【書籍化決定!】銀鉱翠花のエクドール

嶋森航

第一部

プロローグ

「はぁ、はぁ……!」


 狭い地下通路に苦悶の息遣いが響く。心臓の痛みはもはや問題ではなく、身体の不調に気を向けられる程に余裕もない。振動は頭を煩く揺らし、断続的な目眩に誘う。

 追手は徒党を組んでレトゥアール帝国の破滅と再生を企む組織の一員である。帝都の地下に張り巡らされた地下道を抜ければ、城壁の外側へ落ち延びることができる。

 しかし、この局面において唯一の味方であるホルガー・フバート侯爵が、突如として立ち止まった。


「殿下、どうかお逃げくだされ! ここは某にお任せを!」


 自らの体力の限界を察したのか、息切れは激しいものがある。せめてもの足掻きで、腰の剣に手を添えて迫りくる足音に備えていた。


「無理だ! ここを切り抜けたとして、爺がおらねば私は生きていけぬ!故に爺を置いていくわけには行かぬのだ。ここは逃げて逃げて逃げるのだ!」


 齢九つの童らしからぬ迫真の声に、ホルガーは図らずも瞠目した。追手は無数にいる。それでもこの地下道を抜ければ命を拾える可能性は十分にある。

 殿下ーーヘンリック・レトゥアールは老いて足の遅いホルガーの手を引き、再び走り出した。

 そして一心不乱で駆け抜けた甲斐があり、出口からの淡い光を視認した。しかし、天はヘンリックに味方しない。外の光という幻惑が、胸臆に潜む僅かな慢心を手繰り寄せてしまう。


 光はやがて氷の矢に変幻した。そしてーー大挙してこちらを射抜こうとしているのに気づいた時には遅かった。反射的に目を瞑り、未だ知り得ない痛覚の鋭さに備える。

 だがそれがヘンリックの身体を貫くことはなかった。代わりに庇ったのが誰かは推して知るべきだろう。赤く染まった滴が目前を鮮やかに舞っていた。


「爺!」


 ヘンリックはすぐさま駆け寄った。氷の矢は肩や左腰、右足を深々と貫いている。苦しげな呻き声を上げていた。大粒の汗を顔中に浮かべている。危険な状態なのは明瞭であった。


「爺、死ぬな! 約束したではないか! 共に父と兄を支えて更に広い世界を見ると! 貴族が一度口に出した言葉は何があっても守る義務がある。約束を破るなどこのヘンリック・レトゥアールが許さぬぞ!」


「申し訳……ございませぬ……! 願わくば某も殿下の行先を見たかった!」


「謝るのなら気を強く持て!」


「殿下、聞いてくだされ。今殿下を狙った氷の矢は、決して殿下を殺すためではありませなんだ。おそらくは殿下が殺されることはないでしょう。殿下は連中にとって、国の統治を内外に認めさせるための大義名分にはもってこいの存在にございまする。傀儡として担ぎ上げられ、お飾りの次期皇帝の立場に据えられましょう」


 それが分かっていても、ホルガーの身体は条件反射が如く咄嗟に動いてしまった。万が一にもヘンリックに当たるのを防ぐために。


「何を言ってる、世迷い言ならあとでいくらでも聞いてやる!遺言まがいの言葉を宣うでない!」


「殿下は賢い。きっと分かってくれると信じています。いつか連中は殿下を厄介払いするはずです。何せ先帝の実子なのですから、成長しても王宮に置いていては後の火種になりかねない。適当な理由をつけてどこかの貴族の家に婿入りを強制させられるやもしれませぬ。それでも殿下、その手で帝国の民をお救いなされ。奴らに任せていては民は疲弊し、土地は荒れ果てましょう。賢い殿下ならば必ずやそれができます」


 もはやヘンリックの言葉は耳に届かない。機械のように伝えたい事を喋り続けるだけであった。そしてついにホルガーは事切れた。

 嗚咽が空間を支配する。そんなヘンリックの元に、堂々とした足音が近づいてくる。


「ヘンリック殿下、皇宮にお戻りくだされ。我々は殿下を無碍に扱う意思はございませぬ。さあ、こちらへ」


 ヘンリックは意を決した。乗っ取られた帝国を必ずや奪還すると。そのためには手段を選ばない。

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