り出して、箱を少し縦に振って一本だけ箱から突き出すようにして差し出した。

 ごく自然に差し出されたため岡山はそのタバコにキョトンとしてからハッとした。


「な、なんでそうなるんですか?」


 紫もその言葉にようやく自分のしていることがおかしいことに気づいてハッとした。


「あ、すみません。これは禁煙してる人に対してやることだった」

「それはそれで随分とひどいことじゃないですか・・・」

「いや禁煙できたって人を見るとちょっとイラつくんで」

「私は禁煙とも無縁ですよ。そもそもまったく吸ってませんから」

「へ~。吸えない自慢、ですか」

「へ? あ、いえっ。別に自慢してるわけじゃありませんよ。ええ。ただ禁煙してる人ってツラいと聞いたことありますからでですね――」

 

 イタズラ心で吸えない自慢なのか、と嫌味たっぷりに言うと岡山は面白いようにおたおたしながら応えた。


「ぷっ」


 その様子に思わず吹き出す紫。


「くくく・・・」


 笑い声は押し殺しているが漏れ出ており、それを見た岡山は目をパチクリしてから緊張の糸を解くように息を吐くとともに肩の力が抜ける。


「と、とにかく、ほんとに吸ったことないですから」

「くくっ・・・ま、そういうことにしときましょうか」

「ええ。そういうことです」


 ちゃんと信じてなさそうだなと若干困り気味の岡山をよそに、紫は息を整える。ふと自分が差し出そうとしていたタバコの箱に気づいて、しばらくその箱から突き出たタバコを見つめ、そのまま静かに口を開いた。


「私が吸ったキッカケはですね・・・元カレの、影響なんですよ」

「え?」


 岡山は急に身の上話をされて思わず戸惑いの声をあげた。しかし紫はそれに構わずとつとつと話を続ける。


「大学生の頃に付きあった奴なんですけど、そいつがチェーンスモーカーだったんです。付き合いだした理由も吸ってる姿がカッコいいって思っちゃったからなんですけど。まあそいつがやたらタバコ勧めてくるんで当然のように吸い始めたんですよ。付き合い始めは良かったんです。タバコにもすぐ慣れましたし元カレも話面白い奴だったし。けどそいつはニコチンが切れると手えつけらんなくなるニコチン依存症だったんですよ。もう暴れる暴れる。ニコチン切れてるのにどこからニコチンパワーが出てんだっていうくらい。ヘビーなスモーカーになってた私も別れる間際になる頃にはそいつも煙たい存在になったから卒業したのと同時に別れたんです。だからそいつと付き合って残ったのは良い想い出なんかじゃない。残ったのはタバコだけなんですよ。だから吸うとさ、嫌でもあいつのこと想いだしちゃうんだよね。で、想い出してイライラするからタバコがやめられないって悪循環」


 最後のほうは自分に言い聞かせるようにしゃべっていた。

 紫が一気にまくし立てるように話していたのを岡山は静かに、ただ静かに耳を傾けていた。


「・・・はあ~」


 紫は顔を下に向けてため息を吐き、自分はなに言ってんだろという気持ちで後頭部をガリガリとかいた。気まずくて岡山と目が合わせられない。


「なんかすんませんね。聞かれたとはいえ一気に話しちゃって」

「・・・いえ」


 岡山は静かに応えた。

 紫はその場から早く去りたくなって腕時計をわざとらしく確認する。


「っと、もう時間だったんだ」

「・・・あの」


 顔を合わせないまま急ぎ足で会社に向かって歩き出すと後ろからまた岡谷に声かけられ立ち止まる。しばらくの間無言の二人。紫が振り払うようにまた歩きだそうとすると



「今、タバコ吸いたい気分ですか?」



 遠慮がちではあったがハッキリと言ったその岡山の言葉に紫はハッとして立ち止まった。そして今自分が吸いたい気持ちなのか考えてみて、そういえば吸いたい気持ちがないとハタと気づいた。


「・・・いや」


 背中を向けたまま否定の言葉を返すと、ホッとしたような息遣いを後ろで感じた。


「良かった~。昔の彼氏さんの話をされてイライラされたらまた吸いたくなっちゃうのかなって思ってしまったもので」


 その言葉に一瞬キョトンとした紫は、おもわず噴き出してしまった。


「ぷっ・・・あはははは」


 笑いながら振り返ってみると岡山はなぜ笑われているのかよく分からず少しだけ困ったような表情をしていた。


「ほんっと几帳面な人ですね」

「え? いや~。お互い様ですってあはは」


 今度は嫌味や皮肉抜きで笑いながら言うと、岡山も釣られて照れ笑いを浮かべる。紫はおもむろに手を差し出した。


「紫です」

「え?」

「名前。まだ言ってなかったでしょ?」

「あ、そういえば」

「紫美穂です。よろしくお願いします」

「あ、これはご丁寧にどうも。わたくし岡山啓介と申します」


 紫の手を握手しながら恐縮したように頭をぺこぺこする岡山を見て紫はまた噴き出してしまった。


「あはははは。知ってますって~」

「あ、そういえば。あははは」




 その場でしばらくの間笑い合っていた二人は休憩時間から遅れてどちらもこっぴどく叱られてしまうのであった。

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